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♯12 しつように頼む/ルカによる福音書第11章1-13節【京都大学聖書研究会の記録12】

【2023年11月7日開催】
ルカ福音書11:1-13を読みました。11:1-4は、いわゆる「主の祈り」をイエスが弟子たちに教えるという話、11:5-13は、祈り一般についてのイエスの話、という構成になっています。

1 主の祈り


11:1-4では、後に「主の祈り」とよばれるようになる定型的な祈りを、イエスが弟子たちに教えます。当時のユダヤ教では、定型的な祈りが共有されていたようです。調べてみると、十八祈禱文とかシェマの祈り(申命記6:4-6ほか)とかがそれにあたるとのことです。どちらも相当に長い。また洗礼者ヨハネ集団においても定型的な祈りが共有されていたことが、弟子の発言(「ヨハネが弟子たちに教えたように」)からわかります。それらのことを背景にして、「祈りを教えてください」(11:1)という弟子の発言が生まれたようです。

イエスが教えた定型的な祈りはとても短い。父よという呼びかけの後、神賛美があり、その後、食べ物、赦し、誘惑(試練)についての祈りが指示されます。マタイ福音書にも同様の記事はありますが(6:9-13)、そこで提示されているものよりも、ルカのそれはさらに短い。ルカやマタイで示されているこの短い祈りが、伝統的に「主の祈り」とよばれます。主の祈りのうちでも、マタイのそれが、さまざまなキリスト教の信仰共同体において共有されてきました。日本語でも文語体の主の祈りが共有されています。ルカの主の祈りを見ると、食糧、人との諍いと赦し、誘惑(試練)が、いつの時代にあっても、人にとっての大きな懸念であることが暗示されているようです。

2 深夜に訪ねて来てパンを求める友人


11:5-13に移ります。そこでは祈り一般についてのイエスの話が記されています。冒頭にルカ福音書にしかないイエスのたとえ話が記されています。こんな話です。旅行中の友人が深夜訪ねてきた。だが手許に食べ物がない。そこで別の友人の家を訪ね、パンを三つ貸してくれと頼んだ。ところがその友人は「無理、無理。家族はみんなもう寝ている。面倒をかけるな」とにべもない。たとえ部分はこれで終わりですが、これだけだと、いったい何の話なのかはっきりしません。この状況設定を用いてイエスが語ることが重要です。上のように状況を設定した後、だが、とイエスは言います。こういう人でも、「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。この後、「求めなさい。そうすれば与えられる」を軸とする勧めが語られていきます。

3 テーマは祈り


たとえ話で「パンを貸してくれるようお願いする」と言われていることは、祈りとか願いのメタファーであると感じられます。もちろん、そんなことはない、と考えることも可能です。図々しく頼めば道は開ける、ガンガンしつこくお願いすれば、最後には相手も折れてこちらの言うことを聞いてくれる。そういう話だ、祈りとは関係ない。人の世界の話だ。そのような把握の余地もないわけではありませんが、主の祈りのことを話した直後のたとえ話ですので、ここでは祈りがメインテーマになっている話ととっておきます。

ルカのたとえ話やイエスのコメントが、いま見たように、祈りについてのものだとすると、コメントに続けて「求めなさい。そうすれば‥‥」とイエスは言うわけですから、この「求めなさい」は祈りや願いを指していることになる。そう考えるのが自然だろうと思います。このような次第で、ルカ福音書では、マタイ福音書とは異なり、「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」は専ら祈りについて語っているということになります。「求めなさい‥‥」の内容は、マタイ福音書にも記されていますし(7:7-11)、そちらが有名ですが、ルカはその内容を「祈り」に結びつけているところが独特です。

4 しつように頼む


今回の話は、願いがあるときには、ともかくしつこく頼め、それが大事だ、と言っているように思います。子供が熱心に卵を欲しがれば、父親はまさかさそりを与えたりはすまい。それと同じだ。私個人は、新共同訳で「しつように頼めば」と書かれているところが印象に残りました。「(頼む側の)厚かましさのゆえに」(頼みが聞いてもらえる)というのが直訳です。「厚かましさ」と訳した語(アナイデイア)は、恥(アイドス)に否定の接頭辞をつけて一般名詞化した言葉のようです。つまり「恥も外聞もなく」「図々しく」「厚顔無恥に」頼めば道は開ける。そう言っているわけです。

ふつうの尺度では、恥や外聞を考えて行動するのが適切と見なされます。図々しいのや自分中心なのはだめ、厚顔無恥はもってのほか。そういう世界に私たちは生きているわけです。適切にふるまう、矩を越えない、節度を守る。ところがイエスが祈りに関して勧めているのは、それとは正反対の態度です。適切とか矩とか節度は関係がない。厚顔無恥であること、徹底的に厚かましくあること、それがイエスが求める祈りの姿勢です。ここでは恥とか外聞とか、適切とか矩とかいった社会統制の装置は機能しない。常識は通用しない。

5 自分勝手の極致


たとえ話の主人公がどの程度逼迫していたかはわかりません。旅をしていた友人が訪ねてきたのに、提供する食べ物がない、だからパンを貸してくれ。この状況にどの程度の切実さがあるのかは、これだけではよくわかりません。というか、素直に読めば、この状況には切実さはない。パン三つですから。自分の家の食料をかき集めれば何とかなりそうな気もしますし(冷蔵庫なんかなくても保存食はありそう)、訪ねてきた友人に少し我慢してもらえれば済む話であるような気もします。それなのに、その些細な食料のために、みんなが寝静まった深夜にやって来、相手を起こして調達しようとする。緊急事態であるかのようです。些細なことのために相手を巻き込んで大騒ぎだ。しかもこの人はいっかなあきらめようとはしない。しつこく頼み続ける。些細なモノのために深夜にやってくる。他人の迷惑を顧みない。そしてまったく引き下がる気配がない。これはどう考えても、自分勝手の極致のような人のふるまいです。だからこそ、頼まれた側は、断ったのではないか。冗談じゃない、そんな勝手な言い分など聞けるか。

厚顔無恥であること、図々しくあること、これがイエスが求める祈りの姿勢であると先に述べました。たとえ話の主人公を上に述べたように考えると、この人こそ、まさにそうした態度を体現している人物のように見えます。些細なことのために周りを振り回してしまう人物。イエスによれば、このように動く人物こそ相手を動かす。祈りということでいえば、この人のこの態度が祈りの本質を体現している。

6 自分勝手な祈りの意味


針小棒大に自分のことを言い募り、厚かましくかつ図々しく一切引き下がらない。「こういう態度を祈りの態度と言われてもなあ」と感じる人も多いのではないかと思います。祈りはご利益を求めてするものではないし、あまりに自分中心の祈りは、ダメなのではないか。その疑問はもっともで、私もそのように思います。だから自分の必要優先で周りを振り回す主人公の態度が勧められても、どこをどう参考にしたらよいかといった気分です。

ただその一方で、そのように思うこと自体、余裕のあるしるしなのではないかとも感じます。祈りが自分中心ではないかと反省したり、ご利益を求めているのではないかと考えてみたりするのは、その人が反省したり思考したりする余裕をもっているときではないか。八方ふさがりで、手の打ちようがない。何をしても状況は少しも変わらない。出口は見えない。こういうとき人は必死に祈る。それが自分中心であろうがなかろうが関係ない。必死に状況の打開を願い、祈る。神しか頼りになるものがいないのだから、それは当然です。この祈りに自己中心性への反省やご利益主義への懐疑は入る余地がない。たしかに自分中心かもしれない。厚かましいかもしれない。しかしそんなことは言っていられない。生きるか死ぬかのときに、こんなこと祈ったら厚かましいのではないか、とは思うはずがない。必死だからです。厚かましいとか自己中心的ではないかとの反省は、余裕のあるしるし、と先に述べたのは、このような意味です。

7 祈りへの道徳の介入


むろん自己中心性それ自体は、人を神から離れさせる根源です。人間は徹底的に自己中心的で、そうであるがゆえに人は本来的に神から離れている。聖書はそれを罪という言葉でよんでいます。したがって自己中心性には十分に警戒的であってよい。しかしそうであるにもかかわらず、イエスはルカ福音書のこの箇所で、徹底した自己中心の祈りを勧めているように思えます。いままで述べてきたとおりです。それはどうしてなのか。なぜイエスはここで厚かましく図々しく祈ることを勧めているのか。

それはたぶんそうした祈りを邪道だとか、自己中心的であるとか、ご利益主義であるとかの理由で抑制しようとする力が、現にあるからではないかと思います。祈りを適切で矩を越えず節度を保ったものにする力が現にある。まじめな人ほど、こんな自己中心の祈りはいけないのではないか、と思ってしまう。そういうかたちで祈りの場に世間の道徳を入り込ませてしまう。イエスはそれはおかしいと言いたかったのではないか。神の前では自己中心性を全面的に展開してよいのだ。それを妙にお行儀良いものにしてしまうのは、神の前に自らを取り繕っていることになるのではないか。

8 祈りとその結果


もちろん祈り願っているとおりに現実が変わるとは限らない。どんなに必死に願っても、変わらないものは変わらないかもしれない。しかしそれでも必死に祈る。祈らざるをえないから祈る。どんなに必死に祈っても、その人が望んだような現実の改変がないときには、そのこと自体が神の応答と心得、新たに出発すべきだろうと思います。そのようなかたちで、私たちは「求めた」結果として何かを「与えられる」。この「与えられる」は、傍目には何も与えられていない事態にほかならないので、当人と神との間に起きる出来事としか言いようがありません。神が働かなければこの事態は出現しようがない。ルカ福音書は、この辺りのことを「天の父は求める者に聖霊を与える」(11:13)と語っています。

「パンを三つ貸してくれ」というたとえ話をもとに祈りについて考えましたので、自分のことについての祈りが話の中心になっていますが、むろん、祈りには他人や社会、世界についての祈りもあります。ときには自分自身のことよりも真剣に他人、社会、世界について祈る。今回の話ではふれませんでしたが、このことについても心に留めておきたく思います。


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