6月3日放送 映像の世紀を見た感想

 今回の『映像の世紀 バタフライエフェクト』は、1950年代の安保闘争のはじまりから、70年代に下火となるまでの一連を追いかけたドキュメンタリーでした。

 これを見た感想を自由に書きます(※番組の内容とリンクした書き方はほとんどしていません)。

 私は最初、なぜ学生や国民があのような闘争に湧けるほどの怒りを持っていたのかが、よく分かりませんでした。
 それはまず、パラダイムの違いに起因するものだと思います。世代論というものが作れてしまうように、時代が変われば生育環境も変わり、若者の姿も変容します。向こうの学生とこっちの学生とでは、年齢は一緒でもその中身はほとんど同質ではなく、大きな隔たりがあるのだと思います。現代の学生のうち、何割が60年代の彼らに共感できるのかは分かりませんが、少なくとも私はあまり共感できなかった。徒党を組み、議論というよりは団結や反対が好きで集まっているように感じられる彼らのことを、度々冷笑的に見ていました。

 1951年に吉田茂首相が調印した安保条約は、不平等なものでした。日本側は米軍に駐留を認めるが、米軍が日本国の安全を守るとは明記されていない。1957年に総理大臣として就任した岸信介は、その対米従属構造を変えるべく、日本有事の際に米軍が日本を支援することを規定した新安保条約(いわゆる60年安保)を取り付けた……。すると、兼ねてよりくすぶっていた安保闘争は激化した。
 私が分からないのはこの部分だった。より双務的で、日本の独立性が強化された「改善」だったにも関わらず、なぜ国民は怒ったのか。

 当時の国民の怒りを理解するために、私は彼らの背景を整理しようと努めました。太平洋戦争によって甚大な人的・物的被害を出し、戦後も食糧難や住宅難など数々の貧苦を味わった彼らにとっては、安保条約はアメリカの有事に巻き込まれることを約束するものに思えたのではないか。

 戦争が絡む物事を忌み嫌う彼らの行動というのは、アメリカの戦争に日本が加担することの暴力性や、そのために住み慣れた土地が日本政府や米軍に接収されることの悲しさ・嘆かわしさ、先の大戦中に政治家をやっていた人がまだ総理大臣をやっていることへの嫌悪感などといった、そうしたネガティブな感情の表れだったのでしょうか。

 しかし、そうしたバックグラウンドを一度飲み込み、彼らを捉えなおそうとしてもなお、安保闘争に加わり、岸信介総理をスケープゴートにしていた当時の国民の姿は、現代日本における「増税メガネ」などといった罵言を岸田総理に浴びせる一部の主権者と、どこか重なって見えたのでした。
 60年安保の内容を読み、その瑕疵を指摘してやろうと思って運動の列に並んでいた人が、一体どれほどいたのでしょうか。

 時代が進み、10年という期限がついた60年安保の自動延長をめぐり、70年安保闘争が起こった。60年代の安保闘争と70年代のそれは、どこか本質的に違うように感じました。
 学生らはヘルメットをかぶり、ゲバルト棒を持ち、完全に武装しており、はじめから戦うことを意識していたように見えました。多くが人を傷つけることを恐れなかったし、暴力を肯定していた学生もいたのだと思います(実際に、暴力革命が必要であると主張する「中核派」などの団体が入り込んでいます)。

 国民的な安保闘争の先頭に立ったのは学生だったわけですが、彼らが戦っていた相手は、彼らの仮想敵とする「国家権力」の一部でありながらも、本質は彼らと同じ日本人の若者だったという皮肉。
 ヘルメットとゲバルト棒を用意して

 私が冷笑的で "いられた" のは、そうした皮肉な暴力が盛大に行われたことと、決して無関係ではないはずです。未来の日本を作っていく若者同士で殴り合い、頭から血を流し、親を泣かせ、拘置所の中で頭を冷やしてようやくトゲがとれて丸くなった学生たちは、そうした若気の至りを胸にしまってそそくさと社会に溶け込んでいった。
 学生運動に加担し、その後社会に適応していった人々が、大々的に反社会的行動をとったという歴史はほとんどないでしょう(新左翼の一部は別)。かつてはその怒りを時に暴力という形で発散した彼らも、結局は落ち着き、日本の経済発展の一翼を担っていきました。

 したがって、安保闘争に端を発する学生運動には、ガス抜きのような役割があったような気がしてなりません。戦後日本のコンテキストを踏まえると、何割かの国民が、若者が、おそらく一度は理性を失わなければならなかったのでしょう。誰かが日本社会のガス抜きをしてやらなければならなかったのでしょう。

 早かれ遅かれ、戦後の日本はそういう運命にあったのではという気がします。我々が生きている現代の民主主義国家日本というのは、戦後日本の何者かによる、全くもって実を結ばぬ流血があったからこそ……ということなのかもしれません。

・・・

 最初は安保闘争に対しての自分の内奥にある「冷笑」の正体を探すために感想を書き、自分の感情を分析していたのですが、最終的にはそうしたシニカルとはかなり離れた結びに落ち着きました。

 感想というより考察に近い面もありましたが、ともかく安保闘争の人々の怒りやエネルギーというのは熱狂的なものであり、今回のNHKの『映像の世紀』を通じて、自分がそれらに対してどういう感想を持つのかを知れたのは大変良かった。ありがとうございます。

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