人間の内外に存在する「膜」という概念(仮説)
田房永子さんの書かれた「痴漢と膜」の記事を読んで、ここ数日色々と考えてしまった。(参照:どぶろっくと痴漢の関係)
とても考えさせられる記事で、記事の主題材である痴漢の垣根を越えて、「膜」とは一体何なのか仮説を立てて考えていた。そんな時、プチ炎上してTwitterなどで物議を醸した「エクレアとシュークリーム」の記事が話題に。(参照:女性の皆さん、寝て起きたら昨夜のケンカは忘れてくれませんか?)
一見全く関係ない記事のようにも思えるが、仮説を立てていくと、もしや「膜」の概念は、この「エクレアとシュークリーム」のような、人間関係の諸問題にも適用可能な発想なのでは?と思い、まとめてみることにした。
※注意 本件で示す痴漢=痴漢行為を実行する者であって、痴漢=痴漢を妄想する男性 とは全く別物として考えています。後で補足します。
前半は「膜」が一体どのようなもので、どう人間に作用しているかを。 後半は「膜」の性質の違いを挙げ、人間関係で陥りやすい諸問題について、言及していく。
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まず、痴漢という前置きを取払い、「膜」は一体何なのかと純粋に考えた。性別に関係なく人間は膜を持っているという仮説を立てる。「膜」=人間なら誰しも持っている、他者に侵害されないための保護膜 という仮説だ。
「侵害」は、物理的・精神的双方なもの双方を含み、他者攻撃全般を指す。エヴァンゲリオンで言うところの、ATフィールドに近いものと感じる。 (田房さんと同様に、ここでは膜≠パーソナルスペースと考えます)
しかし、痴漢を実行する人の膜は、この本来の膜の機能を大きく飛び越え、他者を侵害するための攻撃膜 にもなってしまっているのではないか。
図にすると、こんな感じ。
元記事の反響の多さから、田房さんは後日ご自身のブログ(参照:むだにびっくり)で補足を掲載している。そこで取り上げられている男性側の主張。「痴漢を妄想するのと実行するのではかなり違う。どぶろっくのネタと同じ妄想は男性なら誰でもしている」というような意見について。
「痴漢はなぜ痴漢を実行しているのか?」=「痴漢には"膜"が存在する」が元記事の核となる部分だが、痴漢冤罪に怯える男性が多く存在する世相も相まって、男性側が「痴漢行為を実行する痴漢=全ての男性を指している」かのように歪曲して受け取ってしまい、さらに「女性」「男性」側双方の主張に誤解と食い違いが発生し、いささか混乱が生まれているようにも感じた。
言語や文章で伝えることには限界があり、発信側と受信側で理解に誤差が発生してしまうのが付き物だ。この問題も、本来の問題の本質から離れ、男女論争のような形になってしまっているのが非常に残念に思う。男性が~女性が~ではなく、性別や年齢に固執しない視点で、問題の本質を見極めたい。
痴漢問題はどうしても男性VS女性と考えてしまいがちだが、「妄想と実行」を考えると、性別関係なく歩み寄り、問題点を解決できるかもしれない。
多くの人は「妄想≠実行」ではない。妄想を心に留め自制する能力(理性)が人間には備わっているからだ。私も、実行こそしないものの、心の内では中々えげつない妄想をしていることもある。しかし、時に人は空想や妄想で自己の力を最大限に活用できることもあるので、妄想自体悪ではない。長所にも短所にもなる能力だと思う。
元記事で取り上げられたどぶろっくのネタは、そういった妄想を応用させた「そんなことは現実にあるわけない」という暗黙の了解で笑いを取るというスタイル。「男性の勘違いモテ妄想」だ。だが実際には、妄想という暗黙の了解を逸脱し、そういった類の本気の勘違いをしている男性が存在することから、女性側は性犯罪に直結しやすいネタはどうなのかと疑問視し、中にはどぶろっく自体を否定するような意見も出てしまい、本来の論点からズレにズレ、さらなる誤解を呼んでしまっている状態にも見受けられた。
痴漢はなぜ痴漢行為をしてしまうのか。痴漢は妄想を痴漢行為として、「膜」を発動させ実際に実行してしまう。これが元々の論点で、男性が全員痴漢になる可能性があるとか、どぶろっくのネタの思考回路は危険だとか、そういう話では無かったはず。伝えること、理解することの難しさを改めて実感した。
では本来の論点に戻り、どうして痴漢は「妄想=実行」と結び付けてしまうのかを考えてみる。これを、田房さんの「膜」の発想で考えてみた。冒頭で述べた仮説を用いて対比させてみる。
・本来の膜=人として他者に侵害されないための保護膜
・痴漢の膜=上記に加えて、他者を侵害する攻撃性を合わせ持つ
痴漢の膜は、妄想(自身の膜)から、実行(他者の膜を侵害)へと直結してしまっている。
さらに、この「膜」は、「第一の膜」と「第二の膜」の二層構造ではないかという仮説に移る。これらを区別するため、第一の膜を内在膜、第二の膜を外在膜と呼ぶことにする。
「内在膜」は、自分の心を内側に留めるため発生する膜。通常は自分の中にのみ内在するため、この膜の働きで妄想や欲求を内に留め外に出ない(実行しない)よう保護している。「理性」の境界を保つ。
「外在膜」は、自分と外部(他者、社会等の団体も含む)を隔てる膜。通常は自分の周辺にのみ存在し、この膜の働きでアイデンティティを維持し、他者の侵害から保護する。「自尊心」の境界を保つ。
痴漢は、この「内在膜」「外在膜」が本来の機能から逸脱し、従来使用する必要のない「特性」を使っている状態だと推測する。本来、この2つの膜を隔てるはずの境界(理性や自尊心)が、存在しないのだ。
従来は使用しない特性ー「痴漢行為をしたいと思う自身の心」を外側へ押し出し理性を失い、「自尊心や自己保身機能が働かず欲望が制御できない」と他者を侵害する。「妄想を理性で打ち消し、実行を自尊心で防げる」という人間が纏っている本来の膜機能を逸脱してしまう状態が「痴漢」といえる。(もちろん、この欲求の妄想が「殺人」なら「殺人者」、「横領」なら「泥棒」と定義されるが、ここでは「痴漢行為」を実行する「痴漢」になる)
では、「痴漢を実行しない人」と「痴漢を実行する人」、そして中間の対比として、「痴漢は実行しないけど視姦をする人」の違いを図解してみる。
対比させると、「痴漢を実行する人の膜」の異様性がわかる。「痴漢」は、他者を自身の膜へと巻き込み、他者の膜を侵害し、痴漢行為に至っている。(田房さんが元記事で引用している"連続強姦加害者Y"は、自分と他者との外在膜どころか内在膜の境界すらわからなくなって、自身の妄想をあたかも被害者が持ち合わせているよう"投影"してしまっている状態と考えられる)
「エクレアとシュークリーム」の記事も、痴漢・痴話喧嘩と違いはあるが、男性側が自身の理想(ある種の妄想)を、彼女に押し付けている。つまり、自身の内在膜を外在膜ほどの大きさに広げ他者を巻き込み侵害するため、「自分が理想とする彼女の対応」と「実際の彼女の対応」の違いがわからなくなり、実際は自分の理想論を押し付けているだけなのに、それを彼女が受容れないのはおかしいとひたすら正当化しているように感じる。
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本来は自分を保護するための「膜」。これが本来の機能を逸脱する時、他者を侵害する攻撃特性へ変貌すると前述したが、これは人によって異なる性質の「膜」を持っているとも仮定できる。①本来の保護機能のみの膜、②本来の機能と他者を侵害する攻撃特性を持つ膜、この2種類の性質だ。
この性質の違いを仮定する理由は、世の中には膜の侵害を実行しやすい人、さらに「痴漢被害に合いやすい被害者」のように、膜の侵害を受けやすい人が実際に存在することに起因する。
ここより述べる「膜」は自身のアイデンティティである「外在膜」を指す。
例えば、痴漢を実行する者は人を「自分側の膜へ取り込もう」という、侵害する気満々の、ある種不快な粘り気のある―― 例として、「油膜」のような性質を持っている。
では対として、痴漢側ではなく被害者側は、取り込まれやすい(侵害されやすい)性質の膜があるのだろうか。一般的に痴漢に狙われやすいのは、自己主張できそうな人より、大人しそうに見える人だ。(外見や服装も絡んでくるが、まず性格に重きを置く)これは、膜が薄いのだと思う。「薄膜」状態になっている。性質ではなく状態の問題。自身を纏う膜が薄く、侵害しやすく見えてしまうため、「油膜」性質の痴漢に狙われやすいのかもしれない。
「自信に満ち溢れ颯爽と歩く人」より、「表情が乏しく不安そうに歩く人」の方が、侵害しやすそうに見えてしまう。ここに外見や服装要素が絡むと、体格がよく快活で、"いかにも大声を出しそうな"体育会系の女性よりも、 華奢でもの静かで、"一見大人しく暗そうにみえる"女学生の方が、侵害される確率は上がる傾向にある。薄膜の本質は、内面・外見双方のアイデンティティや自尊心が乏しい状態を指す。
ならば"自己主張"ができる人(=内面・外見双方に自尊心が伴っている人)は、「油膜」と逆の性質を持っているだろう。他者からの侵害―― 油膜を弾くことができる、「水膜」のような性質だ。水膜の性質は、油膜の不快感と違って、自身の心身を潤すことができる。この膜こそが、人間が纏うべき本来の膜の性質だと考える。
理想としては、薄膜状態なんて一生関係ないくらいの、常に山の湧水のように内側から湧き出る「水膜」を纏えば、肉体はさておき、他者の心理的な侵害から自己を保護し続けることが可能と考える。(ちなみに文頭で述べた"自己主張"は、自身の外在膜に他者に侵害を許さないための自己主張なので、他者を巻き込む自己主張(=ワガママ)とは異なる。人を振り回すワガママは、油膜性質の外在膜)
※「肉体はさておき」としたのは、痴漢や殺傷など肉体的攻撃に限っては、無差別目的など避けられない状況がどうしても発生してしまうため。
「油膜」と「薄膜」の説明のために、以下に例をあげる。
これは発信側である私の主張と、受信側である読み手の理解の誤差を少なくするための例であって、例に該当する者にレッテルを貼り批判するためではないことを、念のため注釈として入れておきたい。
まず、「エクレアとシュークリーム」の話にも近しいともいえる、昔から一定以上存在する「ダメ男&ダメンズ依存女」のカップルを例として挙げる。ダメンズ依存女の外在膜は「薄膜」である。その膜の薄さから、本人は自身の存在確立に不安を感じている場合も多い。そこである種、利害が一致するのが「油膜」性質のダメ男。この「油膜」特有の粘り気が、ダメンズ依存女の「薄膜」性質をカバーしているように錯覚してしまい、侵害されることを自ら望み、結果的に共依存状態に至ってしまうのではないだろうか。
次に、近年多い「草食男子&草食男子を批判する女子」。これは、一見薄膜で「支配しやすそう」な男性に、誤った自己主張(ワガママ、自己中、察してちゃん行為)をする油膜の女性が「この人なら私を受容れてくれそう」と近づいて、自身が纏っている油膜をこれでもか!と押し付ける。その大量の油に胃もたれした薄膜の男性が、侵害を受け付けなくなるので、女性側は「草食男子はダメ」「男性は察してくれない」などとレッテルを貼り、油膜で侵害しようとする自身を正当化しているようにも考えられる。
男女関係だけでなく、ジャイアンとスネ夫の関係も、ある種のそれだ。ジャイアンの油膜にスネ夫は自発的に侵害されている。侵害を自ら望むことで、スネ夫はジャイアンからいじめられることを防ごうとしているとも考えられる。普通に考えるとおかしなことなのだが、この誤った依存関係が、スネ夫にとって最適な「処世術」となってしまっている。
少し前に「マウンティング女子」などと騒がれていたものも、油膜性質の攻撃だ。お互いに油膜の外在膜を侵害し合おうとしている状況だと考える。
(この油膜を纏い、保持し続ける背景については、成長過程の家庭、学校、地域といった環境が関係すると推測しているので、また考察をアップする)
「油膜」の外在膜は、纏っている本人は普通だと思い違和感が無いかもしれないが、他者からすればベトついた、居心地の悪い不快なものといえよう。さらに油膜特有の濁った性質から、自身の油膜に巻き込み侵害した者の外在膜というアイデンティティをくもらせる。最悪のケースは、その者の内在膜という心をも蝕み、本来人間に許されている「自由な想像」さえ、できなくなってしまう。油膜の侵害は、自分と人が支配―服従、依存―共依存という脱却しづらい関係に発展し、一人の人間の自由を奪う可能性がある。
このような状態を事前に防ぐためにも、やはり、理想の「水膜」を纏うことを目標にしたい。水膜には油膜のようなベトつきや不快感がない。健全なアイデンティティ・適切な自尊心でもある「水膜」は、自分自身を他者の侵害から保護してくれる。さらに、湧水のように自分の内側から溢れるように分厚い水膜なら、自身の身体を潤し、生きる活力へと繋げてくれるだろう。
水膜は油膜とは異なりその膜が厚ければ厚いほど、自分自身だけでなく他者の膜を潤し、個人の垣根を越えて、友人、家族、地域、さらには社会をより良いものへと導いてくれる可能性を秘めたものではないだろうか。水膜の外在膜をアイデンティティや自尊心とするなら、分厚い水膜の外在膜は他者への「慈しみ」「慮り」という感情に置き換えれるだろうか。
もし、自身のもつ外在膜が油膜と気付き、水膜にしたいと考えるならば、 ①まずは自身の油膜で他者を侵害しないようにする ②自身の油膜を洗剤(自己啓発やカウンセリング)で剥がすといった、自分自身と真摯に向合う方法なら、水膜も自然に発生するかもしれない。
薄膜を克服し分厚い水膜にしたいと考えるならば、①自分は自分、他者は他者と線引きする ②自分を知り(何が好きか、何を楽しいと感じるか、どんな人になりたいか。もちろん、自分や他者を傷つけない手段で。)自己を確立していけば、自身の内側から湧水のように水膜が発生していくだろう。
(後日加筆・修正する可能性があります)
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