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#2 「主が共にいる」人/サムエル記上第19章

【2023年6月13日開催京都大学聖書研究会の記録】
サムエル記上第19章を読みました。この箇所も内容が実に豊かで、参加してくださったみなさんがそれぞれ率直に意見や疑問を出してくださり、まことに充実した時間となりました。

サウルのダビデへの嫉妬、そしてそれに基づく殺意が、ヨナタンの執り成しによって一旦鎮静化したのも束の間、すぐに悪霊が降り、ダビデを執拗に追いかける。ただそのサウルがサムエルを頭とする預言者集団の集まる場(ナヨト)に行くと、その暗い思いがどこかに行ってしまい、「預言する状態」になって、裸で一昼夜過ごしてしまう。このあたりの預言者集団の効果が、なかなか面白いものでした。むろんこの預言者たちは、イザヤとかエレミアなどの記述預言者とも、王に雇用される職業預言者たちともちがいますが、その正体は不明です。彼らはいったいどのような人々であったか。そうしたことが話題になりました。

ダビデは自分の命が現王サウルに狙われていることは百も承知ですが、その割には、職務に忠実にサウルのすぐそばで竪琴を弾いたりします。それがゆえにまたまた槍で刺されそうになったりするわけですが、話し合いの中で、この(私たちから見ると)無防備な人ダビデのその無防備さは、ゴリアトと戦うときのダビデの大胆さと相通じるものがあるのではないかとの指摘がありました。私もそのとおりだと思いました。これが「主が共にいる」人の現実なのかもしれません。


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