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♯22 ダビデは危うく自分の民と戦うところだった/サムエル記上第29章【京都大学聖書研究会の記録22】

【2024年4月16日開催】

4/16にはサムエル記上第29章を読みました。4/9に読んだ28章では、サウルが口寄せ(霊媒)のところを訪ねたという話がメインでした。今回は、一転ダビデの話になります。ダビデはサウルから逃げ回り、イスラエル領内に居場所がなくなったせいか、敵軍であるペリシテ・ガトの王アキシュのもとに身を寄せていました(27章)。ペリシテ人は、地中海方面から現在のパレスティナに入ってきた民で、海岸に近いアシュケロン、アシュドド、エクロン、ガト、ガザという5都市の同盟によって一体性を保持していたようです。サムエル記上第5章には、神の箱を忌避してたらい回しにするペリシテ人諸都市の様子が、戯画的に描かれています。アキシュは、この5都市の一つガトの王だったとのこと。

29章のあらすじ

29章はペリシテとイスラエル軍が対峙しているという場面描写から始まります。間もなく戦闘が開始されるようです。ペリシテに身を寄せていたダビデは、イスラエル軍と戦わなくてはならない。ところがペリシテの武将(首長)たちは、ダビデを信用していない。このヘブライ人(ダビデ)に戦闘の最中に裏切られてはかなわん、と思っている。ダビデの武勲は広く知られていたようで、その男が部下の兵とともにこちらを襲ってきたらとんでもないことになる。そこで武将(首長)たちは、ダビデが戦場から離れることをアキシュに要求する。アキシュがダビデの庇護者であったからです。

アキシュは武将(首長)たちの意を受けて、ダビデにこの戦場から離れるよう求めます。アキシュが居留地として与えたツィクラグ(27:6)に帰れ、と。武将(首長)たちの意向を無視しては、戦闘そのものが成り立たない。私(アキシュ)はお前ダビデに少しの難点も見つけられない。共に戦うことをむしろ喜んでいる。だが武将(首長)たちはそうではない。彼らはお前を信用していない。彼らを無視して戦いを始めることはできない。ここはどうかツィクラグに帰ってくれまいか。アキシュのこの要請を受け、ダビデはペリシテのツィクラグに帰って行きました。ダビデは危うく自分の民と戦うところでしたが、武将(首長)たちの反対で、辛うじてその窮地を脱することができたというわけです。

ダビデはほんとうに戦うつもりだったか

29章の内容は以上のとおりですが、聖研では、主として二つのことが話題になりました。①ダビデはほんとうに自分自身が所属するイスラエルの民と戦うつもりだったのか否か、②アキシュなる人物がダビデにここまで好意的なのはなぜか。

簡単に説明します。まず①から。ダビデは居候の身の上ですが、居留地まで供与されている以上、一宿一飯の恩義以上のものをアキシュからつまりペリシテから受けていることになります。となれば、ペリシテのために働かねばならない。ダビデたちは一種の傭兵的な立場ですから、働くとは、この場合、敵と戦うことです。敵とは現下の状況下では、イスラエル。ダビデ自身が所属する民です。その状況を先取りしてアキシュは、「あなたもあなたの兵もわたしと一緒に戦陣に加わること」を承知しておいてもらいたいとダビデに言い、ダビデもこれを承諾しています(28:2)。ダビデはペリシテ軍と共に、イスラエルと戦うことが期待されてるというわけです。

こうなったことについては、ダビデの方にも責任がある。ダビデはかつて、周辺の無関係な諸民族を討ちながら、アキシュにはユダ(ダビデにとっての自民族)とその近隣の民を討ったと虚偽の報告をしています(27章)。アキシュはこの報告を聞いて、(自民族を討つくらいだから)これでダビデも我らのグループに入った、いつまでも私の僕(しもべ)でいるだろう、と語った。つまりダビデは、傍から見てもペリシテの一員と見られるように努力してきたわけです。私はイスラエル・ユダ族の出身ですが、今はペリシテの味方です。これがダビデの自己主張です。どの程度本気だったかはわかりませんが、ともかく聖書の記述に従えば、アキシュの期待どおりに動いています。となると、行き着く先は、イスラエル軍との戦闘です。ペリシテの味方と見なされれば見なされるほど、ペリシテの敵と戦わねばならない。

このように、ダビデを含む状況も、ダビデ自身のふるまいも、まっすぐに終着点であるイスラエル軍との戦闘に向かっている。ほんとうにイスラエル軍と戦うことになったら、ダビデはどうするつもりか。これが①の問題意識です。

ダビデに好意的なアキシュ

②に移ります。29章ではアキシュはダビデにとても好意的です。この背後にどのような経緯があるのか。そのことを確認するため、アキシュについての記述をまとめて見ておきます。ガトの王アキシュが初めて登場するのは、サムエル記上21章です。サウルに追われたダビデが、ノブの祭司アヒメレクのところに立ち寄ってパンと武器の供与を受けます。アヒメレクはのちにこのことの責任を問われ、サウルの間者ドエグに殺されてしまうのでした(22章)。ダビデは祭司アヒメレクのところを出たのち、アキシュのもとに行きます。サウルに追われて、イスラエル領内に居場所がなかったという想像はできるのですが、なぜよりによって敵であるペリシテ人アキシュのもとに行ったのか。そのあたりの事情については何も書いていないので、わからないというしかありません。アキシュの家臣たちに「あのダビデがやって来た。危険だ」と警戒されたダビデは、狂人のまねをして、その場を立ち去ったようです(「#6 回し者ドエグ/サムエル記上第21章」)。

アキシュが二度目に登場するのは、27章です。サウルから逃げ回るダビデは、「ペリシテの地に逃れるほかはない」と考え、兵600人を引き連れてアキシュのもとにやってくる。そこでアキシュから地方の町一つ(ツィクラグ)を与えられたりします。その後、先ほど述べたとおり、戦果に関する虚偽の報告をしてアキシュの信用を勝ち得ていきます(「#18 再び和解が消える/サムエル記上第27章」)。

ペリシテとイスラエル軍との戦いが近づく中、28-29章で、アキシュが三度目の登場。ダビデがアキシュのもとに来てからこの方、アキシュのダビデに対する信頼は高まるばかりだったようです。29章では、お前(ダビデ)には何の欠点も見いだせない、悪意の欠片もない、神の御使いのように良い人間だ、などアキシュのダビデへの信頼を示す言葉が続きます。ダビデもまた、アキシュの前では、イスラエル軍と戦う気満々の人物としてふるまい続けたのでしょう。アキシュはそれを本心からのものと信じて疑わない。

好意の理由

②の疑問は、アキシュがダビデにここまで好意的なのはなぜか、でした。アキシュについての記述をふり返ってみると、この問いに答えるのは容易です。それは要するに、ダビデがそのように仕向けたから、です。ダビデが狂人のふりをしたときも(21章)、また戦果について虚偽の報告をしたときも(27章)、アキシュはダビデが想定していたとおりの反応をします。狂人のふりをするダビデを見て、「こんな狂人を連れてくるな」と言い、虚偽の報告をされたときには、それを信じ込んで「いつまでもわたしの僕(しもべ)でいるだろう」と語ります。どちらの場合も、アキシュはダビデにころっと騙されています。イスラエル軍との戦いを前にして、ダビデを信用しきっているアキシュは、「わたしと共に〔お前が〕戦いに参加するのをわたしは喜んでいる」とまで言っている。アキシュのこれらの態度は、ほぼダビデの情報操作の産物です。アキシュはダビデの掌の上で転がされているようです。

もちろんこうしたことが起きるには、相応の前提が必要です。いまの場合、最重要の前提は、アキシュが信じやすい人物だったということです。提示された情報をそのまま受け取る。疑うとか、ウラをとろうとかは考えない。素直というか、雑念をあまり入れない人物だったようです。もう一つの前提は、ダビデの巧みな情報操作です。以前にも指摘しましたが(「#18 再び和解が消える/サムエル記上第27章」)、ダビデは目的合理性に長けた人物、つまり先読みのできる人間です。その先読みに従って、情報の提示も万全だったに違いない。この二つの前提が相まって、アキシュのダビデへの好意が生まれたと考えられます。

アキシュという人/ダビデという人

いまアキシュのダビデへの好意を説明して、アキシュが信じやすい人で、かつダビデが情報操作に長けた人だったから、と述べました。こうした説明を聞くと、何だか味気ないと感じる人もいるかもしれません。この説明だと、アキシュはまれに見るほど単純な人、ダビデは実に巧妙な策士、ということになり、何だか夢がない。聖研の話し合いの中でも、アキシュの優れた人格を強調する人もいましたし、「主が共にある」人ダビデの高潔さの指摘もありました。アキシュは敵国人であるダビデを自国に受け入れたわけですから、たしかに視野の大きな寛容な人物と言ってもよいかもしれません。騙されやすい、人の良い人物という点のみを強調するのは、いかがなものか。ダビデについても、策士であることをあまりに強調するのは、ダビデを貶めることになるのではないか。

ペリシテという異民族の王であるアキシュについて、これほどまで詳しく書かれているのは、異例です。それを考えると、旧約聖書の書き手は、アキシュに得点を与えたがっているように見えます。アキシュの中に何らかの積極的な価値を見出そうとしているかのようです。ですが、その積極的な価値の中身が何であるかは判然としない。アキシュのどういうところに得点を与えようとしているかがはっきりしない。となると、アキシュの単純な精神、疑いを知らぬ精神の描写のみが際立ってくるように思います。このような人格を用いてヤハウェは歴史を動かそうとしている。ここではそのように考えておきます。

ダビデのことでいえば、たしかにダビデが策士であることを強調するとき、「主が共にいる」人という側面はどこかに消えてしまう。先読みをし、周囲を操作する態度(「策士」)と、すべてを主に預ける態度(「主が共にいる」)は、たしかに両立しそうにない。ダビデが策士であると述べることは、ダビデが狡猾な人間であり、神は視野の外、と述べることに等しい。となると、信仰の勇士、「主が共にいる」人ダビデは、どこに行ってしまうのか。一個の人間の精神態度として「主が共にいる」を考えようとすると、そのような隘路に陥ってしまうように思います。ですが、「主が共にいる」は、精神態度というよりは、一つの客観的な現実を示す言葉なのではないか。①の問いをもう一度呼び出しつつ、最後にそのことを考えたい。

ダビデは危うく自分の民と戦うところだった

ダビデはほんとうに自民族を相手に戦うつもりであったのかどうか。これが①で提示した問いでした。アキシュの信頼を得れば得るほど、単なる客人ではなく、戦力としてカウントされる。つまりダビデがペリシテ内でうまく立ち振る舞えば立ち振る舞うほど、彼はイスラエルと戦う方向へと自らを追いやっていきます。先読みのできるダビデですから、そのことは百も承知だったにちがいない。にもかかわらず彼は、よき戦力としての自分(たち)をアキシュの前に提示し続けた。ダビデは最終地点つまり究極の選択の見通しをどのように描いていたのだろうか。いざ戦争、となったとき、ダビデはどこに行こうとするのだろうか。何をしようとするだろうか。そんなことを考えたくなります。聖研の話し合いでも、最終地点の見通しをめぐって議論が交わされました。が、むろん確たることはだれにもわかりません。

ところで、結局のところ、武将(首長)たちがダビデを信用しなかったために、ダビデはイスラエルとの戦争に行く必要がなくなった。究極の選択をしなくて済んだわけです。願ってもない結果(自民族と戦わないで済むということ)が、棚ぼた式に下りてきた。あろうことか、先方が戦争に行くなと言ってきたわけです。ダビデは窮地を脱しました。

それはダビデが計画をして得た結果ではなく、突然向こうからやって来た決定です。この結果が生まれることについて、ダビデの意思は少しも働いてはいません。それはダビデにとっても真に思いがけないことだったにちがいない。ダビデは、策を弄してアキシュのもとで生き延びていくための実績を作りました(「虚偽の報告」)。彼はそのようなとき、自分のことしか考えていない。精神態度としては「主が共にいる」とは到底言えない。しかしそのようにあくせく自分のことにかまけているダビデに、いま思いもかけないようなかたちで救いが到来したわけです。彼は究極の選択を免れた。窮地を脱した。この脱出はまったくのプレゼントであり、策士ダビデの策とはまったく関係がない。「主が共にいる」とはまさにこのようなことなのではないか。それは精神態度というよりは、客観的な現実として、だれにもわかるようなかたちで出現するものなのではないか。そんなことを考えました。

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