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♯25 窮地を脱出するダビデ/サムエル記上第30章【京都大学聖書研究会の記録25】

【2024年5月7日開催】
5月7日は、サムエル記上第30章を読みました。ダビデの物語の続きです。前回は、ダビデが寄留していた敵ペリシテの民から、「お前は信用できない」と言われ、居留地に帰還するという話でした。これからペリシテ軍の一員としてイスラエルの民と戦おうとしているときに、「信用できない」と言われた。このイスラエルからやって来た人物(ダビデ)は、いざ戦闘となったときに自分たちを裏切るかもしれない。ペリシテの人たちはそう思ったわけです。 

サムエル記上第30章

そのダビデが居留地(ツィクラグ)に帰ってみると、アマレクという別の部族がその町を襲撃していて、町は焼かれ、民は捕虜として連れ去られていた。今回読んだ第30章は、その連れ去られた人々をダビデ一行が奪還するという話です。その奪還物語は次のようなストーリーです。

①アマレクのツィクラグ襲撃(上述のとおり。1-5節)

❷ダビデ、託宣を求め、アマレク追跡を決定する(6-8節)

③追跡の途上、アマレク人の奴隷となっていたエジプト人を見つけ、彼の手引きでアマレクの居場所を確定する。ダビデ一行600人のうち、200人は荷物番として残り、アマレクとの戦闘には加わらなかった(9-15節)

④アマレクを襲撃し、捕虜を奪還し、奪われた財も取り返すとともに、新たな戦利品を得る(16-20節)

❺戦利品の分配をめぐり、論争。結局ダビデの裁定で平等に分配することに決まる(21-25節)

⑥ダビデはアマレクとの戦いで得た戦利品をユダ族(ダビデの出身部族)の長老たちに贈った(26-31節)

この報告で取り上げるのは、上記❷と❺です。❷はアマレクの追跡を決める場面ですが、そこでダビデは深刻な秩序動揺を経験します。❺は戦利品の分配をめぐる論争と裁定。荷物番をしただけで戦わなかった者たち200人には、戦利品を与える必要がない。実際に戦った者たちはそのように主張します。ここでもダビデ集団は秩序の揺らぎを経験しているわけです。それをダビデはどう乗り越えたか。 

窮地に陥ったダビデ

まず❷から。

ダビデの一行は戦闘集団で、おそらく成人男性だけで構成されている。その一行が居留地ツィクラグに帰還してみると、町は焼き討ちにされ、家族がすべて連れ去られていた。自分たちが留守の間にとんでもないことが起こった。本来なら、自分たちが留守をしている間、守備隊を置くなり、なんなり、防衛手段を講じておくべきところ、リーダーであるダビデはそれを怠った。この人(ダビデ)はほんとうに我々のリーダーたるに相応しい人物か。深刻な疑いがこの戦闘集団に走ったようです。そのあたりの動揺を聖書は次のように記しています。

「兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だがダビデはその神、主によって力を奮い起こした」(新共同訳、6節)

聖研の話し合いの中で、ここで「兵士」と訳されている言葉は、単に「者たち」の意味で、それ以上の意味はない、との指摘がありました。「兵士」は、ダビデ一行=戦闘集団、のニュアンスを強く伝えるために行われた意訳のようです。ともかく、ダビデ一行は一様に、失われた家族のことでもがき苦しんだ。その悩み苦しみの中から、指導者ダビデに対する不信が噴出した。この人はほんとうに指導者に相応しい人なのか、別の人間がリーダーをしていればこんなことにならなかったのではないか。

石で打ち殺そう」と言い出したというのですから、その不信の念は相当に強力なものだったことが窺い知れます。「石で打ち殺す」というのは、律法の規定上は、極刑です。神を冒瀆した者が処せられる刑の形式です。「主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す」(レビ記24:16)というわけです。むろん今のダビデのケースでは、神を冒瀆した犯罪行為があるわけでもなく、裁判もなく、刑執行の客観的条件が存在するわけではありません。ただダビデ集団の中に、「石打ちの刑」と同じ処罰感情が湧き上がったということが重要だと思います。ダビデのふるまいは、死に値する。しかも神冒瀆の死に値する。とんでもない奴だ。

指導者ダビデは窮地に陥った。ダビデはサムエルをとおして油注がれた人であり、次期王としての未来を約束された人だった。自身の権威の源泉は主にある。このような想定で生きかつ指導してきた人物です。その秩序の根底がいま揺らいでいる。この男は主に支えられているのではなく、主を冒瀆している人物ではないか。根底的な疑いが集団を覆い、ダビデはとてつもない苦しみの渦中に追いやられる。上に引用したように、新共同訳では「ダビデは苦しんだ」と書いてあるだけですが、別の訳では「ダビデは非常な苦境に立たされた」(聖書協会共同訳)となっています(『旧約聖書Ⅱ 歴史書』岩波書店、2005年でも同じ訳文です)。ダビデその人の存立基盤が揺らいでいるという意味で、「非常な苦境」という訳がぴたりと来る気がします。

ダビデは何をしたか

「石で打ち殺せ」という声が高まる中、ダビデは何をしたか。具体的に何をしたかについて、聖書は何も記していません。「ダビデはその神、主によって力を奮い起こした」とあるだけです。この箇所の訳文も訳によってばらつきがあります。聖書協会共同訳は「ダビデはその神、主を信頼して揺るがなかった」となっています。先ほど言及した岩波版旧約聖書の訳では、「ダビデは彼の神、ヤハウェに寄り頼んで、自分を奮い立たせた」、口語訳は「ダビデはその神、主によって自分を力づけた」、関根正雄訳では「ダビデはその神ヤハウェに依り頼んで力を得た」。西欧語のいくつかの訳文も見ましたが、「主により頼んだ、そこから力(勇気)を得た」という趣旨の訳文が多かったように思います。

ダビデが何をしたか、詳細はわからない。ただ「主により頼んだ、そこから力(勇気)を得た」ということだとすると、懸命に祈った、ということなのだと思います。そしてそこから力(勇気)を得た。ダビデは自らの存立基盤が危うくなる危機をいま経験している。だからこそ主に祈ったのだと思います。ダビデに主の支えのあることが、みんなから疑われている。となると、みんなの前でその疑いを晴らすという手もないではなかった。「あなたがたは石打ちの刑というが、私は油注がれた人間だ」等々。だがダビデはそうしなかった。「石打ちを!」と叫ぶ人々の前に出て弁明するのではなく、独りで、主に懸命に祈った。祈る中から力が湧いてきた。そういうことだったのだと思います。

ダビデの転換点

「ダビデはその神、主によって力を奮い起こした」(新共同訳)という訳文から始まり、あれこれ推測をしてみました。みんなから疑われ、責められる。このままでは集団の存続そのものが危ぶまれる。ダビデはそのとき、独り祈り続けた。危機の大きさとその後のダビデの決然たる様子、力を得た様子を考慮すると、いまこの時が大きな転換点だったのだと思います。転換点にあたって、だれにも見えないところでダビデの祈りがあった。

これまでダビデの歩みを見てきた者には、この推測にはそれなりの根拠があるように見えます。ダビデはこれまでたびたび危ういところを救出されています。洞窟でサウルの上着を切ったとき(24章)、サウルの寝所に忍び込んだとき(26章)、いずれもサウルへの暴力行使の誘惑から救出されていますし、民間人ナバルを殺害する計画も実行寸前で止められました(25章)。また前回見たように、ダビデはすんでのところで、自分の出身部族と相打ちするところでした(29章)。すんでのところで救出されたとの思いが、ダビデの中で強く残っていたにちがいない。そしてその思いが残っていればいるほど、救出の主体に依り頼む気持ちが強くなる。それは至極当然の成り行きだったろうと思います。

自らの存在基盤が揺らぐ経験をしたダビデは、その危機の中から新たな力を得て戻ってきます。その後の動きは素早い。祭司アビアタルにエフォド(祭司の祭儀用衣装)をもってこさせ、主からの託宣を受ける。そのようにしてアマレク追跡の託宣を受け、一丸となって追跡を開始します。

ダビデと託宣

聖研の話し合いで、この「託宣」なるものはいつごろから出てきたものなのかが話題になりました。たしかにモーセやヨシュアの時代には、託宣という形式はなかったように思います。そこでは指導者が直接、神から指示を受けた。託宣という言葉は、モアブ王バラクに雇われた占い師バラムなる人物が行ったことに対して用いられています(民数記23章以下)。ヤハウェ宗教の外で行われていた慣行だったのかもしれません。

ダビデはこの時だけでなく、ペリシテが襲ったケイラの町を救おうとするときにも託宣を求めていますし(23:2)、またそのケイラの住民が自分をサウルに売ろうとしていることを察知したときにも、託宣によってヤハウェの見通しを訊いています(23:11-12)。サムエルが存命中は、このような託宣は目立ちません。ヤハウェの意思はサムエル個人に告げられていました。つまりダビデ時代に入り、軍事的あるいは政治的指導と宗教的なカリスマとの分化が、目立ってきたということなのかもしれません。

一匹オオカミの集団

❺に移ります。

エジプト人奴隷の手引きによってアマレク人を討ち、捕虜となっていた人たちを奪還し、奪われた品々を取り戻すだけでなく、新たな戦利品も獲得します。ダビデ一行にとっても、生き別れとなっていた家族と無事再会を果たし、万々歳の展開です。ふつうならこれでハッピーエンドというわけですが、そういうふうには書いていない。先にふれたように、戦利品の分配をめぐってひと悶着あったことが記されています。旧約聖書の記述は、あくまで冷静で、現実をそのまま伝える雰囲気で満ちている。

サウルの追跡を受けるという状況下、ダビデに従った者は400人ほどいたと記されています(サムエル記上22:2)。別の箇所では600人という数字が挙げられています。今日の箇所でも600人。正確な人数はわからないというしかありませんが、その人々の中には、「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者」がいたという記述があります(22:2)。そこから推測するに、ダビデの一行は、訓練された兵士たちから成る戦闘集団というよりは、さまざまな人たちがさまざまな事情から集まっている集団、一匹オオカミの寄り合い所帯と考えた方がよさそうです。

ダビデの裁定

そうした事情とおそらく関係するのでしょうが、奪還後、勝利の余韻に浸る間もなく、指導者ダビデに意見を言う者が出てきます。荷物番をしただけの人間と我ら戦闘をした人間が同じ分け前などということは、ありえない。奴らには何も与えるべきではない。マタイ福音書20章の長時間働いた労働者と同じ口ぶりです。あの労働者も、夜明けから働いた我々と1時間しか働かなかった者が同じ賃金などということはありえない、と憤ったのでした。たしかに荷物番には何も与えるなという主張には一理あります。

しかし一理あることを理由に、この主張の肩をもつと、議論が果てしなく続きます。そして結論にはたどり着かない。いずれの主張も一理あるにちがいないからです。ダビデはその道を行かなかった。ダビデは、いわば原点に返って、次のように主張します。

「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守って下さったのは主であり、襲ってきたあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ」(23節)

事態の進行の主役は誰か。この問いに関してダビデは、主を指さします。主役は主(ヤハウェ)だ、と。一匹オオカミ諸兄が「主役はオレ」と言い出したら、収拾がつかなくなる。それは目に見えています。で、ダビデはその道には入らず、自らの信仰に従い、主を指さしたのだと思います。そしてその前提に立って、「荷物番をしていたものと戦闘に行った者の取り分は同じでなくてはならない」という裁定を下します。この裁定には力があったのではないか。この裁定を聞いた一匹オオカミたちは素直に引き下がったのではないか。そんな気がします。

裁定の力はどこから来たか

仮に事態がそのように推移したとして、つまりみんなが素直にダビデの言うことを聞いたとして、いったいどうしてダビデの裁定にはそれほどの力が宿っていたのか。アマレクからの捕虜等の奪還という実績。これが一つの答えです。ダビデの指導者としての実績を目の当たりにしたら、さしもの一匹オオカミたちもいうことを聞かざるを得ない。しかしそれだけなら人の世においてよくある話、ということにとどまってしまう。実績のある人間が自信をもってものを言えば、その発言には人を動かす力がある。よくある話です。

ダビデの発言で注目すべきは、主役は主だ、という発言内容です。ダビデは赫赫たる実績を上げながら、そこを指さしてはいない。そうではなく、すべての主役は主だと言っている。この言葉は単なるポジショントークではありません。ヤハウェ宗教を奉じる集団の指導者が、自らの立ち位置に相応しい話を役割に従って話したわけではない。そうではなく、ダビデにとってこれこそ真実だと言いうる話をしたわけです。先ほど確認しましたように、ダビデはアマレクの襲撃を受け、自らの存在の危機を経験しました。自らの麾下(きか)から、「石打ちで殺せ」の声が上がったわけですから。その絶望の淵で「主により頼んだ、そこから力(勇気)を得た」という経験をした。先ほど確認したとおりです。ダビデにとって一種の底つき経験です。そこから浮上してきたのが、いまのダビデです。

主の託宣を受けてアマレクを追い、無事奪還した。そのダビデにとって、主役は主だ、という言葉にはこれ以上ないほどの真実がこもっていたと思います。そして真実がこもる言葉には、動かしがたい力がある。ダビデの裁定の言葉を聞いて、そんなことを想像しました。

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