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♯29 サウルとダビデの真実/サムエル記下第1章【京都大学聖書研究会の記録29】

【2024年6月4日開催】
6月4日と6月11日は旧約聖書を読む順番です。

6月4日は、サムエル記下第1章を読みました。前回読んだサムエル記上第31章で王サウルおよびその息子ヨナタンらが死にましたが、今回のところはその後日談といってよい内容です。ある外国人の若者が、戦場から戻ってきてサウルらの死を知らせてくれます。ダビデは、貴重な知らせをもたらしてくれたその若者を何と!処刑してしまいます。その後、詩人・音楽家でもあるダビデが、サウルとヨナタンの死を悼む歌を亡き二人にささげます。

あらすじ

以上が大雑把な内容ですが、以下の報告の中身にも関係するので、もう少し詳しくストーリーを追っていきます。

アマレク人を征討し居留地ツィクラグに戻ったダビデのもとに一人の若者がやってきます。その姿かたちから、彼が死者を悼んでいることが知られます。訊くと、サウルが死んだ戦場から戻ってきたのだという。後刻、この若者が寄留のアマレク人であることが判明します。詳しい話を聞かせろ、というダビデの求めに応じて、若者はサウルの死の様子について語ります。死にかけたサウルは、敵が迫る中、自分(若者)に殺害を依頼したのだという。「とどめを刺してくれ」と言ったというのです。若者はその求めに従い、最後の一突きをしたようです。そのようにしてサウルは死んだ。若者は自分の語ったことの真実性を裏付けるべく、サウルがその時身に着けていた腕輪と王冠を差し出します。若者は、併せてヨナタンたちの死や負け戦の様子も語ったようです。ダビデはこの話を聞いて、サウル、ヨナタンそして民の死を深く悼み、断食をします。ダビデはまた、このアマレク人の若者を「油注がれた方(つまりサウル)」を殺害したという理由で処刑します。

以上のような内容が、サムエル記下1章1-16節に書かれています。同17-27節には、「ああ、勇士らは倒れた」というリフレインが印象的なダビデの歌が記されています。サウルとヨナタンの死を悼む哀悼の歌です。なんだかとても格調が高い。

いくつかの疑問

聖研の場では、1-16節に書かれてある内容をめぐって、いろいろな話が出ました。この報告でも、それらを中心に語ってみたいと思います。1-16節をめぐって聖研の場で示された疑問は次のようなものです。①ダビデはなぜ若者のふるまいが処刑に値すると考えたのか、②若者はサウルの死をなぜ自分の手柄話のように語ったのか、③若者がアマレク人であったことは、事態の推移に影響を与えたか。

ダビデはなぜ若者を処刑したのか

以下①~③について、簡単に説明します。

まず①から。ダビデは、若者を処刑する理由を「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害」したこと、としています。処刑の理由ははっきりしている。にもかかわらず「なぜか」という疑問が出てくるのは、若者が語った若者自身のふるまいには、悪意や謀反の意図はまったく感じられないからです。むしろ死にきれないでいるサウルを早く楽にしてやった功績が、大きいようにも感じられる。若者によれば、そもそも「とどめを刺す」ことを依頼したのは、サウル本人でした。なのに、ダビデはなぜ冷酷にも若者を殺してしまったのか。

これまでサムエル記を読み進めてきた者は、サムエル記上31章で描かれたサウルの死の様子を知っています。敵の手にかかって殺されることを嫌ったサウルは、自害してしまったのでした(31:4)。この話は、若者が伝えている話とはひどくちがう。つまり私たちには若者が虚偽の報告をしていることが丸見えです。彼は自分を大きく見せようとしている。こんな重大な役割を担いました、という意図が透けて見えるような話しぶりです。何か報償を期待しているのかもしれない。となれば一種の詐欺的な行為をしていることになります。

むろん彼の話の虚偽性をダビデは知る由もない。だから「詐欺」のように見ているのは、物語を遠くから見ている私たちだけです。ただダビデが若者の話の内容、口ぶり、態度などから「こいつは、ちと怪しい」と勘繰ったとしても不思議はない。となると、この若者は、貴重な情報を伝えてくれた者から一気に、王候補である自分を欺いて一儲けしようと企む不埒な者、ということになってしまう。この企みがダビデの怒りを買ったという可能性も捨てきれない。実際、註解書の中には、若者=詐欺師を自明の前提としているものもあるくらいです(『ATD旧約聖書註解6 サムエル記上1章-下1章』ATD・NTD聖書註解刊行会、1996年)。

まとめます

まとめると、若者処刑の理由については、本文中にはっきりと記載されていて、疑問の余地もないのだが、少しカメラを近づけると、処刑の理由がぼやけてしまう。そんな感じでしょうか。ある角度から見ると、若者に悪意はまったくないように見える。すなわち処刑には値しないように見える。また別の角度から見ると、若者は詐欺師的にふるまっていて、処刑やむなしと思えてくる。ただ、この場合は処刑の理由が、こともあろうに王候補を騙すという「詐欺」にこそあることになる。いずれにしても処刑は本文でいわれるほどに透明なものとは思えない。罪と罰の関係をもう少し明確にしてみたい。

若者はなぜ手柄話のように話したか

②に移ります。②の疑問は、「若者はサウルの死をなぜ自分の手柄話のように語ったのか」でした。サウルの死の事情を知る私たちには、若者の話が虚偽であることははっきりしていますし、同時に何か自分の手柄話を話しているふうにも感じられます。死にかけて苦しむサウル王を楽にしてあげたのは、俺だよ。そう言っているかのようです。

ですが、そんな話をすれば、王殺しの下手人とされ、あっという間に処刑されてしまうにちがいない。若者はその道筋を読めなかったのだろうか。若者は、サウルの死に一役買うこと、そのことをダビデが喜ぶと踏んでいるように見えます。この読み間違いはどこから来たか。これが②の提示している疑問です。

ダビデは若者がアマレク人であることを考慮したか

③について。ダビデはアマレク人を討って来たばかりでした(1節)。そこにやって来た若者が、アマレク人であることは、彼が話した内容からすぐわかります。彼は戦場でサウルに「お前は何者だ」と訊かれ、「アマレクの者です」と答えたと報告しているからです。にもかかわらず、ダビデは若者に改めて出身地を尋ね、「寄留のアマレクの子」と答えさせています。そしてその直後に処刑を命じます。油注がれた者を殺した罪、というわけです。ダビデ自身がすでに知っていること(つまり彼がアマレク人であること)をあえて当人に答えさせたこと、そしてその直後に有罪判決を下していることを考えると、アマレク人という出自と処刑という罰とが関連しているようにも思えます。むろん明示的には何も言及されてはいませんが。

このことについては聖研の話し合いでも決定打は出なかったように思います。ただ上に書いたことにもある程度示唆されているように、「アマレク人」という言明が、ダビデの心理的負担を軽減した可能性はあるように思います。あるいはダビデはそれを意図して、あえて若者に再び「アマレク人」であると言わせたか。同胞を処刑するよりは、寄留の民の処刑の方が少し気が楽。そういう心理はたしかにわからないでもない。寄留の民とはふつうの言葉でいえば外国人です。古代イスラエルにおいては、外国人(寄留の民)は保護の対象であり、相応の権利も認められていたようです(出エジプト記22:20ほか)。

③については、問いの説明をするとともに、答え(と一応想定されるもの)も併せて提示しました。

罪と罰

処刑という罰に対応する罪はほんとうのところ何だったのか。これが①の問いでした。先ほど述べましたように、見る角度によって、若者は処刑に値しない人にも、詐欺の罪を犯しているようにも見えます。しかしここでは本文で書かれているとおりにとっておきたいと思います。つまりダビデは若者の言葉をそのまま受け取り、若者がサウルの殺害に加担したことを彼の罪とした。

いま現在ダビデに真実を知る術はありません。サムエル記上31章によれば、サウルの遺体はベト・シャンの城壁にさらされ、その後ヤベシュの住民たちによって引き取られ、火葬に付された。長い時間をかければ、そうした事実関係はダビデにも知らされるでしょう。しかしいまのところその手立てはない。他方、サウルの王冠と腕輪はすでにダビデのもとに提出されていて、サウルの死を想定する状況証拠は十分。となると、当面は若者の言葉=真実という設定で(!)進めるしかない、ということになります。

その設定で進むと、浮上してくるのは、サウルの死とその死にこの若者が加担したという事実だけです。むろん若者の言葉に従えば、若者に悪意はない。しかし悪意がないかどうかという主観問題はこの際どうでもよい。次期王ダビデにとって重要なのは、若者が殺害に加担したという外的な(客観的な)事実の方です。そして同じくサウルの死という客観的事実。次期王ダビデとしてこれは放置できない。王国がその秩序維持のために至急対処が求められる第一級の事件だからです。

そこでダビデはほぼ即座に若者の処刑の指示を出したのだろうと思います。つまりダビデの目から見ると、若者の悪意のなさ、あるいはサウルに依頼されたという経緯などは考慮に値しない。詐欺的なふるまいも同様。ダビデを欺いてやろうなどという若者の思惑など、この際どうでもよいわけです。肝心なことは、(繰り返しですが)サウルが殺されたことそしてその殺害に若者が関与したこと、それだけです。そしてその罪に見合う刑罰が決定された。

冷酷という印象

ダビデのこの決定を「冷酷」と感じるのは、ダビデが若者の動機を一顧だにしないからです。そして私たちは若者の動機を重んじているからです。それは近現代人のくせのようなものです。動機あるいは当人の事情を考慮しないで、客観的事実だけで刑を決めるのは、あまりに当事者をないがしろにしているように思えます。全体の秩序維持の観点からのみ審きが行われてはかなわない。今日の人間はみなそう思い、ダビデの審きを「冷酷」と感じるわけです。

ダビデの無実を証拠立てる証言

②の問いをもう一度書いておきます。「若者はサウルの死をなぜ自分の手柄話のように語ったのか」。若者は無邪気に手柄話のようにして、サウルの死への加担を話しました。結末(処刑)を知る私たちは、つい、なぜこんなよけいなことをしゃべったのかと考えたくなります。しゃべらなければ、命を奪われることはなかった。聖研の場でもこのことが話題になり、いろいろな意見が出ました。

たとえば、若者はダビデの無実を証拠立てるために張り切って証言したのではないか、という意見。ダビデは次期王の予定だが、権力基盤は安定していない。サウルの死についても嫌疑をかけられかねない。前王を殺して王位に就く、というのは見やすいストーリーだからです。ダビデは立場上王殺しの汚名を着せられやすいところにいる。若者は、ダビデのこうした危うい立場を見抜いて、張り切って証言したのではないか。自分が加担したということは、すなわちダビデが無関係だということにほかならない。ダビデは無実だ。ダビデの側からしても、自身の無実を立証してくれるこういう者の存在は貴重だ。

ダビデの権力基盤が脆弱であるのはそのとおりで、ダビデからすれば、どんなところから水が漏れるかわからない。だからあらゆる資源を使って漏水を防ぐ。この若者の証言もダビデにとって利活用可能な資源と言ってよい。ただ、ならば、なぜダビデは若者を即座に処刑したのか。この疑問は残るように思います。

若者はサウルをダビデの敵と思っていた

若者が張り切ってしゃべっていたことが疑問なのでした。あれこれお話をしているうちに次のような意見が出ました。若者はサウルをダビデの敵と思っていて、だからこそ、その敵であるサウルが死んだこと、その死に自分も加担したことを(ダビデも喜ぶと思い)喜んで報告したのではないか。みなさんとお話しているうちに、私自身もたしかにそのとおりだなと思うに至りました。

ダビデ集団の内部にいる者ならともかく、外から成り行きを見ている者にとっては、サウルとダビデは、端的に敵対関係に見えます。サウルは長年ダビデを追いかけ、命を狙う。ダビデ集団とサウル集団という二つの武装集団は、ときに互いに睨み合ったりしています(サムエル記上24章、26章)。一触即発の雰囲気です。だから若者の判断は誤りとはいえない。次期王ダビデさんはサウル殺害に関与したという私の話を喜んでくれるかもしれない。よくやったと。褒美をもらえたりするかもしれない。若者はそのように考えたわけです。

サウルとダビデの真実

この見方に従えば、若者は、サウルとダビデの関係をただの敵対関係と見ていた。だが実際はまったくちがった。たしかにダビデは、何度もサウルを亡きものにしようという衝動に衝き動かされます。上着の端を切り取ったとき(24章)、あるいは部下のアビシャイと共に深夜サウル軍の陣営に侵入したとき(26章)。しかしどちらの場合においても、ダビデは辛うじて暴力行為の遂行からは救出された。サウルに手をかけないで済んだ。他方衝動に動かされないときは、ダビデは逃げ回るばかりです。少しも戦おうとしない。それどころか戦場でサウルに語りかけ、自身に敵意がないことを切々と訴えます。すると、不思議なことにサウルもその声に動かされ、号泣したりします(24:17)。ともかくこの二人の関係は、「敵対」という言葉では把握しきれないところがあります。

ダビデはサウルへの敬意と畏れを忘れることがなかった。このことについてはすでに書きました(「♯13 サウル、自らの非を認める/サムエル記上第24章」)。ところが世間はそのようには見ていない。世間も若者と同じように、サウルとダビデは敵対していると単純に思っています。若者の見方は世間一般を代表しているともいえそうです。

サウルとダビデはどこから見ても敵対していますから、世間に非があるわけではない。ただこの二人の関係には、ただの敵対には収まりきらぬところがあります。先ほど述べたとおりです。サムエル記上を読んできた私たちには、そのことがはっきりわかる。ただ旧約聖書という舞台上の人物でそのことを知る者は、一人もいません。だれもサウルとダビデの真実を知らない。それを知るのは、当事者のみ、サウルとダビデだけです。

サウルとダビデは敵対しているという若者の思い込みを知ることによって、ダビデは世間の見方の何たるかを知らされた。それがいかに真実から遠いかを身をもって知ったわけです。真実を知るもう一方の当事者サウルはもうこの世にいない。つまり真実を知る者は、この地上に自分一人なのです。サウルの死後この思いは強くなるばかりだと想像できます。世間との断絶の思いが強まれば強まるほど、サウルへの哀悼の念は強まるにちがいない。「ああ、勇士は倒れた」が反復される哀悼の歌(サムエル記下1:17-27)は、そのような場所に生まれました。


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