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#5 サウルの変容/サムエル記上第20章

【2023年7月4日開催京都大学聖書研究会の記録】
いま私たちが読んでいる旧約聖書サムエル記上では、古代イスラエルの預言者サムエル誕生の話から始まり、サムエルを通して「特別な人」のお墨付きを与えられた(これを「聖別された」とか「油注がれた」とか言います)サウルおよびダビデによる王国建設の時代が描かれます。王国建設が全体を包む大きな物語ですが、叙述の大部分は、サウルのダビデに対する追走、殺害企図を描くことに割かれます。サムエルから最初に油注がれた人物であるサウルは、次世代の人ダビデのことが気になって仕方がない。強烈な嫉妬をダビデに抱き、追いかけまわし、殺そうとします。

今回読んだサムエル記上第20章は、その追走劇の始まりの部分です。ダビデ、ヨナタン(サウルの子、ダビデの親友)、サウルという3人の人間のリアルな思い・動きが語られていて、興趣が尽きない箇所です。サウルのダビデ殺害の意思が明確になり、ダビデが逃亡の決意を固めます。サウルのその殺害意思をダビデに伝えるためにダビデの最愛の友ヨナタンが活躍し、最後には、今生のわかれともいえる二人の別離の場面が描かれます。章は全体として、いろいろな突込みができる内容になっていて、聖研での話し合いも話題が次々に出て来、時間が足りないほどでした。

1 かつて主が共にいた人
私がとても印象深く読んだのは、ヨナタンがダビデとの対話の中で、「主が父と共におられたように、あなたと共におられるように」と語っているところです。ヨナタンはここで、父サウルを、「かつて主が共にいた人」、したがって「今はもう主が共にいない人間」として語っています。ヨナタンは父子の関係によって目を曇らされることがない。「いま父にはヤハウェが共にいない」。そのことを正確に見極めています。聖書の記述に従えば、サウルはダビデが油注がれた直後に「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」と描かれます(16:14)。「サウルは千を討ち/ダビデは万を討った」と女たちが歌ったときにも、「神からの悪霊」がサウルを苦しめます(18章)。その有様は「主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られた」と描写されます(18:12)。ヨナタンの状況把握はこの客観的な把握に並行しています。

その一方で、ヨナタンがサウルのことを「かつて主が共にいた人」と見ていることにも、驚きを覚えました。サウルはダビデをねたみ、猜疑心で凝り固まっている。そのような人物として見るのが常なので、「かつて主が共にいた人」であった事実はかすみがちです。ですがサウルはたしかにサムエルから油注がれた、前途洋々たる青年でした。油注がれるとは、主が共にいることを象徴的に示す儀礼です。次期リーダーとして指名されたときには、荷物の間に隠れたような、権力志向とは無縁の人間だったようです(10:22)。

2 サウルの変容
いつ頃から変わったのだろうか。それが気になります。実際聖研でも次のような疑問が出されました。サウルに主からの悪霊が取りついたと書かれているが、もともと権力志向とは無縁なおとなしい人間が、なぜ悪霊のプレゼントを受けなくてはならないのか。ずいぶん酷い話ではないか。たしかに本文を読むと、主からの悪霊が取りつくあたりからサウルがおかしくなります。となると、それはサウルというよりは、ヤハウェが引き起こしている変化、ということになるのではないか。

この見方にはたしかに一理あるのですが、私はやはりサウル自身の変化が決定的であると考えます。サウルはたしかに「権力志向とは無縁」といってよい人だったと思います。ただ13:8~や15章で描かれたエピソードを読むと、王になって以降のサウルには、自分の戦功(「向かうところどこでも勝利を収めた」14:47)に自信をもち始めている様子がうかがえます。サムエルとの約束を軽んじたり(13:8~)、サムエルの指示を適当に解釈替えしてみたり(15章)、あるいは「あなたの神、主を礼拝します」と言ってみたり(15:30)。サウルとヤハウェの間にはすきま風が吹いています。そのような過程をとおして、「権力志向とは無縁」な人間は、容易に真逆な人間になりえます。実際にそうなったのではないか。王権にしがみつくサウル。「主から来る悪霊」は、まさにこのサウルの変化をとらえ、サウル自身に淵源する欲望(いまの場合なら王権維持の欲望)を逆手にとって、サウルをがんじがらめにするわけです。悪霊はその意味で実に狡猾です。しかしその狡猾さの暗躍に材料を提供しているのは、サウル本人なので、如何ともしがたい。ともかく悪霊は当人の欲望を梃子にして動く。そして当人には如何ともしがたい状況に当人を追いやる。

3 「ダビデの敵」とはだれか
もう一つ。ヨナタンは「主がダビデの敵に報復してくださるように」と言います(20:16)。この場合、「ダビデの敵」には父サウルが含まれるかどうかが、話題になりました。冒頭で記したヨナタンの状況把握の冷静さを理由に、ここでヨナタンは父を見切ったとみることも可能です。父サウルは今や主の報復に値する。これに対し、いやそうではない、ヨナタンの家とダビデの家が相互安全保障条約を結んだのだから(20:42)、サウルは「敵」からは除外されていると考えるべきではないか。議論は尽きませんでしたが、このテーマは実はダビデ自身のテーマでもあります。サウルは敵なのかそうでないのか。今後このテーマについても把握を深めていければと思います。


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