アウシュヴィッツ博物館訪問に関する所感



⚠自分のふわふわした思考を纏めるために書いているので、推敲する事ができません。これは私個人の端書きになります。八方への配慮が足りない文章になりますので、ブラウザバックの準備をよろしくお願いいたします


1
どんな場所だと思ったか今現在の言葉で一言

1A
追悼の場であり、希望の種子貯蔵庫

追悼は当たり前過ぎるので割愛させていただく。

最初に思い出したのが、世界滅亡に備えて世界中の種子を貯蔵しているという貯蔵庫のこと。

スヴァールバル世界種子貯蔵庫 と言うやつ。 現代版ノアの運ぶねとも言われているらしい。

それと何となく似ているような気がしたのだ。

というのも、あそこに展示されているものからは、

「こんな現実があったのだ」という悲しみに満ち溢れた負の遺産の展示を超えて

【伝えたい】と強く願う人々と、

【伝えてくれ】と願った人々の想いを強く感じたからだ。

そしてそれが一つの種となり、訪れた世界中の人々の頭に根を張るような、そんな場所だった。

今回、たくさんの写真を見た。 

その中でも、収容された人が命がけで隠れながら撮ったという写真が印象的だった。

一つは全体的にブレた、裸にされた女性たちの写真。

一つは建物の隙間から遠くで収容者たちが死体を焼く様子を撮った写真。

危険を犯してまで残された写真はどちらも表沙汰にされていなかったもの。

これを取った人は自分たちの現状を伝えたかったのだろう。

そうして今現在、私たちに伝わった。
 

もちろん、すべての博物館や美術館はそういう側面を持っているだろう。

しかし、ここの博物館はその執念にも似た想いが、残った展示や展示方法、ガイドの方からも、それこそ必死なほど感じたのだ。

そして、希望の部分。

これは、展示というよりも、周りの雰囲気に明るさを感じたことに起因する。

アウシュビッツ博物館と聞いた時、どこか暗く、哀しいイメージがないだろうか。

多くの人が死んだ場所であるし、マイナスのイメージで考えるのはごく一般的だと思われるが、
私がガイドツアーを終えて感じたのは、妙な清々しさだった。

明るいのだ。全く明るくないというのに。

レモン色のステンド・グラスの破片から白い雲を通してみたような、清々しく柔らかく、明るい。

これがいわゆる心理的防衛本能である可能性ももちろんある。

心理的負担が大きすぎて、真正面から受け取らず、むしろ反対の心象を描くような、そういった抵抗本能である。

しかし、それでは説明しきれないくらい、終わったときの空気は希望に溢れていた。

恐らく、これほどの地獄を生み出したのが人間であるならば、同じくらい天国も生み出せる、というような、そんな確信のような希望。

これらを知りながらこれからの時代を僕俺私は生きていけるのだという、未来への展望、そして輝き。

暗く哀しい過去は、明るい未来を現在の人々の心象に思い起こさせることもできるのだと、初めて知った。

けれど、すこし楽観的すぎるのではと問われれば、私も頷くだろう。

地獄は一元的な部分が多いかもしれないが、天国はきっと多元的でなければならないだろう。

なぜなら、一元的な天国は、それに当てはまらない人々にとって地獄だからである。

2 気になった言葉は? 

2A
障害者

 ユダヤ人が収容の割合を多く占めていた事は誰もが知るところである。 

しかし、そういったユダヤ人差別の最初の一歩だったのは、善意からくる障害者や末期患者への優生思想、安楽死制度だったと、そのように説明されたと記憶している。

障害者、とガイドの方は言っていた。

恐らく、身体や脳など、一見してわからないような障害も含んでいるのだろう。 

では、健常者と障害者の区切りはどこだろうか。

WHOが定義する健常者や障害者の意味も、戦前と戦後では大きく違うということを留置つつも、そういった、普通ではない人間に対するマイナスの処遇や態度、善意であっても倫理から外れるような行いは、なぜ起こったのか。


一側面として、人間はやはり、縄張りやまわりの人間を愛してしまう。

それが悪では、決して無い。

だが、その愛が行き過ぎると、自分ではない誰かを愛し愛された、そうでなくても愛すべき他人に大きく、とりかえしのつかない傷が付くこと。

そんなこと、どの時代でもあり得ることであり、ありきたりなことだろう。

またどの時代でも、そこに自分がならない保証はなく、しかしてそんなことをすっかり忘れるのもありきたりなこと。

でも、いまの私たちは、前よりは他人のことを思い出す回数も、人数も増えたと思いたい。

それを進歩と呼ぶか変化と呼ぶかは分かれるところではあるだろうが、私は、今だけでも進歩と呼びたい。

いつか、大手を振って、この考えを進歩と呼べる日が来てほしい。しかし、それもなんとなく近い気がしている。

この予感も、今だけの希望なのかもしれない。

しかし、今だけであったとしても、本当に心からそう思えたのは、嬉しいことだとおもいたい。


3 他に思ったこと、キーワードで

3A 
メタバース・石鹸と教育・合理的国家の人道的挙動・人間の本質・移民、難民問題・betterな選択


 端書なので。もういいかなって思ってきました。書き方変えます。どうせ人みやんやろ。考えたこと並べると、人となりがなんとなくわかりそうで嫌ですね。先程よりも適当になっておりますので、ブラウザバックを推奨します。


 
 メタバースはそのままメタバースです。

メタバース空間が一般化したら、全世界が隣人、世界市民になるのでしょうか。

無理でしょうね……もしそうなったとしても、自分達と違う存在を無意識のうちに新しく探し始めそうです。

 石鹸と教育は、私の趣味で出会った単語です。

一文抜き出すと

「石鹸と教育は、大量殺人ほどの急激な効果はないが、長い目で見ると、それ以上の恐ろしい効力があるのだ」

となります。

トム・ソーヤの冒険の作者、マーク・トゥエインの言葉です。

教職課程を取っていますが、教育ほど、恐ろしいものはないと思うときがあります。

無知では生きてはいけませんが、教育を受ければ否応なしに色眼鏡をつけさせられます。

その形が歪であろうと美しいものであろうと、色が濃すぎて全く別のものを見せられていようと、問答無用でつけさせられます。

アウシュビッツ博物館は、学生さんが団体でいらっしゃることも多いのだそう。

かける眼鏡も可能な限り選び、点検し、時には取って、適度に付き合っていきたいものです。


 合理的〜は、博物館の立地や、アメリカの航空機から取った航空写真図を見て、ですね。

博物館で立地の理由や労働搾取の話を聞いたとき、不謹慎ですがめちゃくちゃ合理的だ〜!と感動しました。

戦争時の国家の動きって、徹底して合理的な場面が見られますよね。

それが個人的には好きで。

反対に、今現在は当時の反省を踏まえて、むしろ人道的に動くこともありますし、意識して動いているのが見られますが、基本は合理的な国家運営が行われているなというのが私の感想です。

その人道的挙動と合理的挙動の間、ここに様々な可能性があるのだとも、思っています。

 人間の本質。

これは今書くと完全に影響された文章を書きそうですので、とりあえず「夜と霧」を読んでください。

 移民・難民問題

日本での移民・難民問題の話しをガイドさんが少しばかりしてくださりました。

勉強不足を痛感したので、ここに備忘録として書き残します。

 betterな選択 

そも、bestな選択は物事が過去にならなければ生まれませんよね。

常にbetterを考えて、選んで行かなければならない。

それが今のところ民主主義、なのでしょうけれど、なかなかどうして、それが難しい。

そも、民主主義自体がbetterな選択というよりも、今のところこれが一番効率がいいから選んているのであって、もしも次第が不安定になれば、betterであると言い切れなくなる日が来るかも。

betterであると私が言い切れる今の時代のうちに、更に新しく、そしてbetterな選択肢が生まれてほしいです。

それが難しいからこそ、歴史の終わり、などとといわれるのでしょうけれど。

握りしめた何かが、薄れていくのを感じながら書きました。


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