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疾走するピアニズム ~二台ピアノの「響き」リサイタルを聴いて~

普段、コンサートの記録などめったに書いたりはしないが、この記憶を残しておきたくて筆を執ってみる。

私のピアノの師である黒木洋平先生のジョイントリサイタル

「松岡優明&黒木洋平 二人のソリストによる二台ピアノの『響き』vol.1 東京公演」

に行ってきた。コロナの影響で、純粋に鑑賞目的でホールでのコンサートを聴くのは半年以上ぶりかもしれない。

ジョイントリサイタルといっても、全曲目が2台ピアノで構成された挑戦的なプログラム。2台ピを90分聴き続けるのなんて初めてだ!

私は黒木洋平先生の奏法と音に惹き込まれて教えを乞うているが、実はホールで黒木先生の演奏を聴いたことはなかった。動画越しやレッスンで少し聴かせていただく音色の甘美さに、これを実地で聴いてしまったらどんな精神体験になるんだろう・・・とドキドキしながらルーテル市谷教会の門をくぐった。

もうひとつの「ワルトシュタイン」

コンサートは、ベートーヴェン/ワルトシュタイン伯爵の主題による変奏曲からスタートした。ワルトシュタインといえばベートーヴェンの21番のソナタでおなじみだが、その名を冠した4手のための変奏曲があるらしい!

テーマのモチーフは違えど、同じくC-durの朗らかな主題から始まる変奏曲である。リサイタルの始まりは、いつだって緊張感にあふれて息を吞むようだけど、今日はまったくそうではなかった。あたかもそこに音楽が存在していたかのように、聴衆の無理な注意力を喚起することなく、サラサラリンと始まったのだ!ちょっとこれは、腰を抜かすほどに自然。2台で弾いているという感覚もなくなっていく。

黒木先生はいつも、「指で音をしめ付けないで気持ちよく発声して、ピアノに歌わせて」と言っているが、まさにこのことか!

奏者が何かを能動的に歌っているという感覚はない。そして無駄な脚色は一切ない。音楽のフォルムを、本質を、これでもかとそぎ落として変奏の妙を見せてくる。いい意味でベートーヴェンのいかめしさ、いかつさを感じさせない!さまざまな木彫りの彫刻を見ているような気持ちになった。

これが自由にピアノが歌うということか・・・

シューベルトと、ショパンの抒情のコントラスト

続いてはシューベルトの幻想曲とショパンのロンドが連続して奏された。

第1ピアノはこのシューベルトだけ黒木先生が担当。シューベルトは内省的で控えめな音楽という印象があったが、何ということだろう・・・

黒木先生が演奏する始まりのモチーフ、「ド」の音の連続だけで成っているのだが、全部がドであるとは思えないくらいに雄弁なのだ。

ここで、私はにわかに気づき始めていたことに確信を得る。この2人、とにかく疾走する!しかしそれは音楽が「走る」ということでは決してない。音楽を自分から生成してひねり出す、というプロセスが一切ないのである。そこを走る馬車に奏者が乗り込んで、一緒に走っていく。どこまでも駆け抜けていくのだ。

シューベルトだって、なにか抑制するような、「大切に歌う」あまりに間延びするようなことは、この2人にはありえない。

その真骨頂は、動機のf-mollから半音上がったfis-mollの展開部にさしかかったところで発揮される。音楽がうねりを上げて、どんどん前に進んでいく。僕の後ろに道はできる、と言わんばかりに・・・。後ろを決して振り向かない!という決意、男気のようなものが感じられる。

続くショパンは、より甘いロマンチシズムの世界。18歳の若いショパンが外の世界にあこがれて、夢見ている頭の中を再現したような、青臭い音楽だ(ちょっとシューマンのアベッグ変奏曲に似ているような気もする)。

しかし、冒頭のカデンツァ風に駆け上がるパッセージ。松岡さんが奏したのだが、なんと小気味よく粒がそろっていることか!ここでいっそう私は松岡さんに注目し始めた。

うすうす気づいていたが、松岡さんの音色はめちゃくちゃ軽くて明るい。ビー玉というより、もっと軽いビーズ玉を散らしたような音たちだ。同じ現代ピアノ奏法でも、奏者の個性が出て当たり前なのだ。その音で、もちろんラヴェルの洋上の小舟だったりトッカータだったりを聴いてみたいものだが、ショパンも絶品である。

というのも、このショパン、若年の作品ということもあってブリリアントではあってもベタベタねっとり重苦しいところはあまりない。掌の上で転がすような、とにかく「軽み」のある音楽なのだ。それが松岡さんの音にぴったり合っている。

そして変わらずも、最後は疾走。シューベルトとショパン、歌いまわしの違いをたっぷりと楽しんだ。シューベルトでは「疾走するかなしみ」(この言葉は、小林秀雄がモーツァルトの短調の形容として使っていたはずだ)、そしてショパンでは「疾走するよろこび」を味わうことができた。

ひと聴き惚れ!プロコフィエフの「ハイドン風に」?!

後半はプロコフィエフの「古典交響曲」の2台ピアノリダクション版だった。「古典交響曲」...字面から何やら難解そうな曲で、涅槃交響曲なんかが頭に浮かんできて、いやこれはきっと、プロコフィエフ後期の「思考」(パンセ)みたいな、奇怪難解なプロコフィエフ節なんだろうなあ・・・理解できるのだろうか・・・という不安を抱いていた。

しかしその不安はいい意味で裏切られた。この曲はプロコフィエフが「ハイドンが現代に生きていたら作曲したであろう曲」というコンセプトで作られたもののようだ。いわば、ラヴェルが「ボロディン風に」や「クープランの墓」を作ったのと同じく、プロコフィエフによる「ハイドン風に」である。

1楽章が猛スピードで始まったとたん、なんだこれ!!!何とも言えない、すごい好みな曲である。

ハイドンの茶目っ気たっぷりのユーモアと、プロコフィエフの3番のコンチェルトのイカレたおとぎ話の世界を足して2で割ったような、微妙に気持ち悪く気持ちいい感じ!お茶に梅干しを入れて飲んでいるような感じ!

私がこれを聴いて頭に思い描いたのは「ピタゴラスイッチ」。なにやらすごい速度でボールが転がり、どったんばったん大騒ぎしているのだ。

しかし音楽的に分析しながら聴いていると、極端にモチーフが厳選され削られているのがわかる。同じリズムパターンを何度も繰り返し、目を回らせる。キュビスムのような、ミニマルミュージックのような、でもソナタ形式は守られているという不思議な音楽。この曲ばかりは、ソリストに注目しつつも、音楽の形式や作曲技法の面白さに気をとられていたら、あっけなく終わってしまった。

晴れて、「死ぬまでに一度は上演したいウィッシュリスト」に仲間入りすることとなった。

ねっとりウットリ、ウフウフ、ラフマニノフ

徐々にテンションが上がって見出しがすごいことになってきた。

最後はラフマニノフの「二台ピアノのための組曲第2番」である。2台ピアノの定番曲であるが、通して聴いたことは無かった気がする。

ここにきて黒木洋平節が炸裂してきた。

黒木先生は、とにかく弾き姿が美しい。上体はぶれないが前後に良く動き、軟体動物のように柔軟に腕全体をしなり上げるその奏法は、2時間見続けていても飽きることはない。どれだけ音楽が白熱しても、背筋と頭の位置が変わらないのは脱帽ものである。ピアニストって音も大事だけど、なにより弾き姿!(大声)自分の弾き姿が猫背で恥ずかしいのもあるが、それにしても凛々しい、黒木先生は武士のようなピアニストである。

黒木節といえば(勝手に命名)、抒情的なメロディーにおいて空間上に音を配置するようにして作り上げる至極のレガート。それは、たっぷりとしたゲルを垂らすかのような濃厚なタッチである。音はまろやかで、ねっとり安納芋のよう。ホール全体に広がっていく。ともすれば、ちょっと鬱陶しいくらいの濃ゆいタッチなのだが、彼はテンポが後ろむきになることがないから、トータルで見るとさわやかなのだ。

「歌」をアゴーギグで表現するのでなく音色の配置だけでやってのけるから、すごすぎるのであり、そこが黒木先生の企業秘密でもある。

ラフマニノフは単位時間当たりの音の数が多く、ともすればガヤガヤうるさくなってしまうことが特徴だが、松岡さんは特にそのあたりのバランス感覚に優れているようだ。

この人は、自分の音楽を主張するということが決してない。どこまでもmodestで、あるべき場所に音を持っていきました、というようなケロっとした感じで終始一貫しているから、耳なじみがよいのだ。

ラフマニノフでも、細かい音のテクスチュアをうまく制御して、黒木先生の骨太な音楽の骨格を支えているようだ。きらめきを表す高音の速いパッセージはお手の物のようで、星が天から降ってくる錯覚に陥る。

4曲ともそれぞれ、途中のゆったりとした歌の部分は、ありえないような凄まじい音がしていた。ピアノの音のはずなのに、弦楽器のような、「面積の広い」音になっているのだ。どうやって出しているのか、また根掘り葉掘り聞きたいところである。

ピアノにかじりつくんじゃない、かぶりついてしまえ。

昔は「必死な演奏」のようなものに感動を覚えることが多かった。ギリギリのところを攻めて、汗まみれになって必死にピアノにかじりついて演奏し終える、という姿に。

しかし松岡&黒木の演奏は、そんなものとは無縁である。

2人とも、いたって真顔、音楽に流されるままに、自然な風貌をしている。顔芸もゼロ!でもユラユラゆらめいて、楽しそう。

ピアノにかじりつく、というより、ピアノにむしゃむしゃと「かぶりついて」いる。おいしい果物がそこにあって、楽しく気ままにかぶりついて味わっているように見えて仕方がない。そして心から一回きりの演奏という実験を楽しんでいる。これが「本能的に演奏する」ということなのだ。

いっぽうで、自分とピアノの距離感を保ち、ホール内の音の配置を操作するという「耳の客観性」は現代ピアノ演奏法でしばしば話題となるテーマであるが、今日のリサイタルで、この2人が徹底的な耳の客観性をもって演奏を遂行していることもよく感じ取ることができた。

本能と理性は共存することができる。心は熱く、耳は冷静に・・・それは微妙な割合、バランスにおいてのみ実現することができるが、、、その一端を垣間見た、熱い夜だった。

ぜひ次は、ソロのジョイントリサイタルを聴きたい。

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