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♯15 味方しない者は敵/ルカによる福音書第11章14-26節【京都大学聖書研究会の記録15】

【2023年11月28日開催】
ルカによる福音書11:14-26を読みました。
14-23節には「ベルゼブル論争」として知られる内容が記されています。イエスが悪霊払いをして唖者の癒しを行うが、その癒しを「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という者がいたので、イエスが反論。「悪霊が悪霊を追い出す、では内輪もめになってしまう。そんなことはありえない。わたしは神の指で悪霊を追い出している。そうである以上、神の国はもう来ている」。イエスは最後に「わたしに味方しない者はわたしに敵対する者だ」という厳しい言葉を語る。

続く24-26節では、汚れた霊が人から出て行って戻ってくると、住みやすくなっていたので、ほかの七つの霊を連れて住み着いてしまった、と語るイエスの話が記されています。

今回の箇所はかなり難解で、これという理解になかなか行き着かない。そこで聖研時でのみなさんの議論や意見を参考にして、自分なりの把握を示してみたいと思います。

1 イエスの厳しい言葉


上にも書きましたが、ベルゼブル論争の最後に語られるイエスの言葉は厳しい。そのまま書き写してみると、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(新共同訳)。中立の立場をとる者や傍観者は敵だ、というわけです。家畜を一緒に集めようとしない者は、散らそうとしている者だ。この発言は以前のイエスの発言とはかなり様子がちがっています。イエスは9章50節で、イエスの名前を使って悪霊を追い出す者のことを念頭において、「あなたがた〔弟子たち〕に逆らわない者は、あなたがたの味方」と言い切りました。ここでは、仲間でなくても敵対してこない限りは、すべて味方と考えなさい、と言っていることになる。中立的な者、傍観者もむろん味方だ。

以前には、すべての者は味方とでも言いたげな態度をとったイエスが、今回の箇所ではなぜこんなに厳しいのか。そのことが少し気になります。聖研でも話に出ましたが、今回のケースでは、イエスの聖なるわざを(あろうことか)「悪霊の頭の力」によるといった者たちへのイエスの怒りが、背景にあったのかもしれません。何たる誤解、何たる傲慢。ただ私個人は、イエスの怒りということだけでは、「味方しない者は敵」と言い切る厳しさは説明できないようにも思います。

2 汚れた霊が戻ってくる


疑問はそのまま置いておいて、後半(24-26節)に行きます。24-26節はとても印象的な内容です。いったん追い出された汚れた霊が、前いた「わが家」に戻ってくると、とても居心地がよくなっていたので、仲間をたくさん呼んで住み着いた。せっかく汚れた霊を追い出してさっぱりしたのに、追い出したそのことが、より多くの汚れた霊を呼ぶ原因になってしまう。きれいさっぱりすることそれ自体が危うさを含んでしまう、というわけです。何だか身につまされる話です。

ここで「汚れた霊」とか「汚れた霊を追い出す」という経験とかが、具体的には何を指すのかを考えてみても、なかなかまとまりません。前半のベルゼブルの話に出てきた唖者の癒しのことかと考えてみても、何だかぴたりとはしません。唖者が癒された後、もっと悪い霊が住み着いた、という話だと、一体イエスの行った癒しは何だったのか、ということになってしまいそうです。

こういう場合は、「汚れた霊」そのものの実体にあまり拘らなくてもよいのかもしれません。神の目から見て何らかの意味で「良い」とされる状態が、実現した。それを「汚れた霊が出ていく」という言葉で表現している。そのように考えてみましょう。「神の目から見て何らかの意味で『良い』とされる状態」。具体的にはいろいろなことが考えられます。信仰を告白するとか、洗礼を受けるとか、あるいは善行を積むとか、愛の業に励むとか、立派な生き方をする、自分を犠牲にするとか、いろいろ。ある良きことがたしかに実現している。そこには(少なくとも主観的には)邪念は少しもない。神に動かされてそうしている。

しかしイエスによれば、そうした、汚れた霊を追い出してきれいになった人こそが、悪霊にとって住みやすい家になっている。そして実際に悪い霊が住み着いてしまう。「汚れた霊」が追い出されたのは事実で、その人が「神の目から見て何らかの意味で『良い』とされる状態」を実現したのもたしかです。しかしそのことが悪霊常駐の条件を作ってしまう。悪霊を自ら呼び込んでしまうのです。汚れた霊が追い出されるのは神の喜ぶことであるはずなのに、その結果、とんでもないことになってしまう。となると、一体どうしたらよいのか。汚れた霊を追い出さず、居住を認め続けるのか、それとも追い出して、更に悪い霊がたくさん住んでしまうことを許容するのか。どちらに転んでも救いはないような気もします。

3 空き家とは何か


汚れた霊が荒野で心安んじてゆったりしていられる場所(「休む場所」)を見つけられなくて、元居た「自分の家」に戻る。するとそこは心底休むことのできる場所になっている(「家は掃除をして、整えられていた」)。これは都合がよいと仲間をたくさん呼んで住み着くわけですが、この話のポイントは、その家が空き家だったというところだろうと思います。汚れた霊にとって、出て行った時よりももっと気持ちの良い空き家になっている。空き家なので好き勝手に出入りができそうな様子です。だからこそ仲間を連れてきたりしているわけです。

空き家とは何か。ひと言でいえば、神が住んでいないということです。「神の目から見て何らかの意味で『良い』とされる状態」が実現してしまうと、充実感にあふれる。あるいはほっと一安心する。その充実感や安心が神の介入を阻んでしまうのかもしれません。充実感にあふれたとたんに神がいなくなる。ほっとしたことが神を不要にする。神の目から見てよい状態が実現されることが、神を阻んでしまうのですから、何とも不思議ですが、人間の真実であるように思います。

つまりイエスは、24-26節の話で、汚れた霊と神は絶対的に質のちがう二者だと言っているわけです。神が住めばそこに汚れた霊は来ない。来ようがない。逆に汚れた霊が住めば、そこは神の影響力の及ばぬ場所、悪霊にとって好き放題できる天国(というのも変ですが)のようなところになってしまう。もちろん汚れた霊(あるいは悪霊、悪魔、サタンも一緒ですが)は神の対抗馬ではない。それらは一括して神の支配下に置かれています。キリスト教は善悪二元論の立場には立たない。彼らの位置はあくまで神の支配の下。ですが彼らには自由が与えられており、結構しぶとく生き延びます。この箇所でも、神が住まなくなれば一気に彼らの独壇場になる様子が描かれている。

4 空き家化を防ぐ


24-26節がそういうことを語っているとして、ではそれを知らされた人はどうしたらよいのか。汚れた霊が出て行ってしまった人は次に何をしたらよいのか。汚れた霊が出てしまっても、そのままにしていたら、よりひどくなるらしい。神が住まない限りはどうしようもない。となると、空き家化を防ぎ、神に住んでもらいたいと思うのが人情でしょう。神に住んでもらうにはどうしたらよいのか。

この問いに対して、こうしたらよい、とはなかなか答えにくい。神が住むか否かは神の領分のことだからです。人があれこれ画策努力しても、そのことは直接には神に影響しない。あたりまえです。ですが、だからこそ人は神に祈り、神の介入を求めるのだろうと思います。祈ることが神が住むことにつながるかどうかはわからない。祈りは、神に住んでもらうための手段ではありません。そのような手段としての祈りを続けている限り、空き家化は防げないのでしょう。あと先のことなど考えずにともかく祈る。すぐ前の箇所でも「しつように頼むこと」が強調されていました(「♯12 しつように頼む」参照)。人間にできることはそれしかないのではないか。そんな気がします。

5 厳しい言葉の理由


以上のことを確認して、もう一度、前半部14-23節にもどります。するとそこでは、24-26節で話題になった悪霊を追い出すわざがなされています。その主体は神です。悪霊に対しては、神が乗り出すしかないわけです。イエスはそれを「神の指」という言葉を使って表現しています。「神の指で悪霊を追い出している」。マタイ福音書では神の指と言わずに「神の霊」(マタイ12:28)と言っています。神の指は、変化(悪霊が追放されるという変化)そのものの主体が神であることを示す表現として適切ですし、「神の霊」は悪霊の追放された空き家に住む主体を示す表現として適切です。神の指が働いて、神の霊が住むわけです。イエスの身体をとおして神の指が働き、神の霊が働く。イエスがこの世にいる。そのことによってはじめてこのわざが可能になる。

たしかにその当時さまざまなかたちで悪霊払いは行われていたらしい。その際、イエスの名前が語られたり(9:49)、神の名が語られたりしていたらしい(11:19)。ですがそれらと「神の指」を用い、「神の霊」で満たすイエスのわざとは決定的にちがう。イエスそのものが悪霊と絶対的に質を異にする存在だからです。イエスの身体そのものが悪霊と絶対的に対立する。だからこそ「神の国があなたがたのところに来ている」と言ったわけです。イエスをとおして神の指で悪霊払いが行われている以上、「神の国があなたがたのところに来ている」。

24-26節で確認したように、汚れた霊あるいは悪霊と神は絶対的に質のちがう二者です。そしていま述べましたように、その絶対的なちがいは、イエスという「人となりたる神」においてこれ以上ないほどにはっきりと具現化されている。イエスと共にいる「いま」はその意味で特権的な時間です。そのことが先ほどふれたイエスの厳しい言葉を生み出す理由になっています。この期に及んでまだウダウダ言うのか。これ以上ないほどくっきりとした質的なちがいを前にして、なおも中立的な立場に身を置こうとするのか。それはありえない。それは自ら悪霊と共に生きることを望むということにほかならない。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」。


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