離婚考04

優等生意識

両親は、わたしが6歳、弟が3歳の時に離婚した。
その当時、べつに離婚をすることなんて珍しくもなかったはずだけど、母は離婚を周りに隠すようにと言った。

でも、事実を知る親戚とか母の友人からは不憫がられた。親が離婚しており、母の新しい恋人である他人と暮らすことになったわたしたち子供が可哀想だと。物心ついた頃から負けず嫌いだったわたしは、可哀想に思われることがとにかく気に食わなかったのを覚えている。

その一連の出来事の中で、わたしは母の支えになろうと思っていた。自分は絶対に母の味方でいようとおぼろげな決意をした。母の脆さのようなものを子供心に感じていたのと同時に、母の恋人のことをいまひとつ信用できなかった。いい人だったし仲良くしてはいたけど、心を開いてはいなかった。いついなくなるか分からない人だと考えていた。

そしてその頃には、世間では子供が親の通知表になるということに薄々気づいていた。世間から見て良い子供、優等生でいることが、母の離婚は間違いじゃなかったと周りに認めさせることなんじゃないかと思った。離婚を理由に、家族に対して後ろ指を刺されたくなかった。

実際のところ、勉強も苦手じゃなかった。普通にやっていれば優等生っぽく振る舞えるくらいには勉強ができた。勉強だけじゃなくて、友達付き合いとか恋愛に関しても、他者から見て上手くやれているかがわたしにとって重要な指標になっていった。

自分のアイデンティティの形成に、そのことはすごく影響したと思う。将来の夢も、進学する大学も、選ぶ恋人も、周りから認められないようなものはそもそも選択肢に入らなかった。
恋人に求めるのは誠実さ、真面目さ。社会的に見た欠点の少なさ。振り返ってみると、そうなっていた。結婚願望はなかったのに、わたしの恋人選びの基準は完全に結婚を目標とした人のそれだった。

だから、高校も大学も、親戚が満足するところに行こうと思った。就職して自分の力を試したいと思ったのも、社会的に認められた状態を得たかったんだと、今振り返れば思う。そして、結婚することも、わたしにとってはこの優等生意識の延長というのが大いにあったんじゃないかと思う。

今この時代においてさえ、「結婚できない」のレッテルには影響力がある。そのことを、わたしは就職先で目の当たりにした。今思えば本当にくだらないけれど、仕事に人生を費やした(かどうかは知らないけど)未婚の先輩たちは、仕事はできるが結婚できないのレッテルを貼られているように見えた。社会における結婚の重要性を目の当たりにして、わたしは人生で一度も結婚を経験しないことにはリスクがあると感じた。できない、と思われたくはない。と。

そして、付き合っていた恋人はそれなりに優秀と言われる大学でであった先輩で、大手企業に勤めている彼は、結婚相手として文句のつけようがなかった。付き合った当初は音楽に全財産をはたいてしまって貯金もなかったけれど、付き合ってからはちゃんとお金を貯めるようになった。

頑なに結婚願望がないと言い続けてはいたものの、少しずつ結婚という選択肢がちらつくようになっていったのはその頃だった。

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