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「君の話」より、5の美しい表現

 彼女は立ち上がり、レコードプレイヤーのトーンアームをそっと持ち上げて針を外した。そして回転を止めたレコードを両手で慎重に裏返し、針を下ろした。ほどなく、小休止していたプレイヤーは演奏を再開した。まるでひっくり返って動けなくなっていた亀を元に戻してあげたみたいだった。

 そこで彼は僕に向けて試し撃ちでもするみたいに微笑んでみせた。 夢を持って大学に入学してきた女の子が見たら一瞬で恋に落ちてしまいそうな笑顔だった。

 喜び、怒り、愛おしさ、虚しさ、罪悪感、喪失感、ありとあらゆる感情が一斉に去来した。それらの感情は僕の胸を激しく掻き毟り、抉り取り、切り刻み、その肉片の一つ一つを念入りに踏みにじっていった。そして穿たれた胸の穴には剥き出しの悲しみだけが取り残された。

私は時折巣穴から顔を出すようにして枕元の時計の夜光針を眺め、一秒でも早く夜が明けることを祈った。苦痛が大きいほど時間の歩みは緩慢になり、もどかしさのあまり時計の風防を破って針を直に摑みぐるぐる回してやりたいという衝動に駆られたことも何度となくあった。

 窓から覗く青空に細い飛行機雲がまっすぐに引かれ、そして消えた。八月の空に鎮座していた巨大な入道雲は跡形もなく姿を消し、今では自動車の擦り傷みたいに掠れた微小な雲がいくつか残るばかりだった。

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