ターゲットが上がるのはなぜか

モノを売ることに関わっている人ならば、みな売上目標を持っているだろう。

そして、その売上目標は常に上がって行く。

今までだって精一杯やってその目標に合わせようとしているのに、これ以上どうしろと言うんだ、と破れかぶれな気持ちになる人もいるだろう。

この売上目標は一体どこまで上がっていくのだろう、そしてそれについていける人はいるのだろうか、と不思議に思う人もいるだろう。

目標というものは現場のやる気を引き出すためにあるものだから、ある程度のところで売上目標の上昇が止まらないと、結局、みんなのやる気を削ぐことになるのでは、と心配する人もいるだろう。

会社の偉い人は、目標達成は一つのゲームだからゲームを楽しめばいいんだよ、なんてその場は収めておいて、後になってから目標達成が難しくなってから、現場を追い込んだりすることもあるから要注意である。

さて、しかし、だれも何故ターゲットが上がっていくのかということについて答えてくれる人はいない。

それは、資本主義がそういうものだから、という人もいる。ところが、共産主義下のソ連でだって年々生産目標は上がっていたのだ。資本主義であることは目標が上がっていくことは説明しない。

なぜ、ターゲットが上がっていくのか、それを説明しようと思う。

人は仕事をしている中で、仕事に慣れていく。端的に言えばそれが原因である。

ということは、経験曲線効果によってすべての経済成長が説明されるということか、と思われる人もいるだろう。そういう話ではない。経験曲線効果はほとんど関係ない。

仕事に慣れていくと、仕事にまつわるさまざまな事象は、実感を失って、記号化していく。

例えば新米の医師が患者を初めて死なせてしまったら、その時の実感が非常に鮮烈なはずである。

それが、2回、3回と増えていくうちにその実感は薄れ、記号化していく。死亡1名、という具合に。

それは、果たして必要なことである。医師が患者を死なせる度に極端に落ち込んでしまっていては、医者はやっていられない。医者がいなくなっては患者は困ってしまう。

仕事に慣れることで、それは実感を失って、記号化するのである。実感の喪失がプロフェッショナリズムの要件なのだ。

かくして記号化した仕事は、理論的な思考の対象になることができる。

病気Aの死亡率は病気Bの死亡率の3倍である、というように量と記号で理論的に思考を進めることができるようになる。この思考は死にゆく患者に実感を残しているうちはできない。

理論的に思考ができれば、イノベーションを起こすことが可能になる。

原因Aと原因Bのうちでより死亡との相関が高いのは原因Aだからその原因を取り除いた場合と、そうでない場合で、それ以外の条件を揃えて試験をしてみよう、ということを考えることができるようになる。

そして同時に実感が喪失され、記号化すると仕事にまつわるすべてはただの量になってしまう。量になってしまえば、その背後にある質なんかお構いなしである。

いい仕事から得た10万円も、そうでない仕事から得た10万円もり量から見れば何も変わらない。

そうなれば、量は多い方がいいに決まっている。10万円ではなく20万円を、さらには30万円を、というように、より多い量を求めることになる。

それも全て、仕事に慣れることで実感が喪失し、記号化することによって起こることである。

では、実感というものはそうやすやすと手放してしまって良いものだろうか。手放したくない実感がある人もいるだろう。

しかし、それは出世の障害になる。出世がしたければ、仕事の実感など捨ててしまい、記号のゲームに邁進すべきだ。

一方、出世よりも手放したくない実感とともに生きることもまた選択だ。そのような選択を私は「在野の精神」と呼んでいる。

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