飲み会が苦手な理由 -広く浅くは生きられない-

私は、大人数での飲み会が苦手だ。
"どうしても"と誘われない限りはまず行かない。
covidを理由に断れていた時期はよかった。今は、断る口実を考えるのも一苦労だ。

そもそも、私はお酒が嫌いだ。
甘くないお酒を飲んでおいしいと思ったことは一度もないし、飲みすぎると必ずと言っていいほど次の日の体調に悪影響が出る。
矛盾するようだが、アルコールには強い。普通に飲んでいてもなかなか酔わない。逆に言うと、"気分が上がる"というお酒の最大の効力を上手く享受できない。

お酒を飲んでいる人を見るのも嫌いだ。
自分がなまじ酔わない分、お酒を飲んではしゃいでいる人を見るのがとても辛い。普段はリスペクトしている人が、品のない言動をしているのを見ると、本当に気分が悪くなる。
"酒の勢いで"という言葉が、この世で一番嫌いだ。本来、人の行動や選択にお酒なんて必要ないはずなのに。自我を失った状態で得られる体験に、いったい何の価値があるのだろうか。

と、ここまでお酒に対して中傷の限りを尽くしたが、私が飲み会を好きになれない本質的な原因は、おそらくお酒ではない。

私は、飲み会という場における、自分の存在の希薄さがとても苦手なのだ。場合によるだろうが、基本的に飲み会とは、多くの人間と交流をする場だ。日常的に顔を合わせる人とも、久しぶりに会う人とも話す。相手も同じ。皆が皆と交流していく。
この秩序の無さが、とても苦手だ。飲み会での人間関係は、極めて"広く浅い"。誰と何を話すかなど重要でない。その場を、雰囲気を楽しむことが全てである。
そんな中にあって、私のことなど、おそらく誰も覚えていない。なぜなら、私と交流することは参加者の目的ではないから。飲み会という場を楽しむための、小さな小さなアクセントに過ぎない。
反駁に備える訳ではないが、私は飲み会であっても普段通り、対等に人と接するし、話した内容はほとんど覚えている。たとえ相手が、次の日には何も覚えていないとしても。

自己承認欲求が肥大化している訳ではない(と信じたい)。Instagramはやらないし、何かにつけて自分の功績をひけらかすようなことは絶対にしない。むしろ、不特定多数からの評価などどうでもいい。
だからこそ、不特定多数の一部に成り下がらざるを得ない飲み会が苦手なのだ。せめて誰かと話しているうちは、その人の記憶に残りたい。その人の"目的"でありたい。
"狭く深く"。そんな生き方しか選べないし、関わる相手もまた、そうであってほしい。だから私は、"広く浅い"飲み会が苦手だ。

余談だが、数年ぶりに恋人ができた。
存外、楽しい事ばかりではない。会っていない間は"明日で終わりかも"という恐怖が絶えず、相手を想うのにブレーキがかかる。
この間、手持ち花火で遊んだ後に、"寒くなったらまたやろう"と言われた。
他意はなかったのだと思う。それでも、少なくとも冬までは、"狭く深く"いてもいいのだと言われた気がして、ほんの少しだけ心が軽くなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?