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作詞や作曲、内的創発について


あいみょんというアーティストの
『裸の心』という曲を耳にして
こぶしの感じや、なんとも言えない美しい旋律に、久し振りに痺れています。

今回のつらつらは、『裸の心』がきっかけです。

私は、小学校に入る前から鍵盤を触っていたように思う。ヤマハに入る前に、兄のレッスンを母に連れられて音を耳にしていた。私が持ち合わせている音感は、それが影響しているかも知れない。私もヤマハに入り、やがて隣のマンションの個人レッスンに毎週通い始めた。

ピアノの他に、学習塾、公文、絵画教室、水泳、少年野球など、多くの習い事を経験させてもらっていたが、最も長く今だに続いているのがピアノだった。30年経ったピアノの恩師とはたまに会うと立ち話がついつい長くなる。

ソルフェージュやハノンなど、基礎的なことからやっていたが、作曲はなかった。毎週課題曲数曲を与えられながら家で練習し、レッスンで弾いて上達すればまた新しい曲。いまいちであればまた来週。

モーツァルト、ベートーベン、メンデルスゾーン、ハイドン、ソナチネ、バッハ、ショパンなどなど一通りやった。兄も通っていたため、あまり重複しないようになっていった。その影響かはわからないが、兄はバッハ、私はショパンが好きだった。

レッスンは高校受験の時に一度やめ、その後は暫く趣味で弾き続けていた。ショパンばかり狂ったように練習する傍ら、当時毎日聴いていた尾崎豊に影響を受け、尾崎豊の弾き語りをしたり、作詞作曲に没頭するようになっていた。

しかし、初めて作曲したのは小学校低学年の頃だった。きっかけも思い出せないが、
『海賊たちがやってくる』というタイトルだったことは覚えている。
家で弾いていると、

母「聞いたことない曲ね」

私「自分で作ったんだもん」

母「悠が自分で作ったの?なんて曲?」

私「海賊たちがやってくる」

母と兄は笑った。
今思えば笑われたわけではないのだが、当時の私はバカにされたと思い、恥ずかしく、とても怒り、弾くのをやめて勢いよくフタをしめて、楽譜を納戸の中に投げ捨てて部屋に駆け込んでしまった。

少し陽気な旋律だったように思うが、もう楽譜はないから、再現することはできない。

高校時代はとにかく毎日学校に行くのが嫌で、やめることしか考えていなかった。毎日ヘッドフォンで尾崎豊を聴いて周囲との断絶を図っていた。

尾崎豊を知ったのは中学時代だった。
学校帰り、離婚して近くに住んでいた母親の家に寄ることがたまにあって、そこで尾崎豊のCDを見つけて『15の夜』を聴いて全身で衝撃を受けた。そのままCDを借りて毎日聴いていた。

高校時代、思春期ならではの感情、学校や社会に対する不満、対自存在と対他存在のズレや矛盾、恋心など、溢れ出る想いを学校や予備校の授業中にルーズリーフに書き殴っては、家に帰ってピアノやギターで曲をつけていた。

浪人時代は、友人バンドから詞を渡されてそれに曲をつける、ということをしていた。
この頃に兄の本棚から『山田かまちのノート』を見つけてまた衝撃を受けた。すぐに高崎の山田かまち美術館にも行った。

芸大か音大に進学したかったものの、父親の許しを得られず2年浪人して、一般の大学に進学。

大学に入ってからはあまり自分の内面を言語化することはなくなり、旋律のみの作曲が殆どとなった。

隣のマンションにお住まいのピアノの恩師とたまに会うと、
「ホール抽選当たったから悠君も発表会出ない?」と声をかけて下さり、
大学2年、4年と2回、出させて頂く機会をもらった。

2年時は、ショパンノクターン20番遺作

4年時は、無謀にも、ショパンのバラード1番を弾けるようになりたいです!と先生に伝えて挑戦した。ついでに、自作曲『waltz』と、Mr.Children『つよがり』の弾き語りまでさせて頂いてしまった。



社会人になってから、幼なじみの結婚式でMr.Childrenの『しるし』弾き語りをリクエストされた時は少し緊張した。

高校時代は、自然と必死に無我夢中で詞を書いては曲をつけていて10~20曲くらいは作っていたかも知れない。

大学以降は「曲を作ろう」と思って作ることはあまりなく、感情の起伏が大きくあった時などに旋律が降ってくることが多かった。

今年のコロナ禍では、大切な友人のセッションを受けたあとに、内面が洗われて旋律が湧き出てきた。

次は、いつ、どんな時に、どんな旋律が降ってくるだろう。。。

さて、今週は上原ひろみのライブ!!!!!

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