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激人探訪 Vol.5 KOUTA〜THOUSAND EYES結成の根本にあるもの〜

どうも皆さん、YU-TOです。

毎回冒頭で言わせてもらっている気がするが、前回の激人探訪も大きな反響を頂けて、とても感謝している。

毎回このように感謝を述べないといけないくらい、この激人探訪の反応の高さにはびっくりしているし、やはりとても嬉しく思う。

自分の中で、"激人探訪"というものの存在がどんどん大きくなっており、今後の展開の仕方や、また違ったアプローチで様々な"激人"たちの人間性や音楽観を皆さんにお伝え出来たらと考えているので、これからの動きもぜひ楽しみにしていて欲しい。

さて、本日のゲストはTHOUSAND EYESで共にプレイするKOUTA氏だ。

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遂に彼を取り上げる時が来てしまった。

THOUSAND EYESの創始者であり、リーダー&メインソングライターであり、メディアへのスポークスマンであるKOUTA氏。

例えばVol.2で取り上げた松山氏などもバンドのスポークスマンであるが、彼はそこまで自身のこだわりや価値観などをメディアに話すタイプでは無いので、ある種この激人探訪で扱いやすいタイプの人物であった。

だが、KOUTA氏の場合はもうすでに様々なメディアで自身のギターや、作曲などに対する価値観を十分に話している。

ネットなどにも彼のインタビュー記事は多くあるし、全て被らせない事は不可能にせよ、そこと重複する内容であったら読んでる人達もつまらない。

もちろん、KOUTA氏はずっと取り上げたい人物であったが、この激人探訪でしか知り得ないKOUTA氏の人間性や、価値観というのはどこなのだろう?とずっと考えており、なかなか彼にオファーが出せずにいた。

そんな考えを巡らせながら、まあとにかくやってみなければわからないと今回KOUTA氏に話を伺ったわけだが、とにかく面白かった。

ギタリストやTHOUSAND EYESのリーダーとしてのKOUTA氏の事などは、もう皆さんはご存知であると思うし、もし知りたいのならば他の記事を読んで頂ければ良い。

この激人探訪では、いち人間、"KOUTA"が何を思い、何を感じて音楽と向き合って来たのか、そしてTHOUSAND EYESというバンドは彼にとって何を意味するのかなど、"THOUSAND EYESのKOUTA"というだけではなく、"KOUTA"というミュージシャンそのものについてを徹底深掘りして行こうと思う。

第1章 "邦楽至上主義"から始まった音楽人生

今でこそ洋楽メタル志向のイメージが強いKOUTA氏だが、実は彼の音楽人生は邦楽から始まった。

本当に最初に音楽を聴き出した頃とかはそれこそ"光GENJIが好き"とかさ、"近藤真彦カッコいい"とかだったんだけど、確か中1だったかな?同級生の家で"凄いのがあるんだよ!"ってXSilent  Jealousyを聴かされて、、そんな音楽があるとか俺知らなかったから、もう何かぶっ飛んじゃってね。"こりゃスゲェ!"って。そこから一気にロックにのめり込んだ感じかな。

この激人探訪でも何度名前が出たかわからないくらい、数々のアーティストが影響を語るXというバンド。

本当にこのバンドが世の中に与えた影響は凄まじく、名実共に真の"モンスターバンド"であるという事実を、この激人探訪を書く度に嫌というほど思い知らされる。

KOUTA氏もまた、そんな"モンスターバンド"に魅了された少年の1人であった。そして、KOUTA氏がXに魅了された理由は、彼らの持つクラシックに通じる音楽性だったと言う。

5歳だったか小1だったか、、ちょっとそれは忘れちゃったんだけどピアノを半年くらい習ってたことがあって。習うのは結局引越しとかで辞めちゃったんだけど、小5位の時に学校にあるオルガンを"男子"が弾くっていうのが謎に流行ってて(笑)それでピアノ演ってたし俺もまた演ってみようかな?って一時期また独学でピアノを弾いてた事があったのね。だからクラシック的な音楽が好きな時期が割とあって。それがあったからXを初めて聴いた時にスッと自分の中に入って来たんだよね。ロックとクラシックの融合じゃないけどさ。それがハマったきっかけだったかな。

Xの音楽性はYOSHIKI氏が持つクラシックのルーツが色濃く反映されたものであることは、Xのファンならずとも分かるであろう。

クラシックという音楽は、学校の授業やピアノ教室などでも教材として使用されることが多い音楽なので、音楽自体の敷居は高くとも、少年少女達にとってはある意味、耳馴染みのある音楽であることは間違いないだろう。

そんな耳馴染みのあるクラシックと、思春期の尖った精神を刺激する"速くて激しいメタルサウンド"が完璧に融合したXの音楽性は、当時の少年少女たちにとってはまさに"自分達の求める音楽"だったのだろうと思う。

そんな事がきっかけでロックにのめり込んでいったKOUTA氏であったが、多くの人がそうであるように、そこからどんどんと掘り下げて洋楽のロックやメタルに、、という順当な道のりを辿った訳では無かった。

中3まではXとhideしか聴いてなかったね。それで高校に入って、英文科ってとこにいたんだけど、いわゆる"帰国子女"って人達が沢山いるわけよ。俺なんてそこで初めて"帰国子女"って言葉を知ったくらいだからもう異文化の人達の集まりでさ(笑)もうみんな聴く音楽のベースが洋楽なんだよね。AEROSMITHBON JOVIだのって、、、"えっ、俺、Xだよ?"って(笑)もう結構なアウェー感で当時めちゃくちゃバカにされたんだよね。

そんな"アウェー"な異文化の世界に転がり込んでしまったKOUTA氏だが、その異文化の中で揉まれるうちに洋楽の魅力に目覚め、、、とはいかなかったようである。

RATTとかさ、VAN HALENとかを聴かされるわけよ、、、もうさ、"速くて美しい音楽"が最高だと思ってた俺にとって、"陽気で遅くて激しくない音楽"のRATTとかVAN HALENがもう大嫌いになって(笑)それで"洋楽っていうものはこんなにダサいものなのか!"って当時は思っちゃって。全然尖ってないしさ。それで余計に"俺は邦楽至上主義者だぜ"って思っちゃって、、高2くらいまではずっとそれで通してた感じだった。

ここでの少年時代のKOUTA氏の姿勢に、自分はある意味での"ROCK感"を感じる。

自分が学生時代の時から感じていた事なのだが、学校などの集団組織に属していると、"自分が好きな物"ではなく、"その集団が好きな物"に合わせてしか行動出来ない人間というのは予想以上に多い。

周りに合わせて自分の趣味趣向を簡単に変えてしまうような人間もまた然りである。

大げさな言い方かもしれないが、それは"自分への裏切り行為"であり、たとえ世間からの見え方や周りとの関係は良くなったとしても、自分自身が本当に愛する物事からは結果的に遠ざかるので、自分自身を擦り減らす無意味な行動にしかならない。

周りの大勢が"カッコいい"と言っていても自分は"ダサい"、周りが"ダサい"と言っても自分は"カッコいい"、それで良いのである。

そのように、自分の頭で考え、自分の価値観のみで音楽を聴くという少年時代のKOUTA氏の行動は、結果的に"自身の音楽性を確立する"という上では正しい行動であったように思う。

第2章 不登校からの再生と"Judas Priest"という絶対的存在との出会い

そんなアウェーな集団の中での高校生活、KOUTA氏が学校へ行くのに嫌気がさすのは時間の問題であった。

高2からは殆ど学校に行かなかったな。友達と音楽の話が出来なくてどんどん1人になっていったっていうのもあるし、あと自分の性格が悪かったっていうのが原因かな(笑)最初はね、とりあえず"行ってきます"って弁当持って学校行くふりしてさ。結構埼玉の田舎の方の学校だったから、そのまま電車乗って行くとさらに奥地に行けるわけよ(笑)それで学校がある駅を通り過ぎてその奥地まで行って、"景色いいな"とか思いながら弁当食べて(笑)それで何事もなかったかのように家に帰るっていう事をやってた(笑)

なかなか、めちゃくちゃな高校時代だったようだが(笑)当たり前だが学校側にそれがバレないわけはなかった。

まあもう何日かしたら学校側に"連絡無しで来ないしどうなってるの?"ってバレて(笑)もちろん親にもバレるわけだけど"もう絶対行きたくない"って言って、その"行ってきます"すらやらなくなったね。本当に家でずっとXばっか聴いてた。

そんな高校生活、、というか引きこもり生活を送っていたKOUTA氏だが、全く学校という場所に居場所が見出せなかった、というわけでもなかったようである。

俺、"英語放送部"って部活にいたのね。まあ、基本的にUNOをやってる部活なんだけど(笑)そこはヴィジュアル系好きな先輩とかもいたりして結構居心地が良かったんだよ。だから部活には行きたいなーってちょこっと学校に行くようにはなったんだよね。

そんな僅かながらも自分の居場所を学校で見つけたKOUTA氏だったが、同時期にそれまでは邦楽至上主義だった自分を、洋楽メタルに傾倒させる音との出会いがあったという。

何かね、たまたま友達から"聴いてみろよ"って渡されたCDにJudas Priest"Painkiller"があったんだよ。聴いてみたら"あれ?何だこれは?"って思って。なんて言うんだろ、、何か"聴いたことのない音"だったんだよね。何がカッコ良いのかよくわからないんだけど何か俺に刺さるものがあって。それで"やっぱり洋楽って結構凄いのかも"って初めて思えた。そこから一気にメタルに開花していったんだよね。

そのKOUTA氏が生涯かけて愛する事になるJudas Priestとの出会いは、引きこもりであった彼を少しずつ変えて行く事になる。

そういえばね、メタルに目覚めてから少し学校にも行きやすくなったんだよね。少人数ではあるけど"BURRN!"の話をしたりだとか、"BURRN!のレビューで〜が何点だったから買いに行こうぜ"みたいな、そういうメタルの話を出来る友達が出来て。まあ、自分がミュージシャンになろうとは1mmも思ってなかったけどね。

"メタルは世界を救う"みたいな言葉をたまに目にする事があるが、少々大げさながらも、あながち間違いではないのでは?と思う。

少なくとも、誰か1人の人生の"小さいながらも大きな1歩"となり、その人の人生をあるべき方向に導いてくれる力くらいは持っているのではないかと思っている。

多くは語らないが、KOUTA氏の話を聞いていてそのような事を思った。

この時、BURRN!のレビューを見てCDを買いに走っていた少年が、後に"CDを買いに走らせる側"の人間になろうとは誰一人夢にも思わなかったことだろう。

第3章 遅咲きのギタリスト人生

Judas Priestがきっかけとなり、本格的にメタルというものに目覚めたKOUTA氏であったが、彼がギターを本格的に始めたのは20歳の頃と、どちらかと言うと遅めのスタートであった。

高校の頃にメタル好きな友達がギター貸してくれたりとかはあったんだけど、真面目に練習したりとかはしてなかったんだよね。それで20歳の時のバイトの先輩が"バンドやりたい"って突然言い出して(笑)それで一応、高校の時からギター自体は持ってたから"ギター持ってるんでしょ?じゃあバンドやろうよ!"って感じで誘われて、、。でも俺は嫌だったんだよね、、だってバンドなんてそんな甘いもんじゃないじゃん?(笑)だから断ってたんだけど、最終的に熱意に負けてバンド始めたんだよね。それで演るからにはちゃんと演らないとって思ってギターをちゃんと練習し出したんだよ。

そのような、先輩からの半ば無理やりな(?)誘いで始めたこのバンドは、コピーと数曲のオリジナル曲で、特に作品を残すことも無く数回のライブで自然消滅してしまったらしいのだが、彼がそこからバンド活動自体を辞めることは無かった。

特に熱意なく始めたバンド活動がここまで続いた要因は何だったのだろうか?

俺、大学には行かなかったんだけど、高校時代の友達が通ってた大学の音楽サークルのイベントに呼ばれてそこでライブ演ったりはしてたんだよね。結構大きい講堂とか教室とかで演ったりとかしててさ。まあ、みんな学生だし上手い下手とか正直わからないじゃん?(笑)それで結構チヤホヤされたりとかして"おっ結構気持ちいいな"なんて思ったりしちゃって(笑)で気づいたらその俺をバンドに誘った先輩よりも俺の方がやる気になっちゃってたというか、、そんな感じだったね。

そんな、よくある学生時代の勘違い的な理由でバンドというものを続ける選択をしたKOUTA氏であったが、結果としてそれは勘違いでは無かったと言える。

それが自分の周りだけの小さい世界であるにせよ、"俺、結構いけるんじゃないか?"と思える物事は自分の中で大切に育てていかなければならない物事であり、それは一生涯かけて向き合うべき物事であるかもしれないのだ。

そのバンドが無くなった後も、KOUTA氏は自身のバンドの立ち上げに向けて動き出す。

とりあえず自分でギター弾きながら歌う事にしたんだよね。Dave Mustaine好きだったし、デスヴォイスだったらいけんじゃね?って勘違いして(笑)まあ直ぐに向いてないってわかってボーカルは辞めたんだけどね。でも2年くらいギターボーカルでライブ活動してたんだよ。完全な黒歴史だけど(笑)その頃は本当にメンバー探しに苦労してさ。ライブ1週間前にギターが蒸発しちゃったりとかそんなんばっかだったね。

ある程度は目を通したが、KOUTA氏のネット上に関する全ての記事を読めていたわけでは無いので、KOUTA氏がギターボーカルで活動していた時期があったということは自分は今回初めて知ったが、ネット上のいくつかの記事で話している内容ではあった。

本人も"黒歴史"と言っている通り、このバンドはお世辞にも何かシーンに爪痕を残す活動が出来たわけではなかったらしい。

KOUTA氏も語っている通り、当時はまだ今のようにSNSも無かった為、メンバーを探すのも一苦労であった。

同じくらいの年代に自分もバンド活動をしていたが、1年くらいメンバーが出たり入ったりを繰り返し、ちゃんとした活動が出来なかった記憶があり、"苦労してたのは自分だけでは無かったのだな"と感じる。

KOUTA氏はこの頃、メンバーが固まらないながらも何とかライブ活動は続け、徐々にアンダーグラウンドメタル界隈の知り合いも増えていったという。

そのギターボーカルを務めるバンドに限界を覚えたKOUTA氏はそのバンドを終わらせ、ライブ活動で知り合った界隈のメンバーを集め、新バンド、BLACK PEARLを結成する。

第4章 強豪達に揉まれたBLACK PEARL時代

KOUTA氏がBLACK PEARLのメンバーだったという事は自分のTHOUSAND EYESへの加入が決まってから知った事だった。

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BLACK PEARLの存在は2009年〜2010年頃、自分がQUIXOTIKというバンドをやっていた時に知った。

対バンなどはした事なかったが、自分が出たライブイベントの別日に出演していたりしていて、アンダーグラウンドなメタル界隈では名前をよく見かけるバンドではあった。

BLACK PEARLは、、とにかくケンカばっかしてたね(苦笑)曲の事とか企画の事とかでしょっちゅうケンカしてたよ。俺もライブでベロベロになってステージに上がってたりとか、、何かむちゃくちゃやってたね。

現在の普段はほぼ一切お酒を飲まないKOUTA氏からは想像も付かない姿であるが(笑)

またこの時、自分の活動する主戦場が変わり、数々の強豪バンド達とステージを共にした事で自分の中のバンドに対する意識が変わっていったという。

当時の主戦場って新宿ANTIKNOKだったんだけど当時のANTIKNOKってカッコいいバンドがスゲェーいるって思ってたのね。sqidとか兀突骨とか、、あとKings evilとかも。何か今までいた所とは世界が全然違くて"ヘラヘラしてたらダメだな"って思わされてね。そういう意味ではANTIKNOKで凄い揉まれたよね。

今までKOUTA氏が活動していた場所はどちらかと言うと正統派メタルに近い場所で、そこまで"治安の悪い場所"というわけではなかったのであろうと思う。

ただ、新宿ANTIKNOKというライブハウスはハードコアやデスメタルなどのバンドが数多く集う、イカつくて"治安の悪い"ライブハウス(音楽的意味合いで)である。

そんな場所で、しのぎを削るバンド達に当時のKOUTA氏はある種のカルチャーショックを受けたのだろうと思う。

そして、現在THOUSAND EYESでツインギターのコンビを組むTORU氏との出会いも、このBLACK PEARL時代に訪れた。

当時TORUちゃんが掛け持ってた2バンドとそれぞれ対バンしてて、TORUちゃんも俺と同じJacksonギターを使ってたからそれですごい覚えてたんだよね。しかも"Jackson stars USA"っていう結構レアなギターを使っててね。確か対バンした時もちょこっとだけ話はした気がする。正直、バンドはあんまり覚えてないんだけど、TORUちゃんはダイヤモンドみたいに輝くギタリストだったわけよ(笑)だから凄い印象に残っててね。その後たまたま行ったライブイベントにまたTORUちゃんが別バンドで出てて。それで"また会いましたね"みたいな感じで話しかけたんだよね。

激人探訪Vol.3でTORU氏に話を聞いた時も、このKOUTA氏から話しかけられた時の事を話していたが、やはりこの時のKOUTA氏はシンプルにミュージシャンとしてTORU氏に興味があったから話しかけたのだろうなと、今回の話を聞いても思った。

だが、KOUTA氏は当時、いわゆるバンド界隈の"横の繋がり"的な価値観を今より大切にしていたとも語っていた。

バンド同士で繋がり、お互いのイベントに呼び合い、時にはお互いのイベントに"顔を出す"というような関係性を作るという事だ。

バンド界隈でこの"横の繋がり"的な考え方はある種の"尊い姿勢"のようにされてる向きもある。

しかし当たり前だが、横の繋がりだけでは"ファン"は増えない。

もっとそれとは違うベクトルの事をバンド単位でやっていかなくては、純粋に自分達の音源を聴き、ライブに来てマーチ(グッズ)を買ってくれる人達を増やす事は出来ないのだ。

もちろん、その"横の繋がり"というものは大事だが、度が過ぎていくと"内輪ノリ"にしかならなくなり、"良質な音楽とそれを聴きに来るお客さん"というある種当たり前の理想像からはどんどんかけ離れたバンド活動しか出来なくなる。

このBLACK PEARLでは"横の繋がり"という価値観を優先してきたKOUTA氏であったが、活動を重ねていくに連れて、その価値観に疑問と限界を感じ始める。

第5章 "当たり前な事"に衝撃を受けたLIGHTNING

KOUTA氏の経歴を語る上で外せない存在でもあるのがLIGHTNINGというバンドだ。

バンドとは別の方向の知り合いが出来てきて、その中でLIGHTNINGとも知り合ったんだよね。ちょうどBLACK PEARLの活動に限界を感じて辞めるか辞めないかくらいの時に加入のオファーがあって。本当に何もかも辞めちゃおうかなと思ってた時期だったから、それがなかったら今音楽演ってないかもしれない。

このようにある意味KOUTA氏の音楽人生のターニングポイントになったと言えるLIGHTNINGであったが、その活動スタイルに当時のKOUTA氏は衝撃を受けていたと言う。

ライブってさ、お客さんなんていないじゃん?俺らの時代って。でもLIGHTNINGは人脈とかは殆ど無くてもお客さんが一杯いるんだよね。これは凄いなって思った。

アンダーグラウンドなシーンで活動していると、ライブハウスという場所が"お客さんがバンドのライブを観に来る場所"ではなく、いつの間にか"バンド同士でつるんでみんなでお酒を飲む場所"という捉え方に変わって来てしまう。

それはそれで楽しい事なのかもしれないが、それは"音楽"というものからかけ離れたものであり、それは本当の意味での"ライブ"では無い。

当時のKOUTA氏がLIGHTNINGから受けた衝撃は、"音源を買って聴いてくれて、ライブに足を運んでくれるお客さん"がいるというある種の当たり前な図式だった。

ライブハウスで酒飲んで"ウェーイ良かったよ〜"みたいなさ。"みんなで酒飲むの楽しい!この空間が全てなんだよ〜"みたいな価値観じゃないんだよね。ちゃんとCDを買って来てくれてて、曲を知ってて、ギターソロを覚えてて、という"ファン"がちゃんといるっていう形なんだよね。本当に今まで酒飲んで横の繋がりばっかに目を向けてた自分って何だったんだ?って、そこで反省したんだよ。

そのような、ある意味で当たり前な事をやるということがどれだけ難しい事なのかは自分も理解出来る。

ただそれは、自分の意識の向け方一つの問題だと思うのだ。自分が今いる世界から一歩抜け出し、他の世界を見る事で自分の立ち位置が明確に見えてくることもある。

この時のKOUTA氏がLIGHTNINGから与えられた衝撃というのは、同じ"ライブハウス"という規模感ながらも、全く違うベクトルで動いている世界がある現実を知ったという事なのだろうと感じた。

これはKOUTA氏の音楽活動にとって、かなりのターニングポイントになったのでないかと勝手ながら思ってしまう。

また、同じ時期に発足したプロジェクトバンド、SUM RISEも今のKOUTA氏を語る上では外せない存在なのでは無いかと思う。

LIGHTNINGの初代ボーカリストの人が俺を買ってくれててね。それで俺と一緒に何か演りたいって言ってくれてたから曲書いてアルバム一枚出したんだよ。ライブも1回だけ演ったんだけどその時にギターはTORUちゃんに頼んだ。その時にはもう俺はミュージシャンの知り合いとか誰1人としていなかったから、頼めるとしたらTORUちゃんしかいなくて(笑)テクニック的にも人間的にもだけどね。そういう状況に自分を追い込んでたから(笑)

この時のSUM RIZEのライブが、KOUTA氏がTORU氏とツインギターを組んだ初めてのライブであった。

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また、それと同時のこの時ドラムを務めていたのがTHOUSAND EYESの初代ドラマーのJUHKI氏であったことや、そのライブイベントに道元氏がボーカルを務めるAfterzeroも参加していた事などから、この日のライブイベントはTHOUSAND EYES誕生のきっかけであったとも言える。

そして、このライブイベントの打ち上げでその後のKOUTA氏の音楽人生にとって重要なトピックとなる出来事が2つ同時に起きる事となる。

第6章 ギター講師 宮脇俊郎氏との出会い

その一度限りのSUM RIZEのライブイベントの打ち上げで、KOUTA氏はTORU氏から、とあるギター講師についての話を聞く。

そのライブの打ち上げの席でね、TORUちゃんから宮脇俊郎先生っていうギター講師の人の話を聞いたんだよね。当時、俺ギターをちゃんと習ってみたいって思ってて、TORUちゃんとかそういう良いギター講師の人の情報詳しいから、相談してみたら、その宮脇先生に絶対習った方がいいよって言われて。それで後日、その宮脇先生のところに習いに行くことにしたんだよね。

この宮脇俊郎氏の教室で習った事は、そこで培われたものが無ければTHOUSAND EYESはなかったとハッキリと言えるくらい、KOUTA氏にとって重要な事であったようだ。

当時それなりにはライブやレコーディングの経験があったKOUTA氏がこのタイミングで"ギターを習いたい"と感じていたのは何故だったのだろうか?

LIGHTNINGとかと並行して、坂本英三さんのバックでギターを弾いてた事があったんだけど、そこでもう壁にぶち当たって、、。なんて言うのか、もう伸び代も無いし結構真面目に悩んでたんだよ。

ミュージシャンにとってこの"壁にぶち当たる"という事は常にある事だ。

それはテクニック面、作曲面など多種多様な"壁"がミュージシャンにとって存在するが、KOUTA氏が感じていた"壁"とは具体的にどこの部分であったのだろうか?

まず曲が覚えられない。普通の曲ってA→B→サビって繰り返して、とりあえず1サイクル覚えれば大体最後までいけるじゃん?で、ANIMETALの曲とかを演るんだけどANIMETALってメドレーだからA→B→サビで終わりで直ぐに次の曲に行っちゃうんだよね。10曲メドレーで短いかなと思ったけどその10曲分全部覚えなきゃいけない、しかも1回しか出てこないパターンを全部覚えないといけない、っていうのがしんどくてね。単純な演奏力の面も含めてギター自体も全然上手くならないし、、そんなところかな。

ここまでの約10年間、KOUTA氏はほぼ独学でギターを弾いてきた。

それまでも独学で音楽理論を勉強し、一通りの事を覚えてはいたらしいのだが、それは人から習うというものとは違うと語っていた。

曲を覚える、弾くにあたって独自の理論で演るんじゃなくて、教わった理論を使って曲を覚えていったりする方が自分には合ってたのかもしれない。もう"全てを0から教えて下さい"って言って習いに行ったからね。30歳くらいでギターを0から習うっていう。内容は音楽理論から弾き方から基礎的な事をもう全部っていう感じで。

どの分野でもそうであるが、何かを始めるのに年齢は関係ない。だが、ある程度の"覚悟"はいる。

若い時よりも吸収力は低下しているし、長年で染み付いた"悪いクセ"も当然ながらあるだろう。それを乗り越え、0から何かを学ぶという事はそう簡単な事ではない。

そこを乗り越え、KOUTA氏が宮脇氏の元で学んだ数々の事は、後のTHOUSAND EYESの音楽が生み出される肥やしの一つになったのだろう。

その宮脇俊郎氏だが、現在も下北沢でギター教室を開き、現役でギター講師をされているようだ。

ご時世的事情で、現在はオンラインレッスンという形をとっているようだが、もしこれを読んでくれているギタリストで自身のプレイに行き詰まっている方がいたら一度、宮脇氏のレッスンを受けてみてはどうだろうか?。

KOUTA氏のように、何か自分にとっての転機となるかもしれない。

第7章 THOUSAND EYESの誕生

そのSUM RIZEのライブイベントの打ち上げのもう一つのトピックが、道元氏との繋がりができた事だろう。

他のインタビュー記事でも明言している通り、これ以前のKOUTA氏と道元氏は俗にいう"犬猿の仲"であった。

もうね、単純に合わなかったんだろうね。こっちは"うわぁAfterzeroだよ"で、向こうは"うわぁBLACK PEARLかよ"みたいな(苦笑)理由はまあアレルギー反応みたいなもんで明確なのはわからないんだけど、当時けっこうBLACK PEARLってチャラついてたのかもしれない(笑)Afterzeroってけっこう真面目系じゃない?まあ、そういうとこなのかな。

そのバンドのイメージやカラーというものはどのバンドにも存在すると思うが、それがお互いに噛み合わなかったのであろう。

しかし、SUM RISEの作品をリリースしたレーベルと、Afterzeroが同じレーベルであったという縁で、SUM RIZEのリリースイベントにAfterzeroが出演する事になる。

レコ発ライブを開催する時にSUM RIZEをリリースしたレーベルが所属バンドを集めてくれてね。そこにAfterzeroがいて。まあその時は俺もBLACK PEARL臭が大分薄まってきてたし(笑)、あとTORUちゃんとAfterzeroが仲良かったからね。それで打ち上げで、俺と道元とTORUちゃんの3人で何となく話してて意気投合ってわけじゃないけど、何か割とちゃんと話せてって感じになったんだよね。

この時点ではまだTHOUSAND EYESを結成するという構想はKOUTA氏の中には無かったようだが、まず手始めに音源のみの同人系プロジェクト、"THOUSAND LEAVES"のボーカルを道元氏に依頼する形でTHOUSAND EYESの母体は作られていった。

その活動の中で、THOUSAND EYESを本格的にバンド化するという構想がKOUTA氏の中で出来ていったと語る。

結局、俺も欲が出てきてさ。俺、新撰組の土方歳三が好きで"2番手って最高だな"みたいなとこあって、LIGHTNING時代は"リーダーがいてそれを支える"っていう居心地がすごい良かったのね。でも段々とさっきのSUM RIZEみたいな感じで俺の事を買ってくれる人が出てきたりして、オリジナルがやりたいって思いが出てきたんだよね。あとはエクストリームなメタルも好きだし、そういう感じのも思い出作りで良いからやりたいなって思って。

他インタビュー記事でも語っている通り、決してKOUTA氏はTHOUSAND EYESを"気合を入れて"結成したわけではない。

"まあ、ちょっとメロデスとか作るだけ作ってみるかな"という"ある種のノリで"結成したバンドがTHOUSAND EYESである。

しかし、このKOUTA氏の中で芽生えた"ある種のノリ"はデモを作っている段階で"ある種の確信"に変わってくる。

最初に"Bloody empire""Cardinal sin""Eternal flame"の3曲が出来てて。その3曲をボーカル入れて録ってみたらすごい良くてね。実はこの3曲に関してはアルバムに入ってるボーカルもデモのままなんだよ。それで"これ、ちゃんとバンドで演ったら結構良いんじゃないか?"って盛り上がっちゃって。そこからちゃんとバンド化しようって思ったんだよね。

この瞬間に、THOUSAND EYESが唯一無二の輝きを放つ所以の一つであるKOUTA氏と道元氏のケミストリーが生まれた。

そのケミストリーに一番初めに熱狂したのは言うまでもなく、それを作り出した本人達であったみたいだ。

そのケミストリーをどうにか形にしようと、メンバーを固める為に動いていたKOUTA氏だったが、ベーシストだけがどうしても周りの人脈では見つからなかった。

しかし、ベーシストが見つからず、何気なくつぶやいた、ある意味で嘆きのようなSNSの書き込みが思わぬ人物を引き寄せる事になる。

当時はmixiかな?そこで"ベーシストどうしようかな、、"って呟いたらYOUTHQUAKEのAKIRAさんから"やってもええで"っていう書き込みがあって(笑)"あぁーー!!"って思ってすぐ連絡して次の日に飲みに行ったんだよね。

シーンの大先輩からの思わぬ加入意思の表明に、当時のKOUTA氏は恐れ慄いたという。

俺の中ではYOUTHQUAKEってさ、ド先輩、、いやもっと言うともう"メディアの中の人"なわけよ。もちろん対バンした事はあったけど、ほぼ芸能人だから(笑)でもとりあえず、やって貰う上ではちゃんと会って話して納得してもらってからにしないとなって思って、すぐ次の日にちゃんと会って話してきたんだよ。

この時、対バン経験などはあれど、KOUTA氏はほとんどAKIRA氏と話した事がなかったらしい。

これ、一番良くないんだけど対バンしてもまず恐くて挨拶ができないっていう(苦笑)もうあの"無敵世代"の人達って勝手に俺らの中でエピソードが増幅されてるじゃん?(笑)本当にやっとマイミク(注:現SNSで言うところの相互フォロー)になってもらった程度だったよ。それもLIGHTNINGのリーダーのチノさんに"AKIRAさんってマイミクとかになってくれるんですかね、、?"とか確認してやっと申請出した感じだったし(笑)まあ今思うとあの時勇気出して申請出しといて良かったよね(笑)

X、LUNA SEAなどの音楽に育てられたKOUTA氏にとって、彼らと同じExtasy Records(XのYOSHIKI氏が設立したレーベル)所属だったYOUTHQUAKEもまた、彼にとっての"ヒーロー"であった。

そんなYOUTHQUAKEのオリジナルメンバーであるAKIRA氏からの思わぬ連絡に、嬉しいを通り越してもはや"恐怖"を感じたKOUTA氏の気持ちは非常によくわかる(笑)

その、"ビール瓶でぶん殴られる想像をしながら行った"と語る(笑)飲みという名の"盃"を無事に終え、AKIRA氏にTHOUSAND EYESへの加入を承諾してもらったKOUTA氏は、いよいよ本腰を入れて1stアルバムの制作に向けて動き出す。

第8章 "Bloody Empire"誕生

一番初めにTHOUSAND EYESの音源を作る際は、KOUTA氏自身がミックス&マスタリングなどの一連の仕事を受け持つつもりでいたらしい。

しかし、デモを作る段階で"やるからにはちゃんとやろう"という思いが芽生え、一切妥協のない作品を作りたいという意志から、良質な国内メタルの音源を数多く手がけるエンジニア、Hiro氏が経営するStudio Prisonerにミックス&マスタリングを依頼する。

やっぱり作品を作るのであれば"金字塔を打ち立てたい"みたいな感じで俺の中で段々と盛り上がってきちゃって。それで、その時のレーベルから"ちゃんと一緒に作品作りが出来る人がいるよ"という事でHiroさんを紹介してもらって、リアンプとかミックス、マスタリングをお願いすることにしたんだよね。

Studio Prisonerは国内メタルシーンにおいて、無くてはならないレコーディングスタジオだ。

自分も何度かお世話になったことのあるスタジオだが、エンジニア、Hiro氏の的確なアドバイスや音作り、作品を作るという事に対する熱い姿勢は、日本のメタルミュージシャンならば誰もが体感すべきものであると思う。

この初めてのHiro氏との作品作りを振り返り、KOUTA氏はこう語る。

お互い、"妥協したくない"っていうところで凄く共鳴出来たね。"共感"じゃなくて"共鳴"するんだよね、Hiroさんって。その感覚は結構忘れられない。特に初めて1stアルバムが出来上がった時の感覚は今だに忘れられないものがあるね。

ここでKOUTA氏が語る"共鳴"という感覚は、"Hiro氏の作る音が好き"とか、"理想の音質を提供してもらった"という表面的なところではなく、"自分の作品に対する熱量を理解してもらった"という感覚なのではないかと思う。

Hiro氏は与えられた仕事を淡々とこなすというレコーディングエンジニアにありがちな姿勢で作品作りに絶対に臨まない。

アーティストがその作品にかける思いや、愛、ヴィジョンといったものをしっかりと共に共有し、そのアーティストと同じ熱量を持って共に作品を作ってくれるエンジニアがHiro氏だ。

恐らくKOUTA氏はHiro氏のそのような姿勢に"共鳴"という感覚を覚えたのだろうと思う。

また、当時のKOUTA氏はメタルという音楽から距離を置いている時期だったらしく、それもこの1stアルバムを作る上での姿勢に影響していたと語る。

当時は何かもうメタルの新譜から離れてた時期だったんだよね。DIMENSION ZERO"Silent Night Fever"以降、何か自分にぶっ刺さるバンドが出てこなくなっちゃって、、それが2002年くらいか。だからもう10年以上だよね。1st出したの2013年だから。MEGADETHも一回解散しちゃったりとか、IN FLAMESも何か違うバンドみたいになっちゃったりだとか、、そういうのが重なってもうメタルにときめかなくなっちゃったんだよね。ただメタル自体はやっぱり好きだった。だからこそ自分自身で納得出来るメタルの作品を作ろうと思った。それがTHOUSAND EYES結成の根本にあるもの。

心震わせられる作品が出てこないのであれば、自分で作れば良い。

そのようなシンプルながらも、実際に実現するのが最も難しい動機がTHOUSAND EYESの出発点であった。

そのような背景と人選で、THOUSAND EYESの1stアルバム、"Bloody Empire"がこの世に産み落とされる。

この" Bloody Empire"というアルバムは、KOUTA氏に自身の予想を上回る様々な体験を与える事になる。

第9章 掴み取った少年時代の夢

KOUTA氏には、バンドを始めた時に抱いた夢があった。

俺、バンドを始めようって思った時の最終目標が、BURRN!のレビューで80点以上取るって事だったのね。まあ、今考えたらもっと先の事でも考えなきゃいけないことあるでしょって思うけど(笑)でもやっぱり、BURRN!って1つの世界じゃん?メタルの宇宙みたいなもんでさ(笑)今はネットとかあるかもしれないけど当時はそこしかなかったから。そこで80点以上取れたら宇宙の惑星の仲間入りじゃないけどさ(笑)そのくらいの気持ちだったわけよ。

当時のBURRN!のレビューというものが持つ影響力は凄まじいものがあった。

今はいくらでも、必要過多なほどネットで情報が収集できる時代だが、当時はメタルに関する情報はBurrn!!くらいでしか得られなかったため、そこで得られる情報が自分の全てであった。

そんなBURRN!というものの中で、明確に100点満点中での点数を付け、時に辛辣なレビューや批判も厭わないディスクレビューは、ある意味ではとても信頼出来るレビューであり、お金のない学生が"今月どのCDを買いに行くか"を決める大きな指標となった。

だからKOUTA氏が語るように、このディスクレビューで高得点が取れるという事はバンドにとってかなり名誉ある事だったのだ。

そんなKOUTA氏の夢は、ある日突然叶えられる。

まずBURRN!のインタビューが受けられるって事になったのね。それでお茶の水の編集部で、俺と当時のレーベルの社長と道元でインタビューを受ける事になって。一応AKIRAさんも後見人的な感じで来てくれてたな。それでちょうどBURRN!の今月号の発売日だったから待ち合わせ時間までの間で、"レビューが載ってるはずだ"って思って本屋にチェックしに行ったんだよ。そしたら87点って書いてあって、、、"うわこれヤベェ!!"って思ったよ(笑)しかもレビューしてたのが辛口な印象のある奥野さんで、、その時の喜びは今でも忘れられない。もう本屋で天を仰いだもん(笑)で、そのあと編集部にお邪魔してインタビューを受けたんだけど、始まる前に担当だった前田さんがそのレビューが載ってる号をくれて。まだAKIRAさんは点数を見てなかったんだけどページ開けた瞬間、目ん玉飛び出てたからね(笑)

当時の新人バンドに BURRN!が87点という高得点を付ける事は珍しかった。

しかし、まず何よりもKOUTA氏にとって自身の青春時代の情報源であり、自身の愛するメタルが詰まったものであり、自身の宇宙でもあったBURRN!という存在に、自身の生み出した作品が認められたということが何よりも嬉しかったのであろう。

しかし、言ってしまえばKOUTA氏がバンドを始めた当初から掲げていた最終目標はこの時点でもうすでにクリアーされてしまった訳である。

これ以降も彼がTHOUSAND EYESを続けられた要因は何だったのだろうか?

THOUSAND EYESとして初めて人前に出る自主企画での1stライブをやった時に、それまでライブを1度もやった事ないにも関わらずチケットがソールドアウトになって。もちろん他のバンドが呼んでくれたっていうのもあるんだけど、一度もライブやった事ないのにチケットを買って観に来てくれる人がいるって事が俺と道元にはすごい新鮮で。CDを聴いてくれた人達がライブに来てくれるっていう、今考えれば当たり前だけど今までは出来なかった事が出来たわけだからさ。それで実際にライブが始まって幕が開いた時のキラキラしたお客さんの眼差しと圧が凄くて、、、今思い出しても鳥肌が立つ。本当に"こんなに喜んでくれる人がいるんだ!"って思った。LIGHTNINGとかは自分が作った曲ってわけじゃなかったから俺に対する評価じゃなかったわけだけど、自分でもそういう事が出来たんだって。それも俺にとって凄い忘れられない喜びだった。良い曲を作って良い音で録って良い演奏をするって事でお客さんが喜んでくれるっていう凄いシンプルな構図なんだけどそれをもっと頑張りたいなと。それでお客さんに恩返しがしたい。使命感とはちょっと違うかもしれないけど、やり続ける事でみんなが幸せになれる、、そう思って"これは続けた方が良いかな"って感じた。

今まで、ずっと叶えられずにいた夢をここで一気に叶える事が出来たKOUTA氏。

だからTHOUSAND EYESの1stアルバム、"Bloody Empire"は1stにして彼がこれまで培ってきた物の集大成であったのだと思う。

何故、この"Bloody Empire"というアルバムは1stアルバムにしてここまで人を感動させる事が出来たのだろうか?

それは、もうこの記事がTHOUSAND EYESの1stライブの話の時点で第9章、文字数で言ったら17000字になるという事実が全てを表している。

それは理屈で説明できる事では無い。

ここまでの物を積み重ねてきた人間が、自分の愛するメタルという音楽にもう一度真摯に向き合って作り上げた作品に、心を動かされないメタラーなどいるのだろうか?

音楽、メタルとはそういうものだ。

最終章 "最強のツインギター"で垣間見えるこれからのヴィジョン

激人探訪Vol.3でTORU氏が"ツインギターを演るのならば最強でありましょう"と、THOUSAND EYESでツインギターのタッグを組む際にKOUTA氏と意志合わせをしたと語っていた。

今回、その事についてKOUTA氏に尋ねてみるとそれはテクニックや、プレイスタイルを超えた次元であるという事を語っていた。

いやー、もうそんな最強なんておこがましい事は(笑)まあ、最強であるべきだと思うし、最強だと思って演っているけど、、音楽って他との比較って所とはまたちょっと違う部分もあるじゃない?何を持って最強であるかは"テクニックが凄いから"なのか、"速いからなのか"って話にメタルって行きがちだと思うんだけど、自分らが思う"最強"っていうのはそういうのじゃ無い、もっと別の次元にいたいんだよ。

THOUSAND EYESの楽曲において、ツインギターでのソロが楽曲の生命線になっている事はKOUTA氏も認めていた。

THOUSAND EYESのギターソロが単に"速くてテクニカルなもの"という枠内だけでは決して語れないものである事は皆さんも感じている事だろう。

楽曲というものの中に溶け込みながらも、ギターソロそのものがドラマ性を持ち、音楽的で高次元の輝きを放っている事は、THOUSAND EYESの音楽に人々が魅了される大きな要因となっている。

シンプルにワードとして伝わりやすい言葉で言うと"最強"になるんだけど、もっと別の言い方をすると"高次元の唯一無二なもの"を目指してるんじゃないかと思う。言葉にしづらいんだけど、TORUちゃんとの間でのシンパシーというか、ステージ上で第6感みたいなところで感じあってる"何か"があるんだろうなって思う。

そのKOUTA氏とTORU氏が感じあっているという"シンパシー"のようなものが音として表現されたのがあのツインギターソロという事だ。

どこかスピリチュアルめいた感じもあるが、音楽というものは演ってる本人達の人智すら超えた"何か"の存在を感じる事がある。

それは説明するのが非常に難しく、実体のつかめないものだが、確実にそこに存在し、自分が感じれるものである。

時としてそれは実体が無さすぎて無視したり、蔑ろにしたりしがちなものだが、その存在を自分が感じているという感覚は、ミュージシャンである以上は必ず自分の中に持っておかなくてはいけないものだと思うのだ。

そして、KOUTA氏は今度はその目に見えない何かを、THOUSAND EYESの音楽性そのもので表現したいと語っていた。

それをKOUTA氏は"宇宙"という突拍子もない言葉で語っていたりもしたが(笑)それは決して、音楽性が何か怪しげで宗教めいたスピリチュアル的なものになるといった事では全く無いようだ。

まあ別に"宇宙"とかそういう"精神世界"的な要素が透けて見える音楽にしたいって感じじゃなく宇宙的な要素を取り入れたいね(笑)そんなに深く考えてもないんだけど。でも結局今の音楽性以外に演りたい事って俺にはないから。だからまあ次作も今と変わらない、シンプルに自分が気に入るメロディックデスメタル的な作品に出来たら良いかなって思ってる。

KOUTA氏の語る、"宇宙"や"精神世界"というものは、摩訶不思議な音楽性というものではなく、自身の中に内存している世界という事なのだろうと思う。

その自身の中に内存する世界が、より色濃く反映された"メロディックデスメタル"を作るという事が次作に向けたKOUTA氏の意気込みなのだろうと感じた。

THOUSAND EYESの次作で聴こえてくるサウンドは、音楽性自体はTHOUSAND EYESそのものだが、そこにさらなる"深み"が増している事だろう。

現に、自分は初参加となる次作のTHOUSAND EYESのドラムは、"徹底的生々しさ"を追求したいと考えていた。

自分の持っている人間性や、自分にしか出せない音色、荒々しさと整合性の絶妙なバランスが取れた、YU-TOのメタルドラミングの集大成を残せたらと考えている。

それは言ってしまえば自分の中に内存された"精神世界"が色濃く出たドラミングであるという事であり、メカニカルで機械的なフィーリングではなく、得体の知れない"人間的パワー"を感じさせるものにしたいという事だ。

そういう意味では、KOUTA氏の中の次作に向けたビジョンと、自分が個人的に思い描いていたビジョンは割と近いところにいるのでは?と感じる。

まだまだ、先が見通せるとは言えない状況の世の中だが、必ず皆さんの耳に新たなTHOUSAND EYESの音楽を届けたいと思っている。

その新たなTHOUSAND EYESの"最高傑作"を、KOUTA氏と作り上げる日が来るのが、今から楽しみでならない。

あとがき

とにかく、今回はエネルギーを使う回だったと感じる。

KOUTA氏とは久々に会って話したのだが、特に以前と変わらず、時折バカ話なども挟みつつ楽しく執筆のための聞き取りを行わせてもらったのだが、彼との対話を録音した音声を聞きながら、色々と思いを巡らせて記事を書いていると、とにかくヘヴィな何かが体にのし掛かってくるように感じて仕方がなかった。

そしてそれは苦痛を伴う種のものではなく、むしろ何処か心地よさを感じるもので、早くこの記事を完成させたいという思いを伴う不思議な感覚であった。

その感覚は、第8章でKOUTA氏がStudio PrisonerのHiro氏に感じたという"共鳴"というものなのではないかと思う。

自分とKOUTA氏は年も離れているし、決して同世代というわけではない。

聴いてきた音楽も自分よりもKOUTA氏の方が正統派メタル寄りであると思うし、全ての音楽に対する価値観が一緒というわけではない。

ただ、彼が少年時代に感じてきた周りとの疎外感や、BLACK PEARLやLIGHTNINGなどのTHOUSAND EYES以前のバンドで彼が感じてきた事、そしてTHOUSAND EYESで手にする事が出来たものに関してはそれこそ痛いくらいに理解が出来る。

だからどこか書いていてあまり他人事のように感じないような、妙な感覚を覚え、それが自分に重くのし掛かってきたのだった。

『共感』は行動を伴わないある種の冷静さを持っている。
『共鳴』は「鳴る」と書いてあるように、「感じる」だけでなく、五感で捉えることが出来る何か別の行動が伴っている。

ネットで見つけた共感と共鳴の違いに対する記述だが、まさにこの通りだ。

自分は、KOUTA氏が歩んできた道のりを冷静さをもって見る事が出来なかったのだ。

どこか自分の実体験のようで、五感全てで感じれるリアリティがそこにあった。

だからとにかく書くのにエネルギーを使った。

言ってしまえば自分はこの記事を書く事で、KOUTA氏が歩んできた人生をある意味で疑似体験したという事になる。

それはとても体力の使う事だったが、自分の中で明確には答えられないけども"何かが分かった"体験でもあった。

これは聞き取りの後、KOUTA氏にも直接言った事なのだが、、、

自分がもし、中学の時にTHOUSAND EYESに出会っていたら、彼らは自分のヒーローになっていた事だろうと割と真剣に思う。

当時、メタルにどっぷり浸かっていた自分自身の求める音がTHOUSAND EYESには全て詰まっている。

激しさ、速さ、重さ、そして、芯の細いものでなく、図太くてパワーに満ちた" 泣き"の要素。それだけだ。他の無駄な要素はほぼ一切無い。

これを中学時代の自分に聴かせたら、それこそ目ん玉飛び出してCDショップに走っていた事だろう。

そしてそのCDは、自分の人生を彩る人生のサウンドトラックになっていたに違いない。

そんなような事を感じながら、今自分はTHOUSAND EYESでドラムを叩いている。中学時代の自分が、目標としてくれるドラマーでいられるように。

そして、ふと頭を過ぎった事だが、、

もしKOUTA氏が通った高校が"英文科"という帰国子女だらけの特殊な場所でなく、普通の高校に行っていたら、XやLUNA SEAなどの当時の彼が傾倒していたバンドが好きな同級生が沢山いた事だろう。

もし、そうであったとしたら、彼は後にTHOUSAND EYESを結成していただろうか?

そんな"たられば話"は考えても仕方のない事なのだが、自分はもしそうだったらTHOUSAND EYESは生まれていなかったのではないかと思う。

何か違う形で音楽活動をしていたかもしれないとは思うが、何故か自分にはそう思えてならない。

それは、どの章のエピソードでも同じ事が言える。

今回、半分以上の章がTHOUSAND EYESに関する内容ではないが、今回のサブタイトルは"敢えて"<THOUSAND EYES結成の根本にあるもの>にさせてもらった。

彼と作るTHOUSAND EYESの次作を楽しみに待っていて欲しい。

また皆さんの前でTHOUSAND EYESがプレイ出来る日がやってくる事を祈ってます。

                                                                                   2020/06/14 YU-TO SUGANO



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