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「自分」と「身体」との距離感について

同居人と話していてちょっと面白かったことがあったので、他にも議論できる人や自分の知らない情報を持っている人がいそうな気がして、とりあえず雑にnoteにまとめてみる。

推敲ゼロの上に、綺麗に書こうという気持ちすら無いので、文章の質は保証しません。日曜の夜、暇潰しにどうぞ。

理不尽な「詰め」によるストレスをどう処理するか

議論の始まりは、「上司、ないしは自分より立場が上の人に、理不尽な内容で詰められたときにどう感じるか、またそのストレスをどう処理するか」という内容。

この議論が始まったきっかけは、同居人の職場での研修でベンダーの講師から非合理的な「詰め」があったことにある(本当は違うけどこの場では流石に書けないのでそういうことにしておく)。研修のアウトプットに対して現場レベルのクオリティを求めてフィードバックが行われ、他グループよりもスケジュールが遅延しまくる、と事象が発生しているとのこと。ゆるく安定的に働きたい価値観を持ちながらも外資ITコンサルという「いかにも」な環境を選んだ自己責任ではという場違いなツッコミは一旦置いておいて、同居人はとにかく、カリキュラムを通して現場業務の流れを掴むことが重視され、クオリティがそれほど求められてないはずの研修において、合理性という観点でこの詰めに納得がいかないらしい。

その話を聞いていて私はどう思うのかと言うと、「そんなストレスを感じていることもあったなあ」という感じである(もっとやれベンダー講師とも思ったが、それは黙っておいた)。というのも、2022年4-6月ごろはそういうストレスで死にそうだった。その時期は人生で一番心身ともに疲弊していた時期で、職場に行けば毎日詰められ、詰められることを怯えてアウトプットの質が落ち、更に詰められるという悪循環of悪循環を繰り返しまくっていた。しかし、ある時期からそのストレスは感じなくなった。いや、感じなくなったと言うと嘘になる。強いストレスを感じていても、処理できるようになった。

で、その理由というか、ストレスの処理の仕方を考えたとき、自分が同居人とは違う形で自分の心身の状態を認識していたことがわかった。それは、一言でいうと、「デバイス感覚」である。

デバイス感覚

デバイス感覚とは何かというと、「自身を客体化することでまるで自分の身体をある種のデバイスのように認識する感覚」と言えば伝わるだろうか。つまり、「自分という存在」と「身体というデバイス」が分離しているような感覚だ。何か悲しいことや悔しいことがあったとき、私は私の身体がデバイスとして悲しさや悔しさという感情を持ったことを認識する、という感じである。例えば、人前で喋る機会があれば多少なりとも緊張するが、「自分の身体(=デバイス)、なんか緊張してんなー」と思うし、なにか面白い映画を観たときには「自分の身体(=デバイス)、嬉しそうだなー」と思う。そういう感じ。

普段はあまり意識していないことなのだが、この感覚は、ちょっとしんどい時とか、マイナスの感情を抱えているときに強まる。それこそ上司から詰められているときは、このデバイス感覚を極限まで強めることで、「詰め」によるストレスが自分に直撃しないようにしている。自分の心身をデバイスとして捉えていれば、デバイスが仮に強いストレスを感じていたとしても、それを客観視して対応を考えることができる。自分のPCのバッテリーの状態が悪ければ、客観的な判断の上で修理に出すでしょう?そんな感じである。つまり、この感覚は自己防衛の手法として身につけたものだと言える。実際、私のデバイス感覚は、受験生をやっていた一年間と社会人一年目にかなり強まった。ストレスをうまく処理して生きていくために最適化したのだろう。

この手法が自己防衛として優れている点としては、感情をダイレクトにそのまま感じなくて良いところにある。感情って高カロリーだからね。できれば逃げたい。上司からの理不尽な詰めなんて、そのまま受け止めていたら高カロリーこの上ない。できるだけ省エネで乗り切ったほうが良いし、悩んでいる暇があったら的確なフィードバックだけ受け取って速攻改善したほうが良いに決まっている。いい感じに改善が進めば詰めもなくなるかもしれないしね。あとは、デバイスの能力拡張を楽しめるという点も、この感覚を持つメリットと言える。何かしら身につけたい技能や知識があったときに、RPGのキャラクターに魔法を覚えさせるような感じで、新しいインプットを楽しめる。最近は職場でWEB周りをひたすらインプットしているけど、デバイスの性能が上がっていく感じは非常に楽しい。

デメリットは、感情表現が苦手になることだ。感情をダイレクトに受け取れないので、表情とか仕草とかに現れるテンポが遅い。無表情とかリアクション薄いとか怖いとか言われることが多かったので改善したけど、未だに表情や仕草は豊かだとは思えない。けどまあ、こんなのはコミュニケーション能力をどうにかすればどうにかなるので、問題ない。

では、何が問題なのか。

要するに私は、新社会人や受験生という高ストレス下でパフォーマンスを発揮することが求められている人たちに相談を持ちかけられた場合、デバイス感覚を身につけるといいよというアドバイスをしたいのだ。この感覚を身につけることでストレスがあってもハードワークできるし、納得がいかないことにも折り合いをつけてやっていけるから、と。

しかし、ありとあらゆる場面で自分のことを客観視し続けることは、無条件に良いことだとは言えない。嬉しいことがあったときにその感情をダイレクトに受け取れないのは普通に悲しいし、いい映画を観たときやいい小説を読んだときくらいは感情に浸りたい。マイナスの感情もダイレクトに感じることが豊かさだという意見もあるだろう(し、自分もどちらかと言うとそっちサイドの人間だ)。

ただ、感情がどうしても動いてしまう瞬間は、デバイス感覚など働かないのも確かだ。どうしようもなく嬉しいことが起きたらどうしようもなく嬉しいし、好奇心が120%フル稼働しているときは心身の感覚に没頭しまくっている。辛いときや悲しいときも、度が過ぎると客観視なんて出来ないし。

つまり、自分と身体が一体化と分離を繰り返しながら生きていて、私は分離多めの人間ですが、どういう感じが一番豊かで幸せなんでしょうね、というのを整理したいという問題意識でございました。分離しかないとサイコパスっぽいし、一体化しかないとメンヘラっぽいし、いい感じに中間でいたいけどそれはそれでうまく生きすぎていて気持ち悪いし。という。

余談:周辺の思考

上述の感覚に関連して考えたことを適当に。
ジェンダーとかレイシズムとかそういう話にも発展できる気がします、なんか思いついた方は適当に話しかけてください。

自己肯定感が「無い」

自己肯定感が高いかどうか、みたいな話ってありがちだけど、私、自己肯定感が「無い」んですよね。自分をただのデバイスとしてみることが多くなってから、それを肯定するとか否定するとかそういう感覚が薄れた。自己効力感みたいなものを持つことはあって、それは分野とか場面とかによって移り変わる。だから、染谷くんって自己肯定感高い?みたいな質問には、自己効力感は高い方ですね、みたいな答え方をしている。

デバイスの拡張

モニター三台使って頭フル回転で仕事をしているとき、自分という存在がまるでモニターの中にいるように感じることがある。身体とPCというデバイス間がシームレスになって、境目にいる感じ。今自分どこにいるんだ?ってなる感覚、無いですか?無いですね、すみません

ファッション

他者との差異化としてのファッション、はよく語られると思うけど、自分と身体との一体化としてのファッション、という方が自分が服を着たり選んだりするときの感覚としては近い。自分の「感じ」に合う服を着ているとき、デバイスとしての身体と自分との距離が近くなる。自分と身体とが一体化して、自分でいられる感じがある。

ヒーロー

アイアンマンとかわかりやすいよね。スーツと自分が一体化しすぎていたり、そこから脱却しようとしたり、出来なかったり。ヒーローのコスチュームもこの論点で整理できると思う(というか卒論で部分的にそういう話書いたわ)


まとめ方を考えるのが面倒なので、唐突ですが以上です。お付き合いありがとうございました。

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