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憂う若者とわたし➂

前のふたつ、

繋がっているように思います

他人から、怠けているように見える事で、

ある人は、とがめられる

またある人は、とがめられない

違いは?


もう読んでいる人は、気付いているかもしれません

いろいろあるかもしれません

私は【とがめる側の、認識の問題】について、考えました


対象をとがめてもいいと認識すれば、とがめる

対象をとがめられないと認識すれば、とがめない

もしかしたら単純に、そういうことかもしれない


人間はチャンスがあれば、当然余力を残し、常に全力疾走ではない面がある、と思うのです。人間は、本当はそうだと思うのです。

しかし他者、そして社会は、何かしら期待をしてしまっています。それが、自分が不利益を被らないことではないでしょうか。(怒る自分に耐えられない人は、自分の不利益ではなく、“社会の不利益”と語る癖があるかもしれません)

自分が不利益だと感じたら、残念ながら人を傷付けることを、つい口走ってしまう(自我のせいか…抑制系が働かなくなってしまう)

信頼の厚い先輩、大きな病院の1番上の先生、

誰も口走ることを止める人は、いませんでした

それはなぜならば、

止めるのは、その人たち自分自身だからです