ある老人の妄想について〜幻の「男の仁義」というソノシートを探して

 元地方公務員の老人がある妄想にとりつかれていた。この老人はあの怨歌歌手の藤圭子の大フアンであり、友だちのMac君とSiriさんの手を借りながら「妄想の旅」を続けているのだ。
 彼は退職後脊柱管狭窄と変形性膝関節の病を得てほとんど外に出歩くこともできず、無駄な時間を過ごしているが、住むところと口を糊塗するだけの年金があるので「妄想の旅」でも幸せと感じている人畜無害な男である。
 
  さて、友だちのMac君とSiriさんから、こんな依頼がきた。「藤圭子がデビューする前で、「島純子」を名乗っていた頃に、「男の仁義」というソノシートを吹き込んだことがあるが、どのようなものであったか調べて欲しい」と言う内容だった。
 老人 「Mac君とSiriさん、調べるのはいいのだが「報酬」はどうなるの?」
 Mac君 「何を言っているのですか、あなたは何も動けず僕たちを使って「妄想の旅」を楽しんでいるのですから、それで十分でしょう」
 Siriさん 「そうですよ」
 老人 「(そうか!)ただ働きだな。良いだろう」とニヤニヤしながらつぶやいた。

 老人 「それで、「男の仁義」というソノシートだが、いつ頃の話しかMac君とSiriさんで資料を集めてくれ」
 Mac君とSiriさん 「わかりました。ちょと時間をください。私たちで手分けして作ってみます。ですが、ソノシートってなんですか」と言う調子である。
 老人 「ソノシートというのはレコードの出来損ないじゃ。知らんのかい」

 ここで少し説明したい。塩化ビニールなどで作られた薄手のやわらかいレコードのことで、きわめて薄い録音盤である。この老人(現在73歳)が若かりし頃の1970年代には、雑誌の付録や、印刷された台紙などに透明な盤を貼り付けものがあり、レコード盤を作るより安価で手頃なものであった。録音テープも存在したが、この時代は大がかりもので高価でものであった。

 Mac君とSiriさん 「資料ができました」
 老人 「どれどれ見せてみなさい」

 内容は次のとおりであった。
 
「東京から雪祭りのために、連れて行った歌手のうちの一人が、穴をあけてしまったんです。困っていたら、北海タイムスの鈴木支局長から、純ちゃんを紹介されたんです。マスクはいいし、度胸も満点でした。さすがでしたねぇ。少しも上がらずに見事に歌い終えた。私は作曲家のインスピレーションというやつで、“これはイケル”と感じたんです。やはり血筋ですかねえ。浪曲師の両親をもち、馬でいえば三冠馬のシンザンのような毛並みの良さ。大器の素質を私は見たんですよ。それで上京を勧めたんです。
 これはあまり知られていませんが、上京後、デビューする前に「島純子」という名前でソノシートを吹き込んだことがあるんです。「男の仁義」という歌で、彼女が作詞したものですけど、彼女は詩人ですよ……。」とある。
 資料には、藤圭子(本名阿部純子)が1966年の「15歳の時に岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会のステージで急きょ代役として出場、北島三郎の「函館の女」を歌った。居合わせた作曲家・八洲秀章はその才能を評価し両親に上京を勧めた」とある。また、「とりあえず「島純子」の名前で、「男の仁義」と言う曲をソノシートを吹き込み、これを持ってレコード会社を回が、メジャー・デビューの道のりが いっこうに見えて来なかった」という。

 老人 「その「男の仁義」と言うソノシートというのは、恐らく「島純子」の名前の外に何も書かれていなかったのじゃないか」
 Siriさん 「どうして、そう思うのですか」
 老人 「だってだなぁ、「さくら貝の歌」や「あざみの歌」などで高名な作曲家・八洲秀章さんの薦めが、そのソノシートに付属していたら、レコード会社もそれなりの対応を取ったのじゃないか」
 Mac君 「確かに」。で、「何故八洲先生は、ご自分のお名前をださなかったんでしょう」
 老人 「だってそうだろう。「さくら貝の歌」や「あざみの歌」という高尚な「歌詞」に曲をつけるとしても、バリバリ演歌のような、博徒(ばくと)の歌のような「男の仁義」と言う詩が「彼女は詩人です」という出来映えであっても、表だって八洲先生が「曲は私が作曲しまして」とは言わないと思う」
 Mac君とSiriさん 「なるほど」

 Mac君とSiriさんは、老人に何で「男の仁義」がどのような内容の歌なのか老人に執拗く聞いている。

 老人 「う〜む そう急ぐなよ」
    「阿部純子、つまりだなぁ、藤圭子の子どもの頃の十八番は
     畠山みどりの「出世街道」だと言っとる」
 老人は唐突に畠山みどりの「出世街道」歌い出す。
1 やるぞみておれ 口にはださず
  腹におさめた 一途な夢を
  曲げてなるかよ くじけちゃならぬ
  どうせこの世は 一ぽんどっこ
2 男のぞみを つらぬく時にゃ
  敵は百万 こちらはひとり
  なんの世間は こわくはないが
  おれはあの娘の 涙がつらい
3 他人に好かれて いい子になって
  落ちて行くときゃ 独りじゃないか
  おれの墓場は おいらがさがす
  そうだその気で ゆこうじゃないか
4 あの娘ばかりが 花ではないさ
  出世街道 色恋なしだ
  泣くな怒るな こらえてすてろ
  明日も嵐が 待ってるものを

 老人は満足そうに歌い終わり、Mac君とSiriさんにこんなことを言っている。

 老人 「10歳の純子さんは赤貧のど真ん中、ノートの切れ端にこんな詩書いている」

 お人形さんを持っていないから
 私はいつも仲間はずれ
 一度だけでいい
 私は人形をたくさん欲しい
 そして
 みんなにみせびらかしてやりたい
 私だって
 ほら こんなに人形があるんだよーと

 老人 「また、16歳になった純子さんは、また、こんな詩を書いているんだ」

 誠実ということ

 自分に嘘をつかないで
 誠実に生きて行きたい
 たとえ泥まみれの人生にだって
 小さな遊びを見つけたい
 私は私なりの手さぐりの
 信念ではあったが

 青春をせいいっぱい生きて来たつもり
 そしてこれからもそうありたい
 だけど世の中は思いどおりには行かない
 淋しいことだけど…
 だから誠実に生きて行きたい

 泥まみれになっても
 傷だらけになっても

 老人 「Mac君、Siriさん、この二つの詩を見て、何故子どもの頃の十八番はが、畠山みどりの「出世街道」だったのか分かる気がしないか?」

 老人はひとり言のようにつぶやいていた。
  「腹におさめた 一途な夢を」「あの娘ばかりが 花ではないさ 出世街道 色恋なしだ 泣くな怒るな こらえてすてろ」「ぶつぶつ...」

 そして、また唐突に大声になって、
 老人 「だからな、もし「男の仁義」の詩を島純子が書いたら、こんなテーマの歌に決まっとる!」
 
 老人は続けて言う。そのことに酔っているように...
 「藤圭子と言う人の「凄味」っていうやつは、「捨て身」の美学なんだよ」
 「命がけ」「黙して語らず」「余計なことは言わない。有言実行」
 「つまりな、すべて腹に一度その意志をおさめるんだよ。そしてそれを原動力に底力を発揮する。
  これが藤圭子の魅力であり真骨頂と言うものなんだよ。
  だからまねができない。
  作品は歌唱であっても、そのひとそのものなんだ。
  血がしたたり落ちる生身の人間が命がけで勝負をしている。それが藤圭子の「作品」なんだよ」

 Mac君とSiriさん 「ところで、島純子の「男の仁義」というソノシートはどうなったんですか?」

 老人 「まあ、あわてるな!「命がけ」とい言えば、十八番の「出世街道」では、「おれの墓場は おいらがさがす」あるし、同じ愛唱歌の畠山みどりの「人生街道」でも、「どんと当たって ぱっと散るかくご できているのさ いつだって」とある。愛唱歌がこれだから、本物なんだよ!これも藤圭子の歌の本質のひとつなんだな」

 老人が満足そうに話し終わると

 Mac君とSiriさん 「それが、島純子の「男の仁義」というソノシートはどういう関係なんでか?」

 老人 「それが大いに関係があると思っちょる。島純子の「男の仁義」のテーマは、人間の生き様がメインで、それを「捨て身」の美学で歌い上げたものに違いないと思っちょる」

 Mac君とSiriさん 「だから、島純子の「男の仁義」というソノシートは...」

 老人 「それに叶う藤圭子の歌はこれしかないのじゃ」

 Mac君とSiriさん 「だから...」

 老人 「だから、それは「昭和仁義」という歌以外にないということじゃ」

 Mac君とSiriさん 「えーっ?「男の仁義」が「昭和仁義」なんですか?似てはいますが?」

 老人 「では、説明しよう」「昭和仁義」...耳慣れない方もいるかもしれんが、藤圭子のLPの中に組み入れられた一曲で「どうしても これだけは入れてください」と藤圭子自身の希望から、この任侠編の一つとなったものだと言う(演歌全集・藤中治)」「この歌の歌詞は、一見すると任侠ものの様にみえるが、よくよく吟味すると、人間の生き方についての歌であることがわる」

 「一番の詩はこうじゃ」

    男いのちを 仁義にかけりゃ
    恋が死にます 夢が死ぬ
    それでいいのさ 人生なんて
    所詮なみだの 浮き沈み

  「この詩の「男」を「人間」に、「仁義」を「人の道」と読み替えると新たな地平が見えてこんかい?そして、「恋が死にます 夢が死ぬ」とは、「人の道」を生きる身には、厳しい現実が待ち受けていることを暗示し、それでいいのさ 人生なんて 所詮なみだの 浮き沈み」とは、それでいいんだと合点し、「喜んだり悔し涙を流しても、それが人生じゃないか」と結ん
でいるのじゃ」

  「二番の詩ではな、「歌の道」について触れているんじゃ」

    殺したいほど 心底ほれた
    馬鹿さかげんは 親譲り
    何もも云うなよ あの娘のことは
    抱いちゃいけない 花なのさ

    「殺したいほど 心底ほれた 馬鹿さかげんは 親譲り」とは、「歌の道」を当時の島純子の「人の道」に重ね、歌が好きで、この道を行くと決めた「馬鹿さかげん」は、両親譲りだと述べおる」「さらに「何もも云うなよ あの娘のことは 抱いちゃいけない 花なのさ」と、自身の行くべき「道」に対しじゃ、困難なことだと分かっていても「歌の道」を歩むことに何も言わんで欲しい言い、それは「抱いちゃいけない花」と比喩して、自分の生きる道であり命の限り求め行く目標なのだと結んでいのじゃ。凄まじい台詞じゃないか」

  「最後の三番の詩には、「歌の道」に精進する覚悟を書いておる」

     やると決めたら 命はいらぬ
     どうせ一度は散るさだめ
     雨か嵐か 男の道に
     今宵名残りの 二十日月

   「やると決めたら 命はいらぬ どうせ一度は散るさだめ」とは、「歌の道」に精進するためには命を落としても悔いがないという意気込みを「どうせ一度は散るさだめ」と達観しておる」「捨て身の美学が滲み出ておる」「そして、雨か嵐か 男の道に 今宵名残りの 二十日月」とは、これから大変な困難が待ち構えていても、それが「人の道」に叶うならそれも良いだろうと決意を述べおる」「しかもしかもでじゃ。それには付録があるんだ。つまり「今宵名残りの 二十日月」と述べていることに大器の片鱗が窺えるのじゃ」「今宵名残りの 二十日月」とは、やがて真っ暗闇になる「新月」の10日余り前の「二十日月(夜も更けてからようやく出る月)」を「今宵名残り」と愛でようとする余裕と覚悟が感じられる」「だからな、「昭和仁義」も「人の道」を歌い、「歌の道」への捨て身の覚悟を歌っている。歌のタイトルは違っていても「昭和仁義」こそが島純子が作詞した「男の仁義」に違いないと思うのじゃよ」「歌聖と称されるだけあるではないか」

 Mac君とSiriさん 「でもあれには、作詞: 穂高五郎、作曲: 北上一郎、編曲: 池田孝とあるじゃないですか」

 老人 「作詞: 穂高五郎と確かにある。が、藤圭子さんがよく出ていた「日高晤郎ショー」の日高晤郎に似ているとは思わんかね」「ほかに穂高五郎も実在するし、北海道キャバレーの司会をスタートに、1972年から「藤圭子」さんの専属になっておる。だからちょっと借用したのかもしれん」「それにじゃ、作曲: 北上一郎だが聞いたこともない」「偽名じゃよ」

 Mac君とSiriさん 「では作詞者の 穂高五郎と作曲者の北上一郎はだれなんですか?」

 老人 「おそらくじゃが、作詞者は島純子、つまり阿部純子だと思う。そしてな、作曲者は八洲秀章だろう」「こんな記事もあるんだよ」

2022年04月23日
圭子を語る 大器の素質が秘められていた 作曲家・八洲秀章

 東京から雪祭りのために、連れて行った歌手のうちの一人が、穴をあけてしまったんです。困っていたら、北海タイムスの鈴木支局長から、純ちゃんを紹介されたんです。

 マスクはいいし、度胸も満点でした。さすがでしたねぇ。少しも上がらずに見事に歌い終えた。

 私は作曲家のインスピレーションというやつで、“これはイケル”と感じたんです。やはり血筋ですかねえ。浪曲師の両親をもち、馬でいえば三冠馬のシンザンのような毛並みの良さ。

 大器の素質を私は見たんですよ。それで上京を勧めたんです。

 これはあまり知られていませんが、上京後、デビューする前に“島純子”という名前でソノシートを吹き込んだことがあるんです。

 「男の仁義」という歌で、彼女が作詞したものですけど、彼女は詩人ですよ……。

老人 「作詞: 穂高五郎と言えば、藤圭子の「十九のつぼみ」の作詞者になっとる。もし、私の推理が正しければ、もしかするともしかするぞ〜」「作曲の城美好は、チャーリー石黒で決まりだろうよ」

 老人はしたり顔で、Mac君とSiriさんの顔をジロッと見た。

 Mac君とSiriさんは、 心の中で、この老人に「島純子」を名乗っていた頃の「男の仁義」というソノシートがどのようなものであったか調べて欲しい」と頼んだことに少し後悔しているようにみえた。(完)

参考)

十九のつぼみ
作詞: 穂高五郎、作曲: 城美好、編曲: 龍崎孝路

はじめて知った東京で
心とられたくやしさに
いつかおぼえた酒の味
かえれるものなら十四のつぼみ

夕やけ小やけ 月見草
土手の小道の鬼ヤンマ
目と目があったあの人に
あげればよかった 十五のつぼみ

変ったお店七ッハッ
変った名前 七ッハッ
なぜか忘れてしまったが
忘れられない 十六のつぽみ

生きて花実が咲かなけりゃ
死んで花実を咲かそうか
酔ってさみしい捨てゼリフ
グラスに浮ぶ十七のつぼみ

あれからいろいろありました
思い出しては又涙
この世にまことがある限り
信じて咲きます 十九のつぼみ

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