「虹霓のかたがわ」を読んで


https://bookwalker.jp/de337e6986-7ba1-44a7-a6e0-7267aec3df6e/

この小説には前後にフーコーが引用されているが、私がフーコーを読んで真っ先に印象に残ったのは、「身体を支配したいという思いとそれができないもどかしさ」の感覚であった。

このことについては以前コラムに書いたことがある。

<http://prologuewave.com/archives/2242>

片手のないペーマだけでなく、物理的な実体を持つ我々はどこかしら自分の身体に不満を持っている。

それが意のままになるとしたらどんなによいだろう。
意のままに表現できるとしたらどんないよいだろう。

しかし、「意のまま」とはどういうことだろうか?私の意識は本当に私の望みを十全に認識しているのか。寧ろ、身体性を伴ってこそ、私の意識、望みは十全に認識できるのではないか。

意識は身体を支配したい。だが意識そのものが身体性を伴っている。
そのもどかしさを、舞踏が解放してくれるのではないか? 意識と身体が融合することによって。電影が映じられる外套というギミックは、更にそこに
思うままに身体を表現したいという思いをも重ねたもののように思える。

舞踏によって意識と身体が十全に混濁し、それが一体となったとき、初めて意識が表現したいものが明確と成り、そこにアバターが重ねられる。それが『虹の身体』なのかもしれない。

アバターでの表現、という意味では、この小説はメタバースにおけるアバターで踊る少年僧、つまりVtuberでも良かったのではないかと一瞬思った。

しかしそれでは駄目なのだ。メタバースには(少なくとも現行の技術では)思い切り舞踏するような身体性がどうしても発揮しにくい。

だからこそ、街路のプロジェクターから外套にアバターをプロジェクションすること、あくまでも路上で舞踏するという舞台が必要だったのだろう。

フーコーを引用した前述の私のコラムでは、私は私の身体を支配できないが、政府には(膨大なデータを伴って)私の身体を支配できるのではないか、と書いた。

宗教の中でも、特に仏教は、意識と身体の混濁(融合)を意図した教えが多い。というよりもブッダが、「人間の意識、自我」というものの宿痾に自覚的であり、その弊害をどう無くすかを意図して教えを広めたからだろう。

(キリストにもその意図はあったが、効用を強調し、「意識というものをどう飼い慣らすか」に焦点があったと思っている)

宗教は内観を主要な手段として身体とのコンタクトを試みるが、データの方がより効果的ではある。この小説にも(背景事情として)政府による支配による宗教弾圧が過去にあったことが匂わされているが、今後は宗教も、このように技術を取り入れて積極的に身体性を意識が理解し、「混濁」を推進することになるのかもしれない。

人間の意識は幻想である。
他の動物にはない特殊なもので、強いて言えば「私は、私を囲むあらゆる存在とは別である」という感覚を与えるものだ。それはエピソード記憶の順列化など、様々な進化論的な仕組みの構築を経て人間が得たものだが、幻想であるがゆえに違和感はつきまとう。その反動として仏教があり、鳥葬のような「身体を自然に帰す」という思想もあるのだろう。

私は人間が意識を持つことの効用を積極的に支持するものである。だがそれは同時に前述の身体と意識の「混濁」を否定するものではない。その双方が同時に達成できるとするならばそれは良いことではないかと思っている。

作者が意図したことかどうかは分からないが、人間の意識によって成立した文明、それによって発展してきた技術が、それに資するならばそれこそが意識の効用の一つであるだろう。

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