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♯17 救出されたダビデ/サムエル記上第26章【京都大学聖書研究会の記録17】

【2023年12月12日開催】
今回もまた大変に恵まれたひと時でした。みなさんとともに聖書を読む楽しさと恵みを存分に味わいました。今回読んだ箇所はサムエル記上第26章。以下のようなストーリーです。

①ジフの人々が再度ダビデの居場所を通報し(23:19-20にも同じようなことがありました)、サウルはその情報に基づいて捜索を続け、ダビデ軍と相対するに至る。
②ダビデとアビシャイ(ダビデの部下)は夜間サウルの幕営地に侵入し、就寝中のサウルと司令官アブネルを見つけ、サウルの槍と水差しを盗む。アビシャイはサウルを刺殺することを進言するが、ダビデは主に油注がれた者を殺すことは相成らぬと言って何もせずに去る。
③ダビデは陣地に戻り、そこから敵陣にいる司令官アブネルに大声で「お前は王を守れなかった。何をしているのか。この槍と水差しを見よ」と説教する。
④ダビデの声に気づいたサウルに対し、ダビデはいま一度〔24章に続いて〕、なぜ私を追跡するか、を問う。
⑤サウルは、ダビデの言葉に「わたしが誤っていた、愚かであった、過ちを犯した」と言って、素直に反省の弁を述べ、「わが子」ダビデを祝福する。

1 よく似ている24章と26章


この物語は24章で語られている話とよく似ています。24章では、たまたま同じ洞窟に入ってきたサウルの上着の端を切ったダビデが、後刻その上着の端を見せながらサウルに話しかけたのでした。あなたを殺そうと思えば、殺せた。この上着の切れ端がその証拠だ。だが私は殺さなかった。私はあなたに反逆しない。一匹の蚤のような私をなぜしつように追い回すのか。サウルはこのダビデの言葉を聞いて、号泣し、「お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」と自らの非をあっさりと認めた。そしてダビデが次期王であることを認め、祝福した(「♯13 サウル、自らの非を認める」参照)。

道具立てや設定はちがいますが、24章と26章の並行関係は明らかです。ダビデにサウル殺害のチャンスがあったこと、だがダビデは殺害に手を染めなかったこと、殺さなかった証拠として「モノ」(24章では上着の切れ端、26章では槍と水差し)が出てくること、ダビデはその「モノ」=証拠をサウルへの訴えに活用していること、サウルは、ダビデが「チャンスがありながら自分を殺さなかったこと」にいたく感動し、素直に反省の弁を述べたこと。構造はまったくと言ってよいほど同じです。同一の物語資料が基になっているのかもしれませんが、ここではその問題には深入りせず、現行聖書に書かれてある内容に即して考えていきたいと思います。

2 ダビデの敵地侵入


聖研では主として二つのことが話題になりました。一つは❶ダビデとアビシャイの敵陣への侵入の動機、もう一つは❷サウルの度重なる反省の弁です。❶から述べます。

24章とはちがい、26章ではダビデとアビシャイの侵入がことの発端です。24章ではサウルは偶然ダビデたちのいる洞窟に無防備な姿で現れたのでした。なぜダビデとアビシャイは敵の幕営地に侵入したのか。その後の経過を見ると、ダビデはサウルとの対話のきっかけを得るために、槍と水差しを盗みに侵入したようにも見えます。アビシャイは一突きで殺して見せます、と逸る気持ちを抑えられないふうですが、ダビデは冷静に見えます。主が油を注いだ人を殺してはいけない、とアビシャイを制止します。

いかにも「主が共にいる」ダビデらしいふるまいですが、ただ、はじめから槍と水差しを盗むために侵入したと考えるのは、実は少し苦しい。生きるか死ぬかの戦場で、自らの命を賭して、サウル説得のための証拠を盗むために侵入するだろうか、ということです。敵の幕営地に行ってみたら、たまたま就寝中のサウルとアブネルに出くわしたわけで、そうなってはじめて槍と水差しを盗むという話が出てくる。初めからそれを計画していた、と考えるのはやや無理がある。

3 暗殺目的か


聖研の場の話し合いの中で、ダビデとアビシャイは敵の幕営地に暗殺目的で侵入したのではないか、という意見が出ました。その後のストーリー展開では、ダビデはアビシャイの殺害企図を抑える役回りになっていますが、実は二人はもともとサウルの寝首を掻こうと侵入したのではないか、というわけです。私にはその発想がなかったので、なるほどと思いました。たしかに両陣営が相対している状況下で、敵陣に深夜侵入するという営為が、平和的な目的に基づくとは考えにくい。殺すか殺されるかという状況の中で大将自ら敵陣に侵入するわけですから、決死行そのものです。命を懸けて命を奪いに行く。たしかに。だからこそダビデはその決死行をともにする人間をあえて募ったのでしょう(「サウルの陣地に、わたしと下っていくのは誰だ」26:6)。

もちろん、暗殺目的などといったことについて聖書本文はひと言も語っていない。だからこの話はあくまで想像上の話です。素人があれこれ想像をたくましくしているといった程度のことにすぎません。ただこう考えることによって、聖書本文を見ているだけでは埋められないピースが埋まるというのもたしかで、ここではそのスタンスで26章に接近したい。

4 暗殺企図と自尊心の膨張


暗殺目的の侵入と考えるとすると、即座に、これまでのダビデのふるまいとの整合が気になってきます。ダビデはその登場の最初から実に無防備な人として描かれています。一度サウルから槍で命を狙われた経験があるにもかかわらず、サウルのそばで相変わらずのんびりと竪琴を奏で、予想どおりというべきか、再度槍で殺されそうになります(19:10)。サウルが自分の命をつけ狙うことについて、思い当たる節がないと最初から言っていますし(〔ヨナタンに向かって〕「お父上に対してどのような罪や悪を犯したからと言って、わたしの命を狙われるのでしょうか」20:1)、サウルに対する敬意や畏れも失うことがない(このことについては、前出「♯13 サウル、自らの非を認める」で詳しくふれました)。だからサウルに追いかけまわされ、命を狙われても、自分からサウルに対して攻撃を仕掛けることはない。逃げ回るだけです(23:25-26)。ダビデはペリシテ人と戦って勝利を収め、ケイラの町の人を救います(「♯10 神の介入と人間の責任」参照)。つまりダビデ集団の戦闘能力は高い。にもかかわらずその戦闘能力をサウルに振り向けることはない。

このように描かれるダビデがサウルの暗殺に出向くだろうか。それが引っかかるところです。敵陣に侵入することにサウル殺害以外の目的を想定することは難しい。たしかにそのとおりですが、ただダビデのこれまでのヒストリーを考えると、サウル殺害のポテンシャルが一体どこから来たのかが気になります。ダビデは武人ですが、サウルに対しては、一貫して敬意と畏れを失っていない。武人でありながら無防備と言ってよいくらい平和主義的です。このダビデの態度とサウル暗殺のための侵入とはどのようにして結びつくか。

一つヒントになりそうなのが、25章で描かれたダビデです。ダビデはそこでナバルの言葉にキレて、ナバル一族の皆殺しを決意したのでした。この暴力的なダビデはどこから来たか。それはサウルに次期王として認められたことに由来するのではないか。「♯14 ダビデ、キレる」ではそのように推察しました。現王に次期王として認められた。このようにして膨らんだ自尊心がナバルによって破裂させられ、皆殺しを決意するに至った。この時はナバルの妻アビガイルによって事なきを得たのですが、自尊心の膨張は今でもまだ続いている。その膨張が今回、サウルへの敬意と畏れを凌駕したのではないか。ダビデをして暗殺行を決意せしめたのではないか。

5 ダビデ、危ういところで救出される


先ほど24章と26章が並行しているという話をしました。構造についてはたしかにそのとおりですが、26章の把握を上のとおりとすると、ダビデその人のイメージは大きく変化したことになります。24章では、ダビデは上着の端を切ったことに激しい後悔の念に襲われます。主に油を注がれた人にこんなことをするのを「主は決して許されない」。そのようにダビデは言う。ところが26章では、サウルを畏れ敬っていたそのダビデが、今やサウルの寝首を掻こうとして出かけるに至る。物語の構造がほぼ同一なだけに、ダビデ像のこの変容は印象的です。この変容の原因を伝えるエピソードが25章だったのではないか。ナバルにキレて皆殺しを図るダビデの話をとおして、たしかにダビデの肥大した自尊心がこちらに伝わってきます。その膨らんだ自尊心がサウル暗殺企図を支えた。そんな気がしてきます。

ダビデは実際には暗殺に至らなかった。「殺してはならない」と言い、「主が油を注がれた人に手をかけてはいけない」と言って、暗殺に向かって気持ちが逸るアビシャイを制したわけです。主は生きている。サウルの運命を担うのは主であり、人間が横入りしてはいけない。ダビデはこのように暗殺の間際で主に(いわば)主権を返した。ナバルの妻アビガイルに出会い、即座に翻意したときと同じように、ここでも、暗殺目的はあっという間に蒸発してしまった。何が起きたのかはわからない。ただダビデの中で、ダビデ自身には起因しない出来事が生じたことだけはたしかだろうと思います。

暗殺目的を想定しないでこの箇所を読むと、ダビデは一貫して主に従う立場をとっていると見えてくる。時間の経過とは無関係にダビデは一貫して、「主に油注がれた人には手をかけてはいけない」と思っていた。そういう思想が彼を動かしていた。そのように見えてくる。だが実際はちがっていたのではないか。それがここでの把握です。すんでのところでダビデは救出された。25章ではアビガイルがその契機となりましたが、ここ26章ではヤハウェが直接にダビデに臨んだと考えられます。

暗殺とそこからの救出というドラマの最中、サウル軍は「主から送られた深い眠り」に襲われていた、とあります(26:12)。敵軍の陥っていた深い眠りとは、ダビデ側からいえば、好きなことがし放題にできる条件という意味をもちます。ダビデはそのとき何でもできた。その条件下でダビデはいわば試されていたとも言えそうです。幸いなことに、ダビデは自らの危険な企てから救出された。

6 サウル、再び非を認める


❷に行きます。これはごく簡単に。サウルは24章でダビデの呼びかけに「声をあげて泣き」、あっさりと自らの非を認めました。そして次期王としてのダビデを承認し、祝福した。ならばダビデ追跡行はこれで打ち止め、となりそうなものですが、実際はそうではない。26章には相変わらず追跡を続けるサウル軍の姿が描かれます。

追跡とはつまりダビデを見つけ次第殺すという企てです。サウルは声をあげて泣いた後も、そのどす黒い欲望から自由になっていない。そのサウルが、暗殺企図から脱出したダビデの呼びかけに、再び「わが子ダビデよ」と答えます。そしてここでも自己主張を完全に放棄し、自らの非を全面的に認め、ダビデを祝福します。

ダビデの呼びかけに対するサウルの告白には嘘はないのでしょうが、しかしその告白が彼の歩みを劇的に変えるということはないようです。24章でもそうでしたし、今回のケースでも同様です。こうなると、サウルは一体何者なのかが気になってきます。サウルについては、ダビデに対する病的な嫉妬に取りつかれている人物との印象が強烈です。ただ今回の箇所でも、24章においても、サウルはダビデの率直な言葉に実に素直に反応します。それだけダビデの言葉に真実がこもっていたということでしょうが、サウルにもそれに反応する余地があったとも言えそうです。

その一方で、サウルがかつて発したひと言がなかなか私の頭から離れません。サムエルに非を指摘されたサウルが、「〔あなた=サムエルが私と一緒に帰ってくれれば〕あなたの神、主を礼拝します」(15:30)と述べているところです。ヤハウェとの関係がどこか他人事である感じを受けます。ヤハウェがサウルという人物の中で生きて働いていない。そんな感じです。ほんのひと言なので、これで断罪してしまってはサウルがかわいそうという感じもしますが、一事が万事ということもあります。私には、この断片がサウルという人物をクリアに示しているように思えてなりません。


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