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問題意識を持つ、とは?

問題意識を持つ、とは具体的にどういうことなのでしょうか。

環境問題がどうとか、高齢化社会がどうとか。
戦争はよくないとか、節約しましょうとか。

今のコロナの問題に関わらず、ただぼーっとテレビを見ていても、自分の中に何も生まれない、芽生えないことには、以前から薄々と気付いていました。

発言力のある著名人が述べたことに対して、ただ「そうだよなあ」と同調したり、どこかの首相の会見を見て、「いや、そうじゃないでしょ」と否定してみたり、お笑い番組を見て、気持ちよくゲラゲラ笑ったり、本を読んで「ああ、面白かった」で終わったり。
(決してこれらの行為が悪いと言っているわけではありません)

メディアの怖いところは、極々一部を「都合よく」切り貼りして垂れ流し、見ている側は必然的に受動性が強くなってしまうこと。極端な受動性は、思考力低下を招いてしまい兼ねないと感じています。

コメンテーターの意見に「そうだよなあ」と思うのはなぜなのか? 自分はどの部分に同意し、どの部分が相容れないのか。一歩突っ込んで考えて、初めて問題が見えてくる気がします。そうでなければ、わかった気、考えた気、になって満足して一過性のものとしてただ過ぎてゆくだけ。

どこかの首相を否定しても、何も生産的ではなく、負の感情が生まれてくるだけですよね。「たしかにそういう方法もあるかも知れないけれど、それよりはこうした方がいいんじゃない?」と妥当性、正当性を見極めた上で、自分の意見を述べる「批判」はどんどんすべきだと思います。しかし、ただ単に、最初から相手の考えを受け入れず、代替案も持たないまま「そんなんじゃない!」と「否定」することは、「批判」とは大きく異なる気がするんです。

私の中で、
「否定」は、相手を最初から受け入れず、理解しようともしない。
「批判」は、相手と自分の違いを明確化し、相手と自分はここが違うんだな、と相手を尊重して、違いを受け入れる。
こんな認識です。コミュニケーションにおいても同じ考えです。

これだけ情報が溢れかえる中で、自分が必要な情報だけを受け取ることはなかなか困難なことですし、よく言われる「メディアリテラシー」というものを本当に身に付けるのは、そんな簡単なことでもないですよね。
メディアの報道に限らず、今や、どこかの首相も平気で嘘をつくので、何が真実で、何がそうでないのかを完全に見極めることは困難です。

そこで、少しでもその見極めをして、外野に左右されないためにも、自分の中に「問題意識」とやらを、ぼんやりとでもいいので持っておくとよいのかな、なんて思います。

こんなことを偉そうに言っておきながら、私もまだまだできていませんが。

自分はどう思うのか?
自分はなぜそう感じるのか?
自分の思考回路や感情を、ただ漠然と持つだけではなく、言語化することで、初めて自分でも明確に自分の考えや思いを再認識できるのだ、と最近改めて痛感し、「意識」してこのように言語化を試みているわけなんです。
エリーさんの言う、「クリエイティブマッスル」。

今までは、自分は喋るのも下手だし、文章にすると誤解されやすいし、と何かと言い訳をして逃げていただけだと、自分に喝!を入れているところです。

そのスイッチのきっかけが、
エリー学園です。

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