ゆがみちゃん発売記念マガジン

毒親問題Q&A

どうもこんばんみ。
こんばんみと言えばビビる大木ですが、そういえばビビるってコンビじゃん…相方どこいった…?とググってみたらコンビ解散したんですね。はっぱ隊からプロデューサーにジョブチェンジしたとwikiに書いてありました。人生色々。

さてさて、今回は「毒親問題Q&A」と題しまして、
毒親問題を提起したり、個人の体験を発信しているとどこからともなく聞こえてくる「あるあるな声」をまとめてみることにします。
本当はweb連載前につくろうと思ってたんですが、すっかり忘れていました。連載中どころか連載も終わってるし、ドジの極み。おまぬけがありあま~る。
ということで「ゆがみちゃん発売記念」にかこつけてまとめてみた次第です。


「あるあるな声」なので私が直接言われたものもあれば、そうじゃないものもあります。ただ、毒親に悩んだり、苦しんだ人たちはこういった「あるあるな声」を大なり小なり聞いているものだと思います。


以前、「毒親の話をするとありがちな反応」と以下の画像を貼りましたが、
これはある種のけん制です。
「もうそういう声はお腹いっぱいだからいらないッス」という意思表示です。

上記のようなことを「思ってしまう」のは自由です。
しかし、毒親持ちの子どもにあえて意見を伝えたり押し付けてしまうことは、傷ついてる人をさらに傷つける行為だと私は感じています。

中には「何か言わなきゃ」と自分の中の経験を振り絞って考えて上記のようなことをつい言ってしまう場合もあります。似たようなことを経験しない状況で伝えられる一般論や打開策は、そういったことが適用できない相手からすると「気持ちは嬉しいけど、実際とズレてるしやっぱり傷つく」こともあります。

結局はそこに「経験や知識の有無による理解度の差」が発生しているので、
経験した側の問題提起や告白によって埋め合わせをしていけばいいのですが、
大多数の人が納得するにはまだ逆風の環境下で、被害者側にそれを強いるのは酷なような気がしています。

私は「想像できない、理解できないならあえてコメントをする必要はない」と思ってしまうタイプなのですが、人によっては「共感して、同調して」と自ら何らかのコメントを求めてしまうような状況もあります。
そう考えると、今度は受け手側にそのあたりを逐一見抜きながら対話するよう求めるのも、それもまた酷なように思います。


そういった、双方向の「経験や知識の有無による理解度の差」が発生した際、もしかしてこの「毒親Q&A」が少しは役立つのでは、と思っています。

毒親持ちの子ども側が体験談を発信したり問題提起する際、上記のような声で「またこの手の反応か…」「もう説明したくないな…」と、おなかいっぱいになった時に当記事のリンクを貼ってみるのも、新しい選択肢としてアリかなーと思ってます。

私が毒親持ちの子ども側だけに辛口なQ&Aになっていますが、理解できる方なら理解して頂けると思います。理解できない、いや、「理解したくない」と無意識に思ってる方の場合だと、おそらく何を伝えても「親も親なりに自分を愛していたのかもしれませんね~(苦笑)」的な反応以外は受け入れられないのだろうと、これまでの経験から感じています。
(実際に同じような反応をされる方から攻撃的な発言を受けたりもしました)


毒親問題について問題提起したり、自身の体験をなんらかのかたちで発信される方は今後もいらっしゃると思います。
そんな時、こういった声があると(わかってはいても)、発信する意欲やエネルギーが不本意に削られてしまうかもしれません。
せっかく問題に声を上げられる人が増えてきたので、
問題提起の口を塞がれることだけはどうにか避けたいと感じています。
そんな時にこの記事を活用して頂けたら嬉しく思います。



もう一度貼りますが、この画像を元にしたQ&Aでゆるーっとはじめます。
(画像はイメージ用なので、Qの文章とは微妙に内容を変えていますが)



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Q1.育ててもらった親に感謝できないなんて、人としてどうかと思います

A1.人格否定ありがとうございます。もちろん嬉しくないし嫌味ですよ。
えーとですね、まず「育てる」という定義を確認しますが、食事を与えて学校に行かせることだけを「育てる」ことだと思ってませんか。


私の親は、食事や教育の機会は奪いませんでしたが、私の主体性や感情をとことん奪っていきました。奪ったというか、全否定ですね。
私が何を思っても、自立したがっても、親の意に介さなければ人格否定。
もちろん、悪いことをして叱るとかそういうレベルじゃないですよ。良いことでも「親の思い通りでなければ」否定されるわけです。
「親が子どもを思い通りにする」ことは「育てる」ことではなく「操る」「支配する」ことじゃないかと私は思います。
私の人生は、私の人生です。子どもの人生は、親の人生ではありません。

私も「良い行いを褒め悪い行いは咎め、主体性を伸ばし感情を否定しない親」だったら感謝したいですよ。いやむしろ積極的に感謝してると思います。
じゃあなぜ今、私は親に感謝できないのか。雑に言えば、それはそういう親だったからです。自動販売機にお金を入れたらジュースが買えますが、私の親は小銭投入口にゴミを入れたり、本体に傷をつけたりして「おい!ジュースが出てこないぞ!」と怒っているタイプなわけです。そんな相手なので、私はジュースという対価もとい、感謝に至らないわけです。
親の「私への態度や対応」が、まるごと親に跳ね返ってきているだけです。

親子だろうが人間関係の一部には変わりないわけです。
子どもを生かしておけば、あとは何をしても「親だから許される」「親だから感謝される」ことなんて、私はないと思います。

「産んでもらった(育ててもらった)のだから感謝しろ」と世間ではよく言われていますが、産む(育てる)という選択を選んだ親の責任はどこへいくのでしょうか。親は子どもを創り上げた神様ではなく、親になることを選んだ一人の人間なのに、選択肢すらない子どもばかりに責任を押し付けようとするのはただの責任転嫁ではないでしょうか。

もちろん「子どもを育てると決めたのは自分なのだから文句を言うな」という意味ではありません。今の日本の子育て環境、とりわけ母親に対する世間の態度はまだまだ理解に乏しい状態です。私たち大人は積極的に親を支援していく必要があります。ですが、子どもにその責任を押し付けてはならないと思っています。追い詰められた親を理解するのはその子どもではなく、社会です。手を差し伸べるのもまた、子どもではなく社会だと私は思っています。
大きく考えれば、機能不全家族は、機能不全社会によってつくられます。
社会の問題を改善しなければ、子どもなどの弱者が搾取され続けるだけです。このあたりを語り始めると百物語並みに長くなってしまうので、割愛します。


長くなりましたが最後に、「感謝」というものは自然に発生するものですし、
強制するものではないです。「感謝できないなんてどうかと思う」と一方的な意見を押し付けたところで、それは「感謝している」わけではありません。
「感謝すべき」というすべき思考に侵されて「感謝しているふりをしている」だけではないでしょうか。
そんなふりをしたところで、自分もまわりも苦しくなるだけだと思います。


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Q2.大変だったのはわかるけど、子どもを愛さない親なんていませんよ

A2.子どもを愛さない親なんていない教の信者さん、こんばんは。
まず「愛」とは何なのかといったところですが、「愛」は問題行動を正当化させるための言葉でも、免罪符でもありません

「子どもを愛さない親なんていない」なら、なぜ虐待死などが起こり得るのでしょうか。愛しているのになぜ、自死を望んでいるわけでもない幼い子どもの命を奪うのでしょうか。
「親にも事情があった」と続くこともありますが、親の事情ひとつで子どもの命や人生を台無しにしていいなんて、ただの身勝手です。
そんな身勝手は、断じて「愛」などではありません。

私の父は、親から逃げる私に対して「こんなに子どもを愛してるのにどうして親から逃げるんだ」と言ってきました。
私は親に愛されていると感じたことはありません。「支配」を「愛」と言い換えて、私を思い通りに操作しようとしているだけでした。
私の父は子どもに「愛してる」と言うだけで、自分の今までの身勝手な行動も許されるし受け入れられると思っていたのかもしれません。

「愛」とは自称するものではなく、相手が「これは愛だ」と認識してはじめて
成り立つものではないでしょうか。


私は思うのですが、「愛してるから」「好きだから」と言いながら、相手が嫌がったり、望まないと意思表示していることを積極的にしてしまう人は、相手ではなく自分を愛しているだけだと思うのです。
己の欲望のために、相手の意思を無視して、自己欲求の赴くままの行動に出ることは、それは愛は愛でも、「自己愛」の方だと思います。

「子どもを愛さない親」は存在します
「子どもを愛さない親なんていない」と言い切ってしまうのは、
「自分の視野は狭いです」と自己紹介しているようなものだと思います。


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Q3.はいはい、私はつらいってね。被害妄想乙!

A3.自分が知り得ないことを"被害妄想"で片付けるのは、自ら学ぶ・理解する機会を逃すだけでなく、他者の訴えを踏み潰すだけではないでしょうか。
自分の主観だけで判断し続ければ、自分の中の価値観はアップデートされず、時代の変化に取り残される可能性もあります。
被害の事実を知り得ない状況で「被害妄想」と判断するのはいささか早計だと感じてしまいます。ふえぇ、せっかちは嫌われちゃうよぉ…。

そもそも、他者の経験談とは、他者が認識した情報から成り立ちます。実態は当人以外は知り得ません。
つまり、実際の被害を過剰に演出した「被害妄想」かどうかは、被害を受けた当人以外は事実を確認する術がないということです。
もちろんこれが人前だったり、第三者が存在する状況であれば見解も変わってくるのでしょうが、家庭内の虐待である以上、事実確認は難しいといえます。

また、毒親の経験談になると「加害者」である親と、「被害者」である子どもの視点には明らかな差があり、時には真逆の主張も出てきます。
これはいじめやセクハラでも同じことがいえますが、「加害者」側は、自分が加害者である実感がないことが多いのです。悪意の自覚ができません。だから実際に被害が発生していることに気付けず(気付かず)、「被害妄想」と処理してしまうのです。

私の親は、まさにそうでした。

母は「そんなことしてない」「きょうだい差別なんて思い込みだ」の一点張りで、加害や差別をしているという自覚が一切ありませんでした。
父も父で「思い通りにならないならお前を殺す」と私に言っておきながら、「俺はこんなにお前を愛しているのに」と言うような人間でしたので、やはりこちらも加害しているという自覚は一切ありません。事実を歪曲するのが本当に得意でしたし、もはや趣味レベルでした。

なので毒親問題を提起すると聞こえてくる「親から見た視点はまた違うだろうから、この子どもは被害を過剰に演出している可能性もある」という発言は、「加害者がどんなものか」を知らない、実態の認識不足とも考えられます。

最後に、開き直るわけではありませんが、もし「被害妄想」だったとしても、その「被害妄想」によって誰かが不利益を被ることもないのなら、問題ないと私は思います。私が実名で、ネット上で親を告発し謝罪を求めているならまた話は違ってきますが、そうではありませんよね。
私は自分の親や家族からの謝罪は求めていませんし、私に今後も関わらないでいてくれるなら、本当にどうでもいいし、好きに生きてくれと思っています。
そんなことより、私と似たような環境で育って今も苦しい思いをしている人が少しでも楽な気持ちになったり、希望を見出してくれることの方が重要です。


またまた長くなりました。つまりはそんな状態で「被害妄想」と思い込んだり言い切ってしまうことは、それこそ「被害妄想」のような気がします。
事実を知らない人が「被害妄想」と決めつけるだけの材料は、そろいません。



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Q4.この体験談が実話だとしても、殺されなかっただけマシ。どの家も同じ。

A4.「全日本つらい選手権」の主催者ですか?
食事を与えてもらっただけマシ、学校に行かせてもらっただけマシ、殺されなかっただけマシ…。マシマシってそんなジロリアンの方じゃないんですから。体験についてマシマシ言ったところで、何も増えません。
むしろ、つらさがマシマシになるだけなようにも感じてしまいます。

自分自身の体験を発信していると、どこからともなく「全日本つらい選手権」を勝手に始めようとする人がいます。
「●●に比べたらこんなのマシ」と言って、一個人のつらさを他者のつらさと比較し相対的に劣っていれば無効化しようとしてるのでしょうが、「つらい」という感情は当事者だけの、唯一無二のものです。
誰かと比較したところで、自分のつらさが無くなるなんてことはありません。

「●●よりマシ」と言うのではなく、それはよいものではないと受け止めて、
「それはひどい。こうしたらもっとマシになる」と改善しようとしたほうが、よっぽど有益だし、本人も救われると思うんですよ。
あくまでも個人の理想の話ですけどね。


「殺されなかっただけマシ」なんて言っても、誰も幸せになりません。
ジロリアン以外だって、「とりあえず記念マシマシ」しても、お腹いっぱいになって食べられなくて、自分も二郎も幸せにならないですよ。

※ちなみに私は二郎未体験者です(でも個性的すぎる二郎文化がすき)


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Q5.親の気持ちも少しは考えろ。というか親と同じ道を辿って虐待しそう。

A5.これは毒親と同じ思考回路だと思うので、絶対に受け入れられません。

「超越編」にも描きましたが、私は「親も親でつらかったんだろう」と思っています。ただ、だからと言って、親が子どもに理不尽に八つ当たりすることは許容できません。親自身のつらさを、なぜ子どもが受け止めなければいけないのでしょうか。子どもが悪いことをしたならそういうこともあるでしょうが、毒親は「子どもの行動に関係なく八つ当たりしてくる」ことが多いのです。

一昔前まで、そういう理不尽な親子関係が当たり前だったのかもしれません。
自分のことを自分で世話できない、頑固な理不尽オヤジばかりの時代は確かにありました。でももう明治でも大正でも昭和でもなく、時代は平成です。
「親の精神的ケアをすることが子どもの務め」という時代ではありません。
親のつらさは親のもの、子どものつらさは子どものものです。相手まかせの、依存コミュニケーションは、いまの時代にそぐわないのではないでしょうか。

例え親にどんな事情があったとしても、暴力、暴言での威圧といった虐待行為を正当化できる理由にはなりません。虐待は虐待です。


あと、私が「虐待しそう」という意見は一理あります。
私は少し前まで夫にモラハラをはたらくような人間でしたので、自分を省みることがなければ、親と同じ道を辿っていたかもしれません。

しかしいまは、親と同じ道は辿らないだろうと思っています。
なぜなら「内省する」ことを覚え、「自分の感情をその都度自覚する」ようになったことが関係しています。
私の親は、自分が怒っていることに無自覚でした。だから無意識に怒ると私にその怒りをぶつけてしまうのです。そして内省もできなかったので「私は悪くない」の一点張りで虐待を繰り返してしまったのでしょう。

自分の行動や言動を常に省みて、怒っている時は人と距離を置く。そんなことを繰り返しているうちに、以前のモラハラ人格は薄くなってきています。
もちろんいつ頭角を現すかはわからないので、常に自分の行動、言動、知覚に気をつけています。
短気だったり怒りっぽい性格は直せなくても、短気や怒りをコントロールすることは、自覚と訓練の積み重ねで身に付けることができます。


どうか「親の気持ちも考えろ」「親も大変なんだ」と子どもにぶつける前に、
「自分は今怒っている」ことを自覚して欲しいというのが個人的な願いです。



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ひとまずよく聞こえてくるであろう5パターンを例に出してみました。
この他にも「共感できない。そんなに同情して欲しいの?不幸自慢は不快」や「私は乗り越えたけど、あなたまだ親についてうだうだ言ってるの?」というものも。読んでいる方も、いろいろ思い浮かんでいるかもしれません。

前述した5パターンも、その他のパターンも、全体的に「自他の境界が曖昧」「相手のためにならないアドバイスから無意識にマウンティングをしている」といった共通点があると思います。

この中には、私が他者に対して思ったこともあります。
「もっと過酷な環境で耐える人もいるのに、それくらいで文句言うなんて」と無自覚な全日本つらい選手権を開催したこともあれば、「親の文句を言うならまず家から出たら?」という、暴力的正論のマウンティング思考を少し前まで持っていました。活動を始めたばかりの頃、まだこの思考がチラチラしていたので、中には不快な思いをした方もいらっしゃるかもしれません。

そういう自分をきちんと見つめて、反省して、自他の境界を意識しないと、
既に形成されつつある価値観はアップデートされないことを自覚しました。

「別にアップデートなんてしなくていい」というのも、また一つの選択肢ではあると思います。ただ、アップデートを選ばない方は、アップデートを選んだ方の足をひっぱらないで欲しいと思います。理解できない価値観や相手とは、わざわざ関わらないことがお互いのためかもしれません。
(ただ、毒親被害者に説教したがる人にはあまりそれが通じないのですが…)




そんな理屈っぽい(とよく言われる)私の描いた「ゆがみちゃん」ですが、
いよいよ今週の金曜日に発売です!夏休みのおともにいかがですか的宣伝。
いろんな意味で肝を冷やすこと間違いなし!な一冊です。肝試そう。
ちなみに私が好きな肝はあん肝です。プリン体の奴隷です。

「発売記念マガジン」は今後もどしどし更新していきます。
よろしくおねがいしまーす!(/^o^)/三三☆☆





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