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仔馬のこと

冬のはじめの朝、名もない牧場で一頭の仔馬がなくなりました。
産まれて間もなく母馬をなくして衰弱しているところを、気にかけた方のお声掛けで数人があつまり、遠く北海道から取り寄せたミルクでつないだ命でした。

私も短いあいだお世話をさせていただきました。仔馬がなくなったちょうどその日、週刊誌に宮古島在来馬の飼育状況が問題として取り上げられ、翌々日には地元紙でも大きく報道されることとなりました。

このノートは何かを告発したり、メッセージを伝えようと思って書くものではありません。
私じしんの気持ちの区切りとして文章にまとめたいという思いは、前々から感じていたことであり、個人的な心情をつづるものになります。

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近所の仔馬の話を聞いたのは今年の6月のこと。馬小屋をたずねると、まだ体の小さい仔馬は地べたに座っていて、私に気づくと立ち上がり、よたよたと近づいてきました。
はじめは人用の粉ミルクからスタートしたミルクやりでした。あげるほうも飲むほうも拙いものでしたが、一回に飲む量も次第に増えて、あっという間に一本飲みきるようになりました。

ミルクが待ちきれず、前足で地面をカツカツたたいて催促する姿も、愛らしいものでした。飲み足りない日には、牧場にいるもう一頭のオス馬のおなかのあたりをまさぐるのですが、父親がわりのこの馬はとても穏やかな性格で、仔馬を追い払いもせず、甘えさせてあげるのでした。

小さな牧場から少し離れて、私たちの住む地域にとって重要な御嶽があります。人の話では、なくなった人は、木々の茂ったその小高い丘へと向かって歩いていくのだといいます。母馬もその道を通っていってしまったのかと、時折考えました。そうして、ミルクを飲もうと一生懸命の仔馬を見て、この子はもう大丈夫だと思った記憶があります。

飼育者の方と親しい人に仲介に立っていただいて、ご挨拶に行ったのもこの頃でした。仔馬の世話をしたいという申し出に、とても喜んでいらっしゃいました。衰弱していた仔馬のことで批判の電話が市や保存会に入るようになると、飼育者の方がピリピリする時期もありましたが、淡々と通い続けることで、細かいことには目をつぶっていただいたのだと思っています。

支援者の方々から届けられた三ヶ月分のミルクをすべてあげ終わった8月、ぶじこの日を迎えられたことを、大変うれしく思いました。競走馬などに比べて運動量が少ないだろうと思い、濃厚飼料をおさえて乾燥草に切り替え、二頭に会いにいくペースも二日に一回ほどに減らしました。基本的には飼育者の方が毎日青草を与えているので、私のすることは気持ち程度の乾燥草と、時おり減っている水を満杯にするくらいのことでした。

この頃がいちばん楽しい時期だったと思います。飼育者の方がそれまで牧場を仕切っていた柵をとりはらって、小さな牧場が少し広くなりました。私が車を牧場に横づけて止めると、お義父さん馬がヒヒン!とないて牧場の向こう側から駆けてくる。柵をこえて顔を出して、私が車から降りてくるのを車窓の向こうから眺めて待つのです。

赤茶色の毛が生え変わって少し大人に近づいた仔馬は、とてもやんちゃで、ひっくり返って背中でごろごろするうちに、柵をくぐって外に出ることを覚えました。柵のこちらと向こうで世界が違うことを感じていたのでしょうか。外にでると開放的になって、畑のわきの野道を駆け回ったりしました。

はじめは私だけでなく、おとうさん馬まで動揺したようです。柵の中に戻したときには、叱りつけるように仔馬のうなじを噛む仕草をして...仔馬が遠くにいってしまうのではないかと心配したのかもしれません。

そのうち畑のきびの芽を食べたり、公道にでることもしばしばとなって、飼育者の方が仔馬をつなぐ経緯になったのでした。柵の長さは片側40mほどあり、すべて補強して塞ぐには大掛かりになるだろうと感じました。布の網でも張れたらいいですね、と話すと、そうしようと思っていると話されていました。

ロープは足に絡むほどの長さではなかったのですが、餌場の上にあがろうとしたことが原因で、骨折につながってしまったと聞いています。紐をつないで3日後のことでした。

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馬の骨折はゆるやかに死につながるということを知ってからも、まだ若い馬だから骨はつながるはずと信じていました。本当にやんちゃな子で、骨折してからも、柵の間をくぐって外の世界を楽しんでいたようです。

時おりぱらぱらと雨の降る曇りの週末、馬たちに会いに牧場に行くと、仔馬が骨折した足をかばいながらも、ひょこひょこ近づいてくるのを見て驚きました。同時に、少しずつ良くなっているのかもしれないと思ったのでした。

乾燥草をあらかた食べ終えると、おとうさん馬が甘えるときそうするように鼻を近づけてきたので、撫でてあげました。気分の良くなったおとうさん馬は仔馬にもじゃれて、その拍子に仔馬がぺたんと地面にたおれてしまいました。

骨折しているため、起き上がろうとしてもうまくいきません。支えて立たせようとするのですが、ダメでした。雨が降ってきても、私も仔馬もそこを動くことができませんでした。一人でなんとかしようとするのを諦めて、飼育者の方に連絡をとりました。

連絡がついてからほどなく、飼育者の方が車でやってきました。座り込んだままの仔馬の前半身を持ち上げて起こすと、仔馬はなんとか自分で立つことができたのでした。このまま立ち上がれなくなったらどうしようと半ば混乱していただけに、この時はほっとして胸をなでおろしました。

仔馬がなくなったのは、その二日後のことです。このころは毎朝牧場に行っていたのですが、その日は飼育者の方が先に来ていらして、「残念なことになった」と告げられました。「これから獣医を呼んでくるが、難しいだろう」と。車が去ったあと、しばらくそこから動けませんでした。

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ちょうど同じ日に宮古馬の記事が載った週刊誌が発売され、息つく間もなく周囲はこの話題でもちきりになりました。二日ほどは牧場に行くことができなかったのですが、残されたおとうさん馬が気になり、週末には馬に会いに牧場へ立ち寄りました。

おとうさん馬は私に気がつくとかけよってきて、餌を催促します。柵をくぐって牧場にはいると、長い顎と首ではさむようにして、私の頭をしめつけました。いたいよ、と言いながら逃れて、馬にも抱きしめるという感情があるのかなと思いました。

ひとりになった牧場に吹く風は、もう冬のもので、おとうさん馬は曇り空の下で少しさみしそうに見えました。その日は少し長い時間を彼と過ごしたのでした。おとうさん馬はたまに小屋のほうを振り返って、仔馬がかけてくるのを待つようなそぶりをみせました。

飼育者の方は年度内で馬を保存会に返す調整をしているのだと、新聞の記事で読みました。そうなると、もうここでこんな風にふれあうこともなくなるのだなあと、寂しくなります。もしも移されて行った先が、家族や友だちのような馬がいる環境なら、その方がいいかもしれない、とも。

帰り際「もう帰るの?」という顔でこちらを見てくる彼に、なんども躊躇してしまいました。こんな時間、こんな瞬間も、時がたってしまえば、その名残さえ消えてしまう。この場所で産まれて生きた小さな命も、私たちの短いあいだつないだ絆も。そういうことを、しんと静まった牧場で考えました。

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もしかしたらあの日、私がすぐに仔馬を立たせてあげられなかったから、仔馬の命を縮めてしまったのだろうかと思うことがあります。命に関わるときその死にも関わらざるを得ず、私もまた罪の意識から逃れられずにいます。

週刊誌からはじまりテレビなどでも宮古馬の飼育状況が広く報道されましたが、伝え聞く飼育者の方の話と、実際に会って、地域の歴史の話など面白く話してくださった姿と、うまく整理がつかずにいます。そのこともあって、今回の報道は必要なことであっただろうと思いながらも、個人的には発言を控えておりました。

中には、もともと在来馬は農耕用として養っており、時代が変わってしまったことに島の人たちが追いつけていないと言う人もいます。もしそうだとすると、これは島に住む私たちじしんの問題ととらえなければいけないのかもしれません。

石垣島の方から、「石垣では牛は放牧しているが、宮古島での牛の放牧は少ない」と苦言を呈されるのを聞いたことがあります。食卓にのぼる豚肉や鶏肉が工場式畜産で育てられたものか、放牧かなどということを、私たちはほとんど意識しません。理想をめざすなら、動物たちが彼ららしい生をまっとうすることに、私たちじしんが価値を見出し、その価値観に合意していく必要があります。

在来馬はとくに保護を目的として養われ、それじたいが経済的価値を生むものではありません。市税のみなもとには市民がいます。それだけに、島の人たちと在来馬とがもっと関わりあいながら(※)、自分ごととして在来馬をとらえ、よりよい馬と人のあるべき姿をさぐっていくべきかもしれません。

※今までその努力を飼育者の方たちがされてこなかったということではありません。そうする努力を市や保存会がはばむことなく、きちんと支援してきたかなどが問われるべきことだと考えています。

※2018.12.30追記)この牧場の馬は12/27に別の飼育者のもとへ移動となりました。仔馬を一頭飼育されている牧場とのこと。よりそえる仲間ができて本当によかったと思います。

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