誰かが自殺したかもしれない

 大学一年生のある日、私は寝坊をしてしまい、寝癖を軽く直すだけして急いで家を出て大学へ向かった。1限のチャイムが鳴るのと同時に門を潜るとその少し先に救急車が止まっているのが見えて、小首を傾げながら教場に入るとまだ先生は来ておらず、友人の隣の席に座りリュックから教科書とノートを出して友人と駄弁りながら先生を待った。

 その30分後くらいにようやく先生が到着した。曰く、大学構内で生徒の一人が自殺を図り、その対応のために遅れたのだという。「もう彼は何もできなくなってしまった、彼にも無限の可能性があっただろうに」先生はマイクに向かって嘆いていた。そしてすぐに板書を始め通常の授業をして私たちは学食で昼食を取って帰った。

 大学で誰かが自殺しようとした。しかし詳しいことは何も知らない。誰が、どんな方法で、どんな理由で死に向かおうとしたのか、その結果どうなったのか、私は何も知らない。先生の口ぶりから推測するしかないが、そんなこと詮索するのは興味本位で群がる野次馬と変わらない。しかし、同じ大学の、おそらく近い世代の人の自殺未遂に対して何もしないのは薄情な気もした。当たり前に授業が始まり、学食でカレーライスを頼んで、電車で帰る日常と、誰かが死んだかもしれないという事実の落差に目眩がした。人が一人いなくなったとしても、平穏な日常が侵されないことが異常に思えて、私だけ別の世界に迷い込んだ気分だった。

 今にして思えば、私はこのニュースを聞いて多少なりともストレスを感じて、それを和らげるために何か然るべき行動をとりたかっただけなのかもしれない。小学校で飼っていたウサギが亡くなった時、そのウサギのために黙祷を捧げた。曽祖母が亡くなった時、冥福を祈る手紙を書いて棺に入れた。友人が入院した時も手紙を書いた。こういう行為はきっと誰かの不幸に向き合うためのライフハックで、しかし、そういった行為も今回ばかりはできない。今までの、テンプレートな死への向き合い方ではきっと正しくないが、何が正しいのかもわからず、私は立ち尽くしてしまった。

 数年が経過した今でも、あの日の感覚がふと蘇ってくることがある。記憶は徐々に風化していくのに、当たり前に流れる日常を気持ち悪く感じたあの感覚だけは鮮明で。とりあえず文字に起こしてみたは良いものの、結局考えはまとまらない。それどころか近くにできた唐揚げ屋のメニューの方が気になっている。そういう自分の矮小さから目を逸らすために、私は今スマホに向かっているのかもしれない。

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