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♯13 サウル、自らの非を認める/サムエル記上第24章【京都大学聖書研究会の記録13】

【2023年11月14日開催】
サムエル記上第24章を読みました。洞窟で偶然出会ったダビデとサウルが言葉を交わし、サウルがおのれの非を認めるという箇所です。ストーリーを確認することから始めましょう。

1 24章のあらすじ


①死海西岸にほど近いエン・ゲディというところの洞窟にダビデ一行は隠れていた。その洞窟にたまたまサウルが用を足しに入ってくる。部下は「今が殺すチャンス」とダビデを急き立てるが、ダビデはそれには応えず、ひそかにサウルの上着の端を切り取るにとどめる。切り取った後ダビデは即座に後悔する。主君であり油注がれた人に何たることをしたのか、と。

②洞窟を出たサウルの背後からダビデは問う。なぜ私の命を狙って追いかけるのか。今日洞窟で、あなたの命は私の掌の上にあった。ここにある上着の端がその証拠だ。あなたを殺せと言う者もいたが、主が油を注がれた人を私は殺すことはできない。殺す代わりに上着を切ったのだ。私はあなたに反逆をするつもりはない。あなたに対して罪を犯していない。私は死んだ犬、一匹の蚤にすぎない。なのにあなたは私の命を奪おうとする。こうなったら主に裁きをお願いする以外にない。

③サウルは、ダビデの訴えを正面から受け止める。ダビデが善意の人であることを認め、自分を殺せる場面でも殺さなかったことに深甚の感謝を述べる。そしてダビデがゆくゆくは王となる人物であることを認めるに至る。

2 気がついたこと


①の場面は、サウルの三千人の精鋭軍とダビデの六百人の兵が対峙する中で、大将同士が偶然鉢合わせをしてしまったという出来事です。古代の戦闘にはこういうこともあったのかもしれません。ダビデは上着の端を切った後、激しく後悔します。上着もまた王サウルの一部であり、恐ろしいことをしてしまった、という後悔です。ダビデにとってはサウルはあくまで主君であり、かつ油注がれた聖なる人物(10:1)だからです。もっとも部下たちにとっては、必ずしもそうではなく、サウルは端的に「敵」と映っていたようです。上のまとめで「今が殺すチャンス」と部下が言ったと書きましたが、正確に言うと次のように書かれています。ヤハウェはダビデに以前「あなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい」と約束していた。ダビデの部下はそれを覚えていて、「今がそのとき」と言った。

②でダビデは、サウルに対し、自分に敵意や悪意がないことを率直に語ります。ダビデは、切り取った上着の端を自らの無実(殺害意図のないこと)を示す有力な証拠として使います。上着の端を見て後悔に苛まれたダビデはここにはもういません。転換の素早さに驚かされます。後悔にあれこれ悩む私人ダビデは消え、有能な弁護士ダビデが立ち現れたかのようです。自らの人生を語るその言葉は、真実を語る迫力に満ちていますし、鉄壁の証拠にも支えられ、論理性も十分です。その率直かつ堂々とした態度は、自らの清廉潔白を語るにふさわしいものに見えます。

③ダビデの言葉を聞いたサウルは、「わが子ダビデよ」と呼びかけ、声をあげて泣いたと書かれています。そして「お前はわたしより正しい」と言う。サウルは豹変したわけです。ダビデ殺害に取りつかれていたサウルは消え、率直に自らの非、ダビデの正義を認めるに至っています。

3 サウルが自らの非を認める


今回の箇所では、何といっても、自らの非を素直に認めるサウルの姿が印象的です。あの嫉妬に狂い、ダビデの命をつけ狙っていたサウルは一体どこにいったか、と思えるほどです。サムエル記上では、サウルはダビデへの嫉妬の挙句、ダビデを殺すことに取りつかれた人間として描かれています。私たちはこれまでサウルの執念深さを嫌というほど見せつけられてきました。

サウルは初め、ペリシテ人との戦争に行かせペリシテ人によって殺させようと考えた(18:17)。それがうまくいかないとなると、今度は家臣全員にダビデを殺すよう命じたりもします(19章)。ドエグを祭司のところに張り込ませ、ダビデを監視カメラのように追いかけます(21章)。ドエグからの情報でダビデを助けたとされた祭司一族全員(!)を殺し、彼らが住んでいた町も全滅させました(22章)。とても正常な精神が機能しているとは思えないありさまで、聖書はそのあまりの異常さを「神からの悪霊が降る」と語っています(18:10、19:9)。悪霊に取りつかれているとしか思えないほどのありさまだったということでしょう。

ところがダビデ殺害に心血を注いできたそのサウルがいま涙を流し、自らの非を認めている。しかもこの告白は、ダビデとの一対一の場面でなされたのではなく、自軍三千人とダビデ軍六百人の兵士が見ている前でなされたらしい。聖研でもそのことが話題になりました。洞窟内なら一対一に近い状況も考えられるでしょうが、ここは洞窟の外、「イスラエルの全軍からえりすぐった三千の兵」がいる場所です。サウルの発言は、私的な会話の中でなされたのではなく、軍の大将の公的な発言としてなされている。そんなことはふつうは考えられない。兵の見ているまえで敵(ダビデ)に向かって、「あなたは正しい、私は悪意の塊だ」と言うのですから。これまで「殺せ」と言っていた当の相手を、これ以上ないほどの言葉で称揚する。そして自分は間違っていた、と言う。白旗をあげるだけでなく、この戦に意味はまったくないと断言するに等しい。三千の兵からすれば、では今までの苦労は何だったのか、という思いでしょう。動揺が走ったとしても不思議ではありません。サムエル記上をここまで読んできた私たちも大いに戸惑います。あのダビデ殺害に取りつかれたサウルはどこに行ったのか。

4 ダビデの主張


サウルの発言が公的なものだとすれば、当然、その前のダビデの発言も、両軍の兵士の見ている前でなされた、公的な性質のものだったと考えられます。この公的な発言の場面では、ダビデはきっぱりと態度を転換させています。弁護士ダビデが登場し、颯爽と弁舌さわやかに語ります。

繰り返し述べるように、ダビデは上着を切ったときに激しい後悔に襲われました。そのことは、ダビデにとってサウルがまぎれもなく主君であり王であったことを意味します。サウルはダビデにとって油を注がれた聖なる人物なのです。彼はそのことを深く心に刻みつけていたからこそ、後悔に苛まれた。ところが公的な発言の場面では、後悔はその片鱗すらも見えない。上着の端は、純粋に道具です。有力な証拠という道具。初めから証拠使用のために切ったのではないか。そんな疑いも出てきかねないほど、この場面のダビデは冷静です。

ダビデにしてみれば、今回のこの機会は千載一遇のチャンス、との思いだったろうと思います。サウルとのいま現在の関係からいって、面と向かって話せる可能性は非常に乏しい。仮にそんな機会があったとしても、言葉は通じないにちがいない。こちらが善意をいくら訴えても、先方はふんふんと言うだけで、少しも納得しないだろう。だから今回は実に貴重な機会だ。サウルと直接に話ができるし、それにこちらには自らの無実を証拠立てる物証もある。

という次第で、ダビデは全力を尽くして自らに悪意の欠片もないことを論証しようとします。この発言は「わが主君、王よ」という呼びかけで始まります。この呼びかけはダビデにとって真実なものです。先述のように、サウルが主君であり、王であることは、ダビデの心に深く刻みつけられています。その後の証拠に基づいた論証は見事なもので、つけ入るスキがない。ですがいくらダビデが善意の人であることが立証されたとしても、しつようなサウルはまだ追いかけるかもしれない。ダビデは最終的には主に裁きを委ねて発言を終えます。

5 なぜサウルは「良い人」になったか


サウルに話を戻します。サウルはダビデの殺害に取りつかれていたはずですが、ダビデの話を聞いた後、何か憑き物が落ちたようです。彼は王ですが、王としてのプライドはなくなってしまったかのように、まるで青年時代の彼が戻って来たかのように、率直な発言を重ねていきます。サウルはなんだか急に良い人になったかのようです。あの執念深い、偏執狂的なサウルが見事に消えてしまっています。読む側が戸惑うのも無理はない。

むろん執念深いサウルが本当に消えてしまったわけではなく、この後もサウルはダビデを追いかけ続けます。つまり人格そのものの変容がここで起こったわけではない。この場面から出てしまえば、サウルは相変わらずだったかもしれない。しかし少なくとも今のこの場面では、執念深いこれまでのサウルは姿を消している。

問題は「なぜか」です。なぜこの場面で、執念深いサウルに代わって率直な発言をするサウルが現れたのか。執念深いのがふだんのサウルだとして、いま私たちが注目している場面がふだんと異なる点といえば、サウルがダビデに出会い、ダビデの話を直接聞いたことです。となると、ダビデの話を聞くという経験にサウル変容の理由を見出したくなります。サウルがダビデの話を聞いたことが決定的な意味をもったのではないか。ダビデの話は、執念深いサウルを消失させ、若き日の是と非を弁えたサウルを呼び出す効果をもった。そんな気がします。

6 ダビデの言葉がサウルの警戒心を解く


仮にその推測が当たっているとして、ではなぜダビデの話はそのような効果をもったのか。ダビデはサウルが主君であり、王であること(油注がれた人物であること)を心に刻みつけており、激しく後悔したのでした。サウルに向かってなされた公的な発言の場面では、この後悔の念は表面化していません。ダビデはこの場面では、上着の端を証拠として使うだけです。ですが、この公的な発言が、最初の後悔とまったく無縁と考えることは正しくない。弁護士ダビデが私人ダビデを切り離してここにいるわけではない。何といっても同じ人が語っているわけですから。

むしろはじめの後悔が、この公的発言全体を支えていると考えるべきだろうと思います。後悔は、サウルが王であり主君であるという根深い認識から生まれるのでした。つまり後悔はサウルへの敬意と畏れの別名です。上着を切ってしまい、敬意と畏れを抱く人を傷つけてしまった。恐ろしいことをしてしまった。だからこそ、その敬意と怖れを抱く当の人物に対して、自分の善意、無実を証し立てよう。そんな思いでダビデは話したのではないか。ダビデの公的な発言は、サウルへの深い敬意と畏れに貫かれていた。

サウルは、ダビデの声を聞いた途端、それが自分への深い敬意と畏れに貫かれたものであることに気づきます。そこからダビデの言葉に熱心に耳を傾けようとする。すると、その言葉は、ダビデその人のことを余すところなく語っていて、真実性を疑う余地がない。サウルはダビデの言葉を聞いて、自らの警戒心を解いてしまったのだろうと思います。自分の前に身を投げ出したこのダビデには警戒は要らない。そう思ったわけです。王としてのプライドであるとか、肥大した怖れとか敵対心とか、これまでサウルを呪縛していた一切のものが、どうでもよくなった。

サウルはダビデの話を聞いて、声をあげて泣いた。この感情の爆発は、「どうでもよくなった」という自覚と深いつながりがあるように思います。そしてダビデに「お前は正しい」、「お前は善意、私は悪意」と語り、いわば全面降伏してしまう。この様変わりは、サウルが自らの呪縛を放擲することからしか出てこないように思います。周囲にいた三千の兵たちのことなども忘れたかのようです。そしてその放擲を実現したのは、ほかならぬダビデの言葉でした。ダビデの話の効果とはこのような内実のものだったと思います。

7 神の介入


このようにサウルはダビデの率直さゆえに警戒心を解いてしまいます。ダビデのその率直さの根源は、ダビデその人が主の前に出て語っていたところにあるのではないかと思います。ダビデはサウルに向かって切々と語りましたが、彼はそれを神の前で行っているのです。人に対して率直になれるのは、それが神の見ている前でなされることだからです。ダビデの率直さはそこから出ている。そのふるまいは「主と共にある」ダビデに相応しいもののように感じます。サウルもまた、自分の前に身を投げ出すこのダビデに反応した。先に述べたとおりです。

ということは、この奇跡的な両者の出会いには、神の力が関与している。サムエル記上24章に描かれた奇跡的なダビデとサウルの対話は、神の介入によってはじめて実現したといえそうです。


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