書き散らし⑤

 義務教育で英語を学んだからといって、外国語の学び方まで習ったというわけではない。

 英語は外国語として普遍的になりすぎた。先進国の多くの子供たちは、アルファベットの読み方を学ぶ機会が別に与えられているから、英語を学ぶ前から [a] [b] [c] ・・・ の読み方をなんとなく知っている。
 だから、英語を義務教育で学んだだけでは、「外国語を学ぶ際はその言語を表す文字から勉強する」という外国語学習におけるオーソドックスな手順の重要性を学ぶことは難しい。

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 私は心とかアイデンティティの拠り所としての「創作」から、そろそろ心理的に離れるタイミングに来ているのかもしれない。

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 日本と韓国は、いずれイギリスとフランスのようになれると信じている。

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 韓国人を忌み嫌い、理由をつけて町中から韓国語を排斥し、韓国に因んだものを須く貶める者どもは往々にして品がなく、冷静な思考ができない。

 一方で、韓国を冷静に評価し、文化や歴史、韓国人について落ち着いた記述や議論ができる者というのは、得てして人間性が高く、聡明である。

 敢えて大げさに書いた。

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 「泣く」という行為により、私たちは自身の感情や敵対するものの存在を整理し、乱雑になっていた心理を再び正常に戻すことができる。
 泣くことは、すなわち成長に等しい。誕生日を迎えて年を重ねることよりも、泣くことの方が、実質的に成長を遂げる行為である。泣くことは良い。

 しかし、「泣くこと」には、様々なネガティブイメージがある。そういうイメージを覆すような泣きもあるが(山一證券の記者会見など)、基本的には人前で泣くことは推奨されていない。
 涙を悪用する奸賊もいるとはいえ、もう少し涙に寛容な社会になることはできないのだろうか。おとなしく泣くことは実質的には良いことだと思うのだが、表面的にはどうも良くないようだ。

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 犬を食べることと鯨を食べることに何の違いがあろうか。
 日韓両国は、その固有の食文化を「近代化」するよう国際社会から迫られている。

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 大手マスコミというのは、国のなかで横並びになっている。これは大変不健全な状態である。
 右へならえ、に立脚した報道の自由とやらがそこにあるだけだ。マスコミは各々が個別の立場から、しかし中立的な視点を持って世の中を映し出すようにしてほしい。

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 そもそも、自分の所属をSNSのプロフィールに書いている時点で、自身の言動を慎むべきなんです。
 人間ですから、誰だって言いたいことはあるし、負の感情だって持つでしょう。でも、それをいかにオブラートに包んで言うか、いかに婉曲的に表現するか、ないしは「言わない方がいいこともあると思ってグッとこらえるか」。ここがネットリテラシーというか、そもそも人間関係において大切な部分のはずです。

 ところが、やたら他人に喧嘩を吹っかけたり、噛みついてしまう人がいます。あなたはそれで何も困らないかもしれませんが、もし仮にそれが大ごとになって、所属している集団全体のイメージが悪くなり、無関係の数多の人間が不利益を被ったら、どう責任をとるのでしょうか?

 血気盛んなのも、インターネットにおいてやたら饒舌なのも結構です。でも、そのまんまでいると、自分で自分を不利にする人間になりますよ。訴えられたら裁判で負ける人間になりますよ。罪の重さ、自分がしでかした事の重大さを理解できない人間になりますよ。

 物事や人間関係が特に問題なくいっているように見えるのは、誰かが我慢しているからだと言う人がいました。私はこの言葉を、きっといつまでも覚えていると思います。

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 幼い頃から摂取する情報が尽く視覚的なものばかりで、あまり文学を消費してこなかった。だから、グラフィックデザインみたいなことは少しできるようになったが、いつまで経ってもストーリーが作れずにいる。

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 大学全入時代がやってくると言われているが、私は大学全入というものに少し懐疑的である。
 大学の核は「学術研究」だが、そもそも学術研究というのは、人によって明らかに適正が分かれるだろう。教われば誰でも1年や2年でできるようになる代物ではないはずだ。

 そんな「人を選ぶ」はずの場所に、高校を卒業した18歳を一様に通わせてしまってよいのだろうか。

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 昼は人間の目があるが、夜はそうではない。布団に潜ってしまえば、自分の心の深いところを人の目を気にせず探検し放題だ。これには何物にも代えがたい心地よさがある。

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 本の意義は、文字が持つ機能と密接な関係にあるのではないだろうか。

 逆に言えば、紙の本というのは、文字(≒情報)を物理的に残せること以外にあまり本質的な強みは無い気がする。

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 自由恋愛市場と就職活動の人材市場には、その息苦しさに似たものがある。
 感覚的な話だが、これらには「その社会環境に迎合しなければならない」という窮屈さがある。迎合しなければ良い環境は手に入らないが、迎合に疲れたり諦めたりすると、どんどん良い環境(=良い結婚生活/良い職場環境)が手に入る確率が低くなっていくリスクを孕んでいる。

 いや、自分の観方が歪んでいるだけなのだろうか。
 ともかく、市場で流通し、人口に膾炙しているフォーマット・テンプレートといったものに自分をはめ込むという作業にかなり苦痛を感じるため、「普通にやる」という意識を捨てるところから始めなければならないだろう。

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 自分の自信のなさの原因は、親子関係もさることながら、一番はやはり「自分という出る杭を、誰かに打たれる前に自分で打ってきてしまった」ことにあるのではないかと思う。

 やったことのないものには手を出さない。発言に予防線を張る。自己評価を意図的に下げる。自尊心が過度に肥大化しないよう自分を卑下する。自分の悪いところに注目し、つけあがらないようにする。

 多くの人は、自分の中に批評家のような存在を抱えている。私は、その批評家の声が大きいことは、大人である証拠だとか、聡明である証だという勘違いをしていた。
 私は、大人になるために自分という出る杭を打った。誰かに打たれる前に急いで打ってしまった。それが自分の弱さであることには気づけなかったし、自分が思い描いていた理想像に自身が追いつけるはずがないことも自覚していなかった。

 最大の問題は、「自分という人間が、この自信喪失状態から自分自身を救い出せるとは思えない」という不信感である。

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 一人で社会に抗うことの不安は、丸腰で神や得体のしれないものと戦うことと似ている。社会に抗う人々同士が集まるのは、そうした不安感もあるのかもしれない。

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 バランスのとれた報道の実現のためには、報道機関の社内・局内に多様な視点や考え方を持つジャーナリストがいて、彼らが等しく公共的情報発信の機会を得る必要があるだろうと思う。

 現代の日本は、会社や系列ごとに主張や政治的ポジションが分かれている(世界的にみて比較的バランスはとれている方だと思う)のが現状だ。
 典型的だが、産経新聞と朝日新聞では、記事の視点も社説も全く異なる。

 このように、会社ごとにスタンスが分かれているという現状は、国全体として総合的に見れば「バランスがとれている」と言っていいだろう。しかし、人間は自分が信じたい情報しか得たがらないので、会社・系列という単位で見たときに偏りがある以上、結局受け手も偏りがちになる。おそらく朝日新聞の読者のほとんどは、産経新聞を読まないだろう。その逆も然りだ。

 だからこそ、社内・局内の時点で中庸に近づくことが理想である。

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 私の遺伝子を継いでしまった子供は、幸せには生きられないかもしれない。

 私は子を成すべきではないのかもしれない。

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 東京大学など国公立の大学でも値上げが検討されていることに対し、厳しい批判を向ける人たちがいる。
 正直あまり使いたくない言葉だが、これについては「難しい問題だなぁ」と言わざるを得ない。

 そもそも大学の進学者数は、我が国の人口減に追随して減少傾向にあるし、今後も増加する見込みはないだろう。したがって、現在の大学・大学院の設備や教育環境としてのレベルを維持しようとするのであれば、必然的に学生一人あたりに強いる負担額は大きくなる。

 「あちらを立てればこちらが立たぬ」で、設備を削ぎ落として学費の要求額をキープするか、学費を上げて設備レベルを保ち続けるか、という選択を迫られるのであり、このどちらに進んでいくかは大学によって異なるだろう(もちろん、緩やかな学費の値上げに留めながら、教育環境の合理化を図るというバランス型の経営をする大学もあるかもしれないが)……。

 学生目線としては「学費高騰」はなるべく避けて通ってほしい道ではあるのだが、こうした現実的な問題を見ると、値上げを検討する学校法人・大学法人を思いっきり糾弾してやろうという気にはなれなかったりする。

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