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自律についてあれこれと


先日、私が絶大な信頼をおいている、仏様のようなC君のライブ配信を見て感じたこと、思ったこと、考えたことを、つらつらと書いてみようと思う。決して結論などないことを始めに記しておく。なかなか言語化するのは難しいなと思い、ライブ配信後すぐに鍵盤に向かうと、自分の内面から自然と旋律が溢れ出てきて記録として動画に収めてアップしましたが、今日はロジカルにトライ。

その時の即興↓
(URLを長押しすると飛べます)

https://www.instagram.com/tv/CARrRQjjKgk/?igshid=1my19d6m331ja

自分はどれほど「自律」できているだろうか。「自立」というと、経済的に一人立ちしている、とか、物理的な要因が強い印象を受けますが、今回は内面的な「自律」について。どれほど自分を律することができているだろうか。

律するということは、決して強がって人に頼らず、自分に厳しくあることと同じではない。人に助けを求めたり、自分の弱さを見せる勇気は、自分を客観的に俯瞰し、自分の心の叫びに耳を傾けることができている証しであると思う。

忙しいことを理由に心を亡くし、自分の心の声や身体の僅かな変化に気付きつつも、強がって塞いでしまうと、いつか爆発してしまう。そうなってからでは遅い。周りにも余計な心配や迷惑をかけてしまうことになる。私自身も恥ずかしながらこういった経験はある。板前をしていた頃、職場で「ミスターストイック」と言われるほど、自分に厳しく、執拗に自分を追い込んでいた。

自分の内面に意識を向ける、とは具体的にどういうことなのか。一言で簡単に言ってしまえば、ありのまま素直になることに繋がるのではないかと考えている。もしくは、ひたすら「自分とは何者か?」と自問自答を繰り返す。

自問自答というと、どこか少し哲学的で、難しく考え込む人の、塞ぎ込んだ感じを受けるかもしれないが、私は決してそうは思わない。

たしかに、一人で何かを悩んでいたり、考え込んでいても、答えが出ないことが多いかもしれないが、自問自答を繰り返す中で、そしてその行為そのものの過程から気付けることも多いからだ。

そして、たまにそのプロセスを、周りの気の許せる親友に打ち明ける。すると、案外自分の考えていた、見ていた世界が小さかったことに気付くことができたりもする。井の中から大海に飛び出すことができる。

やや脱線するが、一人砂浜で大きな海を前にして自分の小ささを感じたり、大人数でいる中で孤独感を感じると、どこか安心感を憶える自分がいる。

意識を自分の中に向ける、という行為は、普段誰もが無意識的に行っていることかも知れない。だからこそ、たまに、あえて意識的に内観をすると、無意識的に行っている時には気付けないことに気付くことができたりもする。

そういえば、こんなに疲れて身体が悲鳴をあげているのに、労ることができていなかったな、とか、世間体を気にしてあんなことを言っているけど本当はそうではないよな、とか。自分の気持ちに寄り添うことができる。

前出のC君は、「自分の本当の想いに繋がることが『祈り』」だと言っていた。

自分の想いに繋がることができればできるほど、C君の言う『自分wifi』の感度が良くなる。

私はどうしても普段なんでも論理的に考えてしまうタイプなので、自分の気持ちや感情も、「今はこういう状況だからこうなっている。○○をこうして、××すればこうなるはず」とどうしてもすぐに「思考」を介入させる癖がある。自分の内面の感情や心の声に、思考を排除して、寄り添うことが苦手だった。

頭を使わずに答えを導き出す、というのがどういうことなのか、C君の言葉を聞いて、少しずつわかるような気がしている。自分の感情を俯瞰して咀嚼してあげる、ということ。「感じている」という事実を認識する、ということ。そっと寄り添ってあげる、ということ。

C君の述べていたことを思い返すと
思考を感情に戻すことが「問い」であり、感じているところに、答えがある。『意識のサーチライト』。

答えそのものより、問いの重要性をC君は述べていた。問うてる時間は瞑想している時間に似ている、と。

C君のセッションを受けて、瞑想をしていた時、生まれて初めて、心臓の鼓動による振動を自分の身体で体感することができて、とても驚いたと同時に感動をしたのを、昨日のことのように覚えている。

バーディー🐶がすやすや眠っているのを前に、今宵も瞑想をする。




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