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真昼の月

 じりじりと焼きつける太陽の真下で、僕は自分の靴を眺めていた。仕事用の革靴がうっすらと砂で汚れている。その上に、ぽたぽたと汗が二粒落ちてその細かな砂を浮かせ、そこだけ黒々とした皮の光沢を見せた。
 男女のことは難しくて時々非常に困ってしまう。ルールが当たり前のような顔をして、元から在ったものみたいに、突然僕の前に現れるからだ。きいてない、なんて言う余地は残されていない。うん、そうだよね、ごめんね、全ては僕のせいだ、と話を聞いて謝ることだけが許されている。

 坂道のてっぺんでしばらく立ちすくんでいると、汗をかききったのか暑さが不思議と和らいできた。危険な兆候かも知れない。熱中症で倒れる前はこうなるのだとどこかで聞いたことがあるような気がする。辺りはしんと静まり、真昼の明るさに昼顔の花が淡く溶けるように咲いている。

 倒れるなら受け身を、と心の準備をしかけたところで、遠くの方から激しい地鳴りが聞こえて来る。

 どどどどどど!

 遠くの街の、ほとんど地平線の向こうから、一直線に砂煙が走ってきた。その先頭には、鮮やかなピンク色をした大きなサイがいた。サイはあっという間に坂道を登りきると僕の胸へ突進してきた。

「ひどいよ、潤くんは」

 サイはきれいな声で僕を責めた。

「どうして、家を出る時に起こしてくれないの?なぜ一人で仕事へでかけちゃうの?私の顔は、見たくないの?私が、私が、サイだから?」

 サイはぽろぽろと大きな大きな涙を、滑らかな桃色の頬に落とした。そして濡れた顔を僕のシャツに擦り付けた。

「違うよ。」

 僕はきちんと否定する。この際、嘘でも本当でも、しっかりとノーを唱えることが大切だ。

「今朝君を起こさなかったのは、君がとても気持ちよさそうな顔で眠っていたからだよ。しっかりと睡眠をとって欲しかったから、ただ、それだけさ。僕は君の顔をじっと眺めてから、会社へ行ったんだ。君は美しいよ。その鮮やかな肌の色も、素敵だ。それに肌のキメも細かい。朝日に当たって光っていたんだ。僕は、君を愛している、分かっているよね?」

 サイはコクリと頷いて、

「うん。」

 と、か細い声で言った。何かを言おうとして、やめたのが分かった。

「抱いてほしい」

 それが、サイが言おうとしてやめたことだった。なので僕は鮮やかな美しい体をそっと抱きしめた。肌はすべすべと冷たくて心地よく、柔らかかい。僕の心はしんと静まった。しかしそれはサイの求めることとは全然違っているのだと、実は僕にはわかっていたのだ。

 優しくてずるい誤魔化しを重ねて2人はすれ違っていく。でも、どうしようもない。僕の胸の中の柔らかな草原に、そよ風が吹いている。

 ビー玉をポケットに入れるみたいに、大切に思う気持ちはある。でもたぶん決定的なものが欠けている。あるはずの場所にはそっと風が吹いているだけなのだ。ぼくは風の中で前を向いて黙っているだけだ。

 黒目の比率の高いその大きな大きな目から、水風船ほどもある涙が絶え間なく溢れ続けた。そのうちに、流れは大雨の日の小川のように激しくなり、やがて滝のようになった。

 涙は街を浸してしまった。世界は僕らのいる丘を残して海になり、やがて僕ら2人も浮かんでいる他なくなった。

 僕は、金槌なのでアマガエルになることにした。サイの額の上で、僕の体はプラスチックのようにピカピカと光った。

 寄る辺ないなあ、昼間の月を見ながら思う。サイと僕、2人でぷかぷか漂流しながら、長い夏を過ごしていく。

 僕は、

「ケロケロ」

 と、鳴いた。

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