#7 善いサマリア人/ルカによる福音書第10章25-37節
【2023年10月10日開催京都大学聖書研究会の記録】
ルカ福音書10:25-37を読みました。この箇所は前半が「律法の専門家」とイエスの問答(25-28節)、後半が有名な「善いサマリア人」についてのイエスの話(29-37節)という構成になっています。前半は、「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいか」という律法の専門家の問いから始まります。イエスは「律法には何と書いてあるか」と応じます。律法の専門家は、「主を愛し、隣人を愛す」ことを命じた聖書の箇所を引いて、答えとしたところ、イエスは「正しい答えだ。実行しなさい」と言います。後半の「善いサマリア人」の話とは次のような内容です。追いはぎに襲われ、半殺しの目に遭って放置された人がいた。祭司たちはその惨状を見て見ぬふりをして通り過ぎた。被害者を救ったのは、当時蔑まれていたサマリア人だった。通りかかったサマリア人は丁寧に介抱し、これ以上ないほど親切に面倒を見た。
1 永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいか
律法の専門家は「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいか」と本気で尋ねているというよりは、「イエスを試そうとして」尋ねているので、その点は割り引いて考えねばなりませんが、「‥するには何が有効か」というスタンスが特徴的です。目的―手段の関係に何より興味があるといった感じです。律法の専門家とのことなので、律法には詳しいのでしょうが、その思考パターンは、何が有効か、何をしたら何が得られるか、ということのようで、目的合理性が優越しています。
この律法の専門家にとって、「目的」にあたるのは、むろん「永遠の命を受け継ぐこと」ですが、聖研の話し合いの中では、この「永遠の命」とは何かがひとしきり話題になりました。「永遠の」命なのですから、長寿とかの即物的なことではなく、救済にかかわることであることは自明なのですが、しかし、少し具体的に考えようとすると、なかなかイメージが湧いてこない。得心がいかないので、いろいろな意見が出るわけです。「いまある命」に充足しているのでそれが永遠に続くことを求めるのではないか、とか、あるいはその逆(充足していないからこそ永遠を求める)など。あるいは長寿が話題になったりもしました。この辺りが楽しいところです。正解には少しも届いていないのでしょうが。
マルコ(12:28-34)やマタイ(22:34-40)にもこれと同じような問答はあるのですが、そこでは「何が重要な(第一の)戒めか」といういわば認識に関係する問いが出され、イエスが答えています。ルカでは上に見ましたように、認識というよりは実践的な問い(何をしたらよいか)になっています。そしてルカ福音書では、マルコやマタイと異なり、問いに対してイエスは答えてはいません。「律法には何と書いてあるか、君はそれをどう読むか」をイエスが問い返し、質問した側が答えるというかたちになっています。律法の専門家は、「訊いているのは私です、答えてください」と反論したりせずに素直に答えます。これも不思議な感じがします。彼はイエスを試そうと思って、つまり平たく言えば、ひっかけようと思って問答を開始したのですが、いつの間にかイエスの敷いたレールに乗っている。ごく自然に。レールの移動がスムーズに行われるとは、当の律法の専門家が、他の選択肢(たとえば「訊いているのは私です、答えてください」)のことを頭に思い浮かべもしない、ということです。面白い。
律法の専門家は、申命記6章5節(「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」)とレビ記19章18節(「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」)を挙げます。この2つの律法を指示することが、同時に、律法をどう読むかというイエスの問いへの答えにもなっているということだと思います。イエスはこの答えを正しい答えと言いました。あなたはわかっている。よくわかっている。律法の読みも正しい。そのあなたが「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいか」と尋ねている。永遠の命の実感がないからだろう。よくわかっていながら永遠の命の実感がないのはなぜか。言うまでもない。実践していないからだ。なので「それを実行しなさい」とイエスは言ったわけです。
せっかくイエスをひっかけようとして質問したのに、自分の足りないところがあらわになってしまった。イエスは「あなたはここが足りない」などとあからさまなことは何も言っていない。だが「実行しなさい」と言われるということは、この俺が「実行していない」と言われているのと同じだ。しかもみんなの前で。面目丸つぶれだ。「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とも言う。俺の面目が失われただけでなく、この「実行しなさい」がはじめの問い(「永遠の生命を受け継ぐにはどうしたらよいか」)への答えともなっている。問答はこれにて終了。 いやそれはまずい。何とか反撃せねば。失った面目を立て直すべく(「自分を正当化しようとして」)、律法の専門家は、「わたしの隣人とはだれか」をさらに問います。ここから後半に入ります。
2 「隣人とはだれか」という問題
レビ記の隣人愛の規定は、端的にいえば、同胞愛の規定で、ユダヤ人を愛せよ、ということです。ヤハウェの神を信じ、律法を守るユダヤ人が「隣人」です。それは自明なのですが、とはいえ、外国人でヤハウェを信じ、律法遵守の生活をしているものは隣人ではないのか、などといった隣人の範囲をめぐる議論が当時あったようで、その議論を背景にして「わたしの隣人とはだれか」が問いとして出されたわけです。隣人を愛せよと言っても誰が隣人かわからねば 愛しようがないではないか。律法の専門家はこう開き直っているかのようです。
「わたしの隣人とはだれか」という問いに答えるかたちで、有名な「善いサマリア人」の話が語られます。律法の専門家の問いは「隣人はだれか」であったのに対し、イエスはそのような細々とした問題にはまったく関心がないようです。隣人の範囲をあれこれ議論し出したら、際限がない。ああ言えばこう言うの連鎖が永遠に続くにちがいない。そういうかたちで人は大事なことからどんどん離れていく。「サマリア人」の話に出てくるような半殺しの目に遭った人がいても、そんな人のことなんか、どんどん忘れ去られていく。はっきり言えば隣人の定義など本当はどうでもよい問題なのだ。イエスの「サマリア人」の話には、こうしたイエスのスタンスが潜在しているように思えます。
3 隣人になる
イエスが祭司、レビ人、サマリア人の対比をとおして伝えているのは、「隣人になる」ということです。サマリア人という、ユダヤ人からすれば蔑みの対象である人が、隣人になった。あらゆる「隣人」定義の外にある人が、隣人として働いたわけです。だれが隣人かを突き詰めて考えようとしているその脇で、「隣人」外の人が働いた。そのことを示して「だれが隣人になったか」と問われれば、「その人を助けた人です」としか答えようがない。律法の専門家もそのように答えざるを得なかった。ここでも彼はイエスの敷いたレールに乗っている。ほかには動きのとりようがない。
祭司、レビ人は隣人にはならなかった。彼らは半殺しの目に遭った人を見て「関わり合い」になるのを面倒と思ったのかもしれない。あそこにいる人は、何かの暴力沙汰の果てに顔を腫らしている。関わり合いになると面倒くさいぞ、これは。そう思ったのかもしれません。もしけんかの果ての惨状だと思ったら、大方の人はそう考えるのではないか。あるいはよく言われるように、彼らは「親族の遺体に触れて身を汚してはならない」(レビ記21:1)という律法規定を拡大解釈して、遠目に死体と見える身体を忌避したのかもしれません。そうだとすると、祭司、レビ人は、律法を遵守した真面目な人々ということになる。だがどちらにせよ、つまり自分中心に生きる人でも、真面目に生きる人でも、「隣人になる」ことからは遠い。
4 苦痛転写と意思
イエスによれば、「隣人になる」ことの中心にあるのは、「憐れに思う」ということです(33節)。「憐れに思う」という表現は、イエスの気持ちの動きを表す言葉としてよく使われます(マルコ1:41ほか)。この言葉はもともと「自らの内臓が傷つく」というほどの意味です。つまりは苦痛転写。目の前にいる人の苦痛が自分の深部に転写されてしまう。それが「憐れに思う」の内実です。この人は深いところで動かされている。この把握に明らかなように、「憐れに思う」のは、そうしようと思う意思の結果ではありません。そうしようと思うという努力とは無縁です。そうではなく、気づかぬうちにそうなってしまった。そういうことだろうと思います。自己利益(「関わらない方が安全」)やルールの遵守(「死体は穢れている!」)を参照するのは、意思の働きですが、その動きのはるか手前で決定的な事態がすでに起きてしまった。これがサマリア人の経験したことだと思います。そしてイエスによれば、これが「隣人になる」ことの核心にある事態です。
「永遠の生命を受け継ぐにはどうしたらよいか」という問いを立てた律法の専門家にとっては、これは苦手なことかもしれない。彼は目的合理性が染みついた人ですから、「‥するにはどうしたらよいか」「…したら何になるか」といったことを考えるのは、得意です。ところが意思の作用の外で起きてしまうことについては、茫然としてしまう。制御できないことは苦手なのです。事前に準備できることが得意で、その時その場で気持ちがあふれる、といった事態が苦手。彼は目的合理性に乗った答えを期待して、イエスを問答に引っ張り込んだのですが、結果は予想とはちがってしまった。自分の苦手なことが出て来てしまった。これでは自分は隣人になれそうもない。どうしよう。
聖研の場で、上のような意味での「憐れに思う」ことは、(たとえば)ルール遵守の人にも起きるのではないか、という意見が出ました。「憐れに思う」こととルール遵守は両立可能ではないか、というご意見です。ルールを守っている人にも「憐れに思う」ことは起きる。それをルール遵守と苦痛転写を二項対立的に語ることはいかがなものか、というわけです。たしかにルール派にも苦痛転写の経験はあるかもしれない。道の向こうを通った祭司もまた内心の葛藤を経験したのかもしれない。そのとおりかもしれませんが、問題は、祭司は、そうであっても、ともかくルールに沿って動いたということです。苦痛転写は仮にあったとしても、ルールの制御のうちにとどまった。苦痛転写は彼の全体をとらえてはいない、と言ってもよい。苦痛転写の現実態として、その種のことはあるとは思いますが、そのことを根拠に苦痛転写とはそういうもの、と言い切ってしまうことは、まずい。現実態あるいは経験的現実に目を奪われすぎてはいけない。そこにあまりにとらわれすぎると、苦痛転写が何かが見えなくなってしまう。現実態は多様であることを認めつつ、苦痛転写はやはりルールとは独立に生起するもの、したがってルールの制御の彼方にあるものと見定めることが肝要と思います。イエスの話はそのことを端的に語っているように思います。
5 イエスによって救出される
聖研の場ではお話しできなかったのですが、このサマリア人の話を読むと、イエスのことが心に浮かんできます。語られているサマリア人のふるまいが、イエスその人のもののように思えてくるからです。律法という枠を超えて、重い皮膚病(という最大の穢れ)の人を癒し、世間が眉を顰める「罪人」たちと祝宴をともにしたあのイエスです。先ほど「憐れに思う」という表現は、イエスに関してしばしば使用されると述べました。イエスの場合も、苦痛転写が彼を深くとらえ、そこからルールの制御を超えた行動が生まれてくるわけです。こう考えると、「善いサマリア人」の話はまさにイエスのことを描いている話ということになります。
「善いサマリア人」の話がイエスの話でもあるということになると、この話は同時に、イエスによって救出される経験の話でもあるということになります。サマリア人の方ではなく、サマリア人に助けてもらった半殺しの目に遭った人にフォーカスすれば、そういうことになります。瀕死の重傷を負った人が、何の理由もなくこれ以上ないほどの手厚い手当てを受ける。キリストに出会うというのは、まさにこのような経験ではないかと思います。
(補足です。最後の二つの段落で述べたことについては、以前書いたことがあります。高橋由典「律法の専門家は何を聴いたか」『社会学者、聖書を読む』教文館、2009年、35-56頁、特に52-53頁。そこでは律法の専門家についても新たな理解を示しています。また「善いサマリア人」の話をサマリア人=イエスではなく、サマリア人=人と考えたときに、彼の苦痛転写の異例性の根拠は何かが気になってきます。そのことについても以前考えたことがあります。同「すべての人に対してすべてのものになる」『続・社会学者、聖書を読む』教文館、2020年、247-267頁、特に256-264頁。ご参考までに)
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