#9 祭司を殺すサウル/サムエル記上第22章
【2023年10月17日開催京都大学聖書研究会の記録】
サムエル記上第22章を読みました。前章(21章)では、サウルの攻撃を逃れたダビデが祭司アヒメレクのところでパンと剣を受け取ったと書かれていました。22章はその続きです。アヒメレクはダビデに手を貸したその行動ゆえに殺され、一族もほぼ皆殺しにされ、住んでいた町も殲滅されます。
1 あらすじ
①逃亡中のダビデがアドラムという洞窟に身を隠していると、そこにダビデの親族や現状に不満をもつ者たち400人が集まってきた
②ダビデは安全のため父母をモアブ(死海の東、異民族)に委ねた
③サウルがエドム人ドエグから、祭司アヒメレクがダビデに加担したという報告を受ける(ドエグは、サウルが祭司アヒメレクのところに送り込んだ監視要員、「#6 回し者ドエグ」参照)。
④サウルはアヒメレクを呼び出して尋問し、死罪を宣告
⑤ドエグが祭司を殺害
⑥サウル、祭司85人を殺害するとともにノブの町を徹底的に殲滅
⑦アヒメレクの息子アビアタルだけが、生き延びてダビデのもとに身を寄せる。
2 気づいたこと
上に書いた①~⑦について気のついたことを述べます。
①②ダビデが身を隠している場所に親族のみならず、「困窮している者、負債のある者、不満をもつ者」が大勢集まってきたわけで、王サウルへの不満やダビデへの期待が大きくなっていたことが窺い知れます。ダビデが父母をモアブ(ダビデの曾祖母ルツの出身地、ルツ記4:21-22)に退避させたのは、戦闘の起こることが予想されたからでしょう。
③でサウルはドエグから報告を受けます。ドエグはもともと監視要員としてアヒメレクのもとに送り込まれていた人物なので、それは当然なのですが、その一方で、残りの家臣たちは、サウルにはあまり報告を上げていなかったようです、サウルは家臣たちを前に「お前たちは誰も何も教えてくれない」という不満を述べています。王と家臣たちの間のコミュニケーションはすでに良くなかったようです。
④サウルはアヒメレクを尋問し、なぜダビデと組んで自分に背いたのか、なぜダビデのために神の託宣を求め、食料や武器を与えたのか、と問います。「託宣」については21章に記載はありませんが、託宣を受けるのは祭司の仕事ですから、こういうこともしたのでしょう。アヒメレクはその問いに対し、ダビデが忠臣であり、サウル王権の中枢にいた人物だから、と答えます。その答えを聞いたサウルは、「ならば死罪だ」と言います。辻褄が合っていない。ダビデが憎たらしい。そのダビデに加担した祭司だ、死刑相当は当然だ。サウルはアヒメレクの話を聞く前から結論を出していたのかもしれません。
⑤⑥ところがその死罪を執行する家臣がいない。古代イスラエルは宗教共同体ですから、その秩序の根幹をなす祭司に手をかけようとする者はいない。それは当然のことで、ここでおかしいのは、祭司に死罪を命じたサウルの方です。サウルは自分の首を自分で絞めようとしている。正気の判断ができない状態のようです。家臣たちは祭司を死罪とすることなどできないと考える一方、サウル王その人にも不審の念を抱いていたのかもしれません。この人の命令はもう聞けない、と。他方エドム人ドエグはそのあたりの事情には通じていない。神だろうが祭司であろうが、平気。王の命令とあれば実行するのみ。「つわもの」(21:8)と書かれているとおり、躊躇なく暴力を行使できる人物だったようです。「エドム人ドエグが行って祭司らを討った」(22:18)とあるので、アヒメレクだけでなくアヒメレクと共に尋問の席に来た親族も一緒に殺害されたらしい。22:18-19には、このエピソードの結末が記されている。祭司85人が殺害されただけでなく、民間人も年齢性別関係なく殺され、動物までも殺された。「死罪」という決定そのものが法に基づいていないように思いますし、「死罪」とは無関係な殺戮も上乗せして行われたわけで、正気の沙汰とは思えない。
⑦アヒメレクの息子が一人難を逃れ、ダビデのところに来、起きたことの報告をするわけですが、その報告を受けてダビデは責任を感じます。私はスパイであるエドム人ドエグに気づいていた。にもかかわらずドエグの見ている前で、パンをもらい、剣を受けとった。軽率だった。予想通りドエグはサウルに報告し、それをきっかけにこんなことになってしまった。ダビデにしてみれば、ドエグの行動は予想できたでしょうが、報告を受けたサウルがここまでやるとは想像もできなかった。サウルの狂気についての見通しが甘かったということになります。
3 祭司を殺すサウル
22章全体を読んで最も強く印象に残るのは、やはり祭司アヒメレク(およびその親族、町、一般人)の殺害です。聖研の場でもこのエピソードに議論が集中しました。十戒では「殺すな」という禁止命令がありますが、それは殺人一般の禁止というよりは、同胞を殺害することを禁じた命令です。むろん同胞であっても、何か犯罪を犯した者ならときに死罪もあり得ます。金の子牛事件のときには、レビ人はモーセの命令で「自分の兄弟、友、隣人」を殺害したのでした(出エジプト記32章)。
ところがアヒメレクは何の罪も犯していない。いかなる意味でも律法違反をしていない。にもかかわらずサウルの恣意で殺害されてしまったわけです。つまりサウルは端的に十戒に背いたことになります。しかもアヒメレクは祭司です。サウルは文字どおり天に唾しているわけです。サウルはそれにとどまらず、更に祭司の一族、ノブの町に住む民間人を性年齢の別なく殺し、動物まで殺します。ダビデへの憎悪が相当に根深いものだとしても、これはいかにもやりすぎという感じがします。常軌を逸している。
サウルについてはしばしば「悪霊が降る」という記述がなされます。傍から見てまったく合理性のない思いや感情にとらわれているさまが、「悪霊が降る」と形容されるわけですが(サムエル記上16:14、19:9など)、今回のサウルのふるまいもそのようなものだったかもしれません。
アヒメレク一族の滅亡は、祭司エリに対する預言というかたちですでに予告されていました(2:27-36)。二人の息子の不行跡(2:12-17)を主たる理由として、「あなたの家の男子がどれほど多くとも皆、壮年のうちに死ぬ」「あなたの家の一人だけは、わたしの祭壇から断ち切らないでおく」という預言がなされていたのでした。したがって今回の事件は、この預言の成就ということになります。アヒメレクの息子は一人たしかに生き延びました。
4 理不尽な死と徹底した殺戮
預言が成就したと簡単に片づけることに躊躇を覚えるのは、私たちが物語を読んできて、祭司アヒメレクに何の罪もないことをよく知っているからです。アヒメレクにとっては、この死はとてつもなく理不尽な死です。いかなる正当な理由もない死。死罪の決定を聞いた後の彼の反応は記されていませんが、彼に申し開きの機会が与えられたなら、王の決定の不合理、そしてこの王を立てた神に対する異議申し立てをしそうな気がします。
22章に記されたこのエピソードはまことに凄惨で、殺戮の現場にいたら、目をそむけたくなるような内容であるように思います。こういう話は聖書に相応しくないという印象をもつ人もいるかもしれません。今回ばかりではない。聖書にはこのような血なまぐさい話が度々出てくるので、いやになる。士師記にはたしか死んだ女性の身体を切り刻んで各部族に送った、といった惨たらしい話も出てきた。いったい聖書の聖たるところはどこにいったのだ。
この不満というか否定的な印象というのは、旧約聖書に関して起こりがちで、ごく当然の反応だと思います。私もその反応を共有しますが、その一方で、旧約聖書は人間のあからさまな現実をそのままに描いていることに強い印象を受けます。憎しみのあまり、坊主憎けりゃのたとえどおり、無関係なものをも巻き込んで徹底した殺戮を遂行する。何でもあり、という印象です。タガが外れると行くところまで行ってしまう。そしてその傍らには、徹底して理不尽な死も存在している。
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