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#6 回し者ドエグ/サムエル記上第21章

【2023年7月11日開催京都大学聖書研究会の記録】
サムエル記第21章を読みました。サウルの殺害意思を知ったダビデが、最愛の友ヨナタンと別れ、逃亡します(20章)。21章では、ダビデが逃亡の最中に経験した二つのエピソードが書かれています。①逃亡中のダビデが空腹に耐えかねて祭司アヒメレクからパンを分けてもらう(1-10節)、②同じく逃亡中のダビデが、敵であるペリシテ人の町(ガト)に逃げ込む(11-16節)、という二つのエピソードです。(21章は、訳によって節の設定が異なるようです。以下の報告では、新共同訳の節設定に依拠します。他の翻訳をお持ちの方は、以下における節の指示を適宜修正してください)

1 祭司アヒメレクの淡々とした態度

①については、共観福音書で、イエスが言及しています。安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子について、「なぜそんな違反をするのか」と非難してきたファリサイ派に対し、あのダビデだって、祭司以外食べてはならない供えのパンを食べたではないか、と反論したわけです(たとえばマルコによる福音書2:23-28)。たしかにそのとおり。供え物としてささげたパンは祭司のものであり、祭司が聖域内で食べねばならない。これが律法の規定です(レビ記24:5-9)。ところが、この場面でダビデは祭司から供えのパンをもらう約束を取りつけています。ただよく考えてみると、この事件の責任者は、ダビデというよりは祭司の方です。ダビデはパンをくれと言っただけです。供えのパンをくれと言ったわけではない。何の準備もせず逃避行に入ったダビデはよほど空腹だったのだと思います。ダビデのこの要望に対し、供えのパンならあります、と言ったのは祭司です。律法を厳格に守らねばならぬ祭司が、律法違反を提案したというわけです。この提案がなければダビデは「供えのパンをもらう(食べる)」ことをしなかったでしょうから、違反行為の真の責任者は祭司アヒメレクの方ということになります。

福音書では、ファリサイ派が弟子たちの安息日規定からの逸脱を見つけ、キャンキャン喚いていたのですが、ここでの祭司は妙に淡々としています。祭司アヒメレクは、律法を厳密に守る立場でありつつ律法違反の当事者になろうとしているわけですが、少しも力んだ様子が見えない。ふつうのパンはないけれど、供えのパンならあります、そのパンでよかったらどうぞ。供え物なので、あなたがたが女を遠ざけているということが条件ですが。大丈夫ですか?大丈夫ならOKです。どうぞ。

聖研では祭司アヒメレクのこの淡々とした姿勢が話題になりました。何だか供え物のパンもふつうの食料のようです。

2 敵地ペリシテに赴いたダビデ

②については、ダビデがなぜわざわざ敵ペリシテの町に出向いたのかに話題が集中しました。しかも祭司のところから武器としてゴリアトの剣をもらっていますから(10節)、当の町(ガト)の英雄ゴリアト(ゴリアトは「ガト出身」17:4)を殺したのは俺だ、と言いつつ町に入っていくようなものです。このことについては結局次のように理解しました。イスラエル領内はサウルの追及の目が厳しく、身を置く場所がない。敵の町ならひっそりと身を隠すことができるのではないか。そのように考えた挙句、ペリシテの陣内に入った。

ところがダビデの思惑とは異なり、ダビデはすでにガトの町でも有名人だった。ゴリアトとの決闘場面を見た者もいるかもしれない。すぐに身元が割れてしまった。それどころか家臣たちはダビデのことを「かの地の王」と言うわけです。「王が来た」ということがガトの町の王アキシュの耳に入れば、わが身が危ない。という次第でダビデは機転を利かせて狂人のふりをする。その機転が奏功し、追い払われてしまう。

3 無一物でやって来たダビデ

サムエル記上第21章に限りませんが、旧約聖書の記述は一般に実に簡潔で、そうであるがゆえに読み手の想像力がかきたてられるところがあります。サムエル記上をこれまで読んできて、事態の推移が頭の中にある読者は、ついその簡潔な記述の向こう側にあることを読み込みたくなります。いま上に記しましたように、②については、「イスラエル領内に身の置き所がない」というダビデの境遇を想像してみました。これでうまくピースがはまってくれるような気がします。

①はどうか。①を読んでいると、話の流れが自然で、ついああそうですか、と言っておしまいになりそうな気分です。祭司の態度も淡々としていて、重大な律法違反をしている重みが感じられない。ただ祭司アヒメレクとダビデの問答が、どのような状況下で行われたかに注意する必要があります。ダビデはほぼ無一物で逃亡生活に追いやられた。従者も食料も、武器さえも持たない。状況は相当に逼迫しています。だからこそ祭司アヒメレクは「ダビデを不安げに迎えた」のだろうと思います(2節)。あの大活躍していた指導者ダビデが、着のみ着のまま、食料も武器も持たずにたった一人で来た。そのことを訝しく思わないわけにはいかない。きっと背後には何かある。加えて、祭司アヒメレクの居所には、サウルからの回し者ドエグがいた(8節)。ドエグはこちらの動きを一部始終監視しているかのようだ。これも不安がかきたてられる要因だ。

4 回し者ドエグと祭司アヒメレク

なぜドエグという人物がアヒメレクのところにいたのか。岩波版旧約聖書の註によると、「逃亡者は聖所に保護を求めることが多い。おそらくダビデも逃亡の途中、必ずどこかの聖所に立ち寄るであろうことを予測して、サウルは各聖所に部下を遣わして目を光らせていたのだろう」。アヒメレクは「ノブの祭司」ですが、「聖所」とはこの場合、このノブを指します。ともかく、この説に従えば、ドエグは、サウル側の監視要員としてノブの祭司アヒメレクのところにやって来たわけです。事の成り行きに目を光らせ、逐一サウルに通報する役目だったのだろうと思います。「つわもの」とあり、相当に手ごわそうな人物です。実際、次の章では、サウルの指示に従って、祭司当人をはじめアヒメレク一族全部をほぼ絶滅させてしまう。ドエグはまさに大量殺戮の実行犯です。ぎらついた刃のような人物がそばにいたわけです。その監視のもとでダビデとアヒメレクのやりとりがなされた。となると、祭司の淡々とした受け答えも、そのせいではないかという気がしてきます。アヒメレクはあえて「淡々」を装ったのではないか。

祭司アヒメレクは自分のところにやって来たダビデの様子を見て、何かがあると直観します(2節)。なので、詳細を確かめることなくダビデの虚偽の申告(「単独行動は王の命令、従者とは後で落ち合う予定」)をそのまま受け取ります(3節)。ダビデを助ける決意をしているからです。ただの決意ではない。何があってもダビデを助ける。ダビデの支援とはすなわち王への反逆ですから、これは相当に強固な決意だろうと思います。だからこそ律法の規定を破ることも厭わず、祭司という自らの立場を否定するような提案を行う。実に大胆な提案ですが、エドム人(外国人)ドエグにはその大胆さはわからないかもしれない。だから彼の前では、平静を装う。単なる食料の供与にすぎない風を装うわけです。そんな大したことをしていないよ、ただ食べ物をあげただけ。サウルが知ったら、驚きで目を剝くようなことをしているのですが。このように考えてくると、淡々とした態度の向こう側にある、祭司アヒメレクの命懸けの思いが俄然浮上してきます。

5 「主が共にいる人」ダビデ

聖研の席上では、今回もあれこれ話題が出て、時間の経過とともにテキストがどんどん立体的になっていくように感じられました。8節に登場するドエグという人物の存在感が圧倒的で、この人物が状況を支配しているという観点からテキストをながめてみると、ダビデの窮状や切迫感が実感されるように思いました。祭司の命懸けの決意も手に取るようにわかるような気がしました。ところで、なぜ祭司アヒメレクは自らの命を賭してダビデに手を貸そうと思ったのだろうか。聖研の議論の延長でこんなことを考えてみます。21章にはむろん何も書いていないのですが、ここまでダビデ物語を読んできた者には、「主が共にいる人」ダビデが頭から離れません。祭司アヒメレクの命懸けの支援もまた、このことと無関係ではなかろうと思います。アヒメレクの目にも、ダビデが「主が共にいる人」として映っていたのではないか。そんなことを考えました。


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