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「戦中の宮古~造られた3つの飛行場~」@宮古島市総合博物館

宮古島にはかつて三つの飛行場があったのだそうです。生まれ育った島なのに、これまで知らずにいた歴史でした。ポスターを見た時から興味をひかれて、宮古島市総合博物館に今週末さっそく行ってきました。

慰霊の日にちなむ歴史のふりかえりとしての展示でしたが、みっつの飛行場という切り口がとてもよかったと思います。ぱらぱらと断片的だった宮古島の昭和期の物語が、一本の線で繋がっていくように感じられました。

※今回の特別展は基本的に撮影禁止です。掲載の写真は許可を得て、著作権利にさしさわりのない展示品を展示風景として撮影しています。

日露戦争でバルチック艦隊が日本に向かっているとの報をサバニで知らせた久松五勇士や、座礁したドイツ商船ロベルトソン号の救出は、いずれも明治の出来事でしたが、昭和に入り、戦時体制にかたむいていく中で美談としてことさらにとりあげられたのでした。
ロベルトソン号の一件をたたえた式典で、宮古島の風景にナチス・ドイツの鉤十字旗がはためくモノクロ写真にはつい眺め入ってしまいました。

米をはじめ生活品が配給制になると、人々は交換券をもって米や酒、マッチなどと交換しにいきました。そのチケットも展示されています。生活に染み入ってくる戦争の影をひしひしと感じられる導入でした。

戦時となって、先島地方にも第32軍下の師団が配属されることになります。このとき宮古島に上陸した日本兵は約3万人。食料のとぼしい島に多くの人がひしめいたため、のちの食料難とマラリアによる大きな被害を出すこととなりました。

宮古島は起伏のとぼしい島であったため、空港に最適とされ、戦闘機が飛び立つための滑走路がつくられることになりました。その場所にかんする資料や当時のようすなどが展示にならびます。

現在の宮古島空港にあたる場所は、もともと百数名の住民がいたそうですが、土地を強制接収され、移住した先もマラリアの被害にあい、現在は集落としても残っていないそうです。七原は七つに割かれ、八原は八つに割かれたと嘆いた言葉が残っているそうですが、現在も使用される宮古島空港に、そんな影の歴史があったのかと驚きました。

宮古島の児童から老人まで総動員して作った滑走路から、特攻機が月夜の空へと飛び立っていきました。1945年7月、すでに総司令官牛島中将が自決したのちのことです。
台湾から宮古島入りした第三次龍虎隊は、18歳から20歳の若者からなる特別攻撃隊でした。8機が出撃命令を受け、うち1機がエンジン不調で不時着、のこる7機は米駆逐艦そのほか艦艇3隻を撃沈させる戦果をあげ、沖縄の海に消えました。
最後の特攻隊となった第三次龍虎隊の7人が操縦したのは、通称赤トンボとよばれる練習機でした。

何か一つ違っていれば、7人の若者も死なずにすんだのかもしれません。
あるいはあらゆるものを差し出してなお、それが国に殉ずる喜びだと価値観を内面化せざるを得なかった島の人々のこと。小さな展示室のいっけんそっけない展示に、心を乱される思いがしました。

展示の終盤はふたたび島の人々の視点にもどります。戦時中の宮古島は、アメリカ軍の上陸をまぬがれましたが、繰り返される空爆と、海上からの砲撃を受けました。当時の方の言葉で、ヤギのフンのように爆弾が投下されたと書かれていたのが印象にのこりました。
何かのついでのように、気張るでもなくぱらぱらとするのがヤギの排泄です。爆発の下でいくつの命が犠牲になるか想像もしない、爆撃機の無慈悲さをこの方は感じられたのではないかと、そんな風に思わさせられる。生々しい言葉でした。

第32軍が司令官をうしなってからも、沖縄を戦場にした戦いは続きました。その経緯で、アメリカ軍は投降をうながすビラを戦闘機からばら撒いたのでした。「一. 此のビラに書いてある方法通りにする人は、アメリカ軍が必ず救けます……」丁寧な日本語で書かれたそのビラも展示されています。

初めの空襲で大神島の集落の半分が焼け、戦争が終わる頃には平良の市街地は焼け野原だったというほど、空爆の被害は大きかったようです。
漲水港に降り立った引き揚げ者たちが、坂道をのぼりきって市街地の東側を目にしたとき、あまりの光景に誰もがことばを失ったといいます。
当時の証言者たちの声が生々しく、また身近にも感じる展示でした。

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以前に「沖縄スパイ戦史」というドキュメンタリー映画を見た時に、終盤でメッセージのように伝えられていたのは、「戦争になればかならず民間人も奉仕を余儀なくされる」ということでした。一方、戦時国際法では軍人と民間人ははっきり区別されており、戦時であっても民間人を攻撃対象とすることは戦争犯罪となります。

しかしシリアの例を見るまでもなく、現実には軍人と民間人を区別することは大変難しく、またそれはかつての太平洋戦争もそうでした。
それでは今、仮に日本が戦争をせざるをえない状況となったとき、軍人と民間人は明確に区別されるのでしょうか。
現在の自衛隊法103条では、任務遂行上必要があると認められる場合には民間の施設、土地、物資を収用し、また必要な業務に民間人を従事させることができるとしています。

軍事空港ができたことで攻撃目標とされたこと。学校施設や労働力あるいは住んでいた場所までも提供しなければならなかったこと。かつてあった歴史を「二度と繰り返さない」という仕組みが、わたしたちの社会にしっかりと設けられていると、はたして言えるでしょうか。

わたしの住む宮古島は、南西陸自配備の計画をうけて陸自駐屯地を上野千代田に建設、2019年度からミサイル部隊を受け入れました。与那国島では住民投票をへて陸自受け入れが決まりましたが、宮古島市は住民投票の申し入れを市議会が否決し、市長の明確な意向もしめされないまま、配備計画だけが進められています。

今回の展示と重ねて、しぜんと今ある宮古島の姿を思い浮かべてしまうのでした。軍事機能を受け入れることと、その宿命を背負う覚悟が、この島に住む人のどれほどにあるのでしょうか。賛成でも反対でも、あるいはどちらでもない、でも、市民ひとりひとりに自ら問いかける機会があるほうが、民主主義社会に生きるわたしたちとして理想の姿だろうと思います。

個人的な感想をはさんでしまいましたが、企画をされた方の思いがひしひしと伝わるような展示でした。どれほどの人が足を運んでくれるでしょうか。今回のような思いのこもった展示を、ネットの片隅にでも残しておきたいと思ってnoteに書き留めることにしました。

企画展のほかに、常設展は宮古島の民俗・自然の展示があります。
以前は民俗歴史の展示を見たので、今回は動植物の展示を眺めました。ウグイスやサシバの鳴き声も、最近は聴かなくなったなと思ったり。
水辺の鳥や虫たちの展示を眺めていると、梅雨が明けたらまた池間湿原にあそびに行きたいなと思ったのでした。

宮古島市総合博物館 平和展「戦中の宮古~造られた3つの飛行場~」
2019年5月24日(金)〜6月25日(火)
※月曜休館
※6月23日(日)慰霊の日は入館無料
※入館料 大人300円
宮古島市ホームページ 総合博物館

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