藤圭子さんの晩年の空白の12年間について 下

 2013年9月10日のAsagei plusによると、新宿2丁目のウリ専バー(ウリ専バーとは、本来、ゲイの男性が店内にいる意中の男性を選び、そのまま連れ出してホテルで性行為に及ぶのが一般的)の常連客だったS氏の話として、「藤さんはちょくちょくお見かけしましたよ。ちょうど10年ぐらい前(2003年)から2年間ぐらいかな。いつも黒い帽子をかぶって化粧っ気はまったくなし。ただならぬオーラがあって、じっと男の子を値踏みするんです。そして、気に入ったコがいると指さして、“泊まり”で連れて行きましたよ。そのほうが安上がりでしたからね」「けっこう女性のお客さんって、周りにいるゲイや女性のお客さんとざっくばらんに話すんですが、藤さんは人を寄せつけない雰囲気がありましたね。あとで従業員に聞いたら、色白の細面の男性が好みだったんです...。男を連れ出しても性的な興味はなくて、もっぱら話し相手をしてもらうために男性を連れ出していたみたい。そのまま男の子を連れて、常連のホストクラブに行って、派手にシャンパンを開けたり、店をはしごしたり。金離れのいいお客さんと評判になっていました」、「ただ、金離れはいいんだけど、自分のことはほとんど話そうとせずに、従業員のプロフィールを根掘り葉掘り聞くのが好きだったみたい。それで、興に乗ってくると説教が朝まで続くとか。さすがに、何人かの子は懲りていて、指名されるのにおびえていたようです」(前出・常連客)と書かれています。
 そして、マスコミが彼女(圭子さん)のホスト通いを嗅ぎつけて、新宿2丁目界隈を聞き込みしていたのが彼女にバレてしまった。すると、それ以来、パッタリと姿を見せなくなってしまったといいます。つまり圭子さんは、光さんの音楽活動に参加できない孤独を癒やそうと、ウリ専バーに通っては散財していたようです。

 同時期に、東スポweb2013年08月24日「謎に包まれた半生…藤圭子さんの「カネと奇行伝説」」によると、「「そこからです。暮らしぶりがド派手になったのは」――。こう証言するのは彼女を知る人物だ。藤さんは“第2の故郷”米国と日本を往復する生活で、国内滞在時はもっぱら都内の高級ホテルを“定宿”としていた。
 また、複数の高級ホテルのスイートを同時に借りられたことからもハンパでない裕福さがわかるが、藤さんは趣味のギャンブルでも大金を使っていました。「ラスベガスで、1晩で数千万円すったなんてザラ。カジノや麻雀、競馬など賭け事なら何でもOKで、年間1億円は負けていると言われていました。それでも本人に節約する気はなかったとか」とはある音楽関係者。かなりのギャンブラーだったようだ」とと話しています。

 その一端が覗えるのが、2006年3月3日藤圭子が、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港にて大金を没収される事件に関する記事です。

 事件は、「アメリカから『日本のポップスターの母親が空港で麻薬取締局に現金を差し押さえられた』という一報が入ってきたことからはじまります。この報道によると、現金を没収される際に藤圭子が大声を出すなど取り乱した様子だったということもあり、薬物についても疑惑が持たれました事件でした。

 この事件直後の藤サイドのインタビューでは、「ニューヨークの金庫に保管していたものに、ギャンブルで勝った金を加えた。違法な現金ではない ラスベガスのボランティア団体に寄付するつもりだった」と説明し、全額返還を求めています。また、麻薬への関与は一切ないと説明しています。

 この事件は、2006年3月、ケネディ国際空港からラスベガスへ向かう飛行機に搭乗する際、手荷物検査で藤のバッグに麻薬探知犬が異変を察知したものでした。

 「中から出てきたのは約42万ドル(約4900万円)もの現金。100ドル札など4000枚以上の紙幣が輪ゴムで束ねられていた。藤は『ベガスの養護施設に寄付する』など係官に説明したが、クレジット社会の米国では大量の現金は麻薬取引やテロの資金と疑われてもしかたなかった」ようです。

 この事件は日本の一般紙でも大きく報道されたこともあり、その1カ月後、報道が誤報であることを訴えるため、藤は帰国してフジテレビの情報番組に緊急出演し、久しぶりに公の場に姿を見せました。

 番組では麻薬疑惑を完全否定したうえで、カジノでは現金を持ち歩くのは普通のこと。これまでにパリ、モナコ、アムステルダム、ゴールドコースト、バハマなど世界各地の賭場を歴訪し、5年間で5億円の金を使ったことを明かしています。

 また、2006年3月29日ごろ、所属事務所の宇多田照実代表は「差し押さえは確かだが、金額など詳細は調査している。不法な薬物の取引に関係したものでは100パーセントない」とコメントしています。

 また事件後の10月初旬、日本に帰国していた藤圭子に会った知人のひとりがこう語っています。「今回の件に関して、藤さんは“JFKの職員はおかしい。私は世界各国を大量の現金を持って回っているけれども、どこの空港でもこんな目にあったことはない”といっていましたね」。そんな藤の憤りの一方で今回の事件では、押収品の中に他人名義の小切手も一緒に含まれていたことが明らかになっている。その名義人は、以前藤のアシスタントを務めていたというA氏(例のマンションの同居人と思われる)。ニューヨークの捜査関係者がいう。「彼は2005年に藤とオーストラリアに旅行に行った際、多額の現金を所持していたため、通貨法違反で現地当局に逮捕されているんです」。このように、現金をめぐるトラブルは今回の件が初めてというわけではなかったようですが、今回の事件に関して、藤圭子が強く訴えたのは家族への不信だったと言います。「藤さんは“今回の件はすべて家族のせいだ”というんです。“旦那も冷たいし、家族とも疎遠になって、ほとんど一緒にいない。寂しいし、ほかにもいろいろあって人間不信になっている。だから現金を持って、好きなギャンブルをして歩いている”と、切々と訴えるんですよ」と語っています。また、藤圭子没後の2013.9.3Asagei+によると、「藤は周囲に、こんなことを漏らしていたんです。最近交際している男性とは、関係は順調で「ラスベガスのカジノにも同行してもらっている」と。そしてその理由を聞くと、単なる交際相手という以外に、「自分1人でお金を持ってカジノに行くと、全て使い切ってしまう。だから彼に現金を持たせて使いすぎないようにしている」いる人で余程信用している方のようです。

 さらに、2006年10月22日放送の情報番組『スタ☆メン』(フジテレビ系)にインタビュー出演し、「この5年間ほとんど日本に帰らず、世界中を旅している。ファーストクラスのチケット代、(各国の高級)ホテル宿泊代などで、5年間で5億円は使った」「カジノでは現金所持が当たり前」「アメリカはカード社会や小切手社会とされているが、現金(の使用)が主流である」と主張した。また、麻薬探知犬が反応したことに関しては「麻薬とは一切関係がない」と否定しています。しかし麻薬犬による検査で、現金からは微量の規制薬物が検出されたので、米国司法省麻薬取締局は、現金が麻薬取引のためにすでに使われたか、あるいは使われる意図があったと結論付け、全額を没収したのでした。

 藤圭子はこの『スタ☆メン』(フジテレビ系)の独占インタビューに答え、今年3月に米ニューヨークの空港で現金約42万ドル(約4900万円)を差し押さえられた“事件”について初めて釈明しましたた。経過として、ラスベガスに向かう途中の手荷物検査で、麻薬探知犬が現金に反応。米当局は「麻薬などの取引に使用された可能性がある」との理由で現金を没収したが、藤は「麻薬とは一切関係がない」と完全否定し、大金を所持していた理由について「世界中を旅している。パリ、モナコ、アムステルダム、メルボルン、シドニー、コネチカット、ニュージャージー、ネバダ、カリフォルニア…。ファーストクラスの飛行機代、ホテル代などで5年間で5億円は使った」。さらに「カジノでは現金所持が当たり前」と説明しました。

 しかし、「とにかく早口で一方的に話し、目の焦点があっていない。誰が見ても「危ない」状態だったので、まともに映っているところだけを使いました」と報道されてしまったため、ギャンブルや麻薬問題もあり精神の病がクローズアップされています。しかし、藤圭子は宇多田ヒカルを出産すると遺伝性の実母の目の疾患(網膜色素変性症)を発症し、目の焦点があっていないように見えてしまったようです。録画の一部はYouTubeで見ることができます。https://www.youtube.com/watch?v=7M97RZFzCm0

 Mixiのばらちんさんの投稿によると「圭子さん55歳、インタビューの時「Close To You」を口ずさんでいます」とあります。その「Close To You」は、兄妹デュオ「カーペンターズ」の代表曲で、1970年のグラミー賞も受賞した人気曲であり、宇多田ヒカルが生まれた時の「夢」であり、アメリカで「Cubic U」(日本デビュー前の初期の宇多田ヒカルの別名儀)としてシングル「Close To You」を発表した曲でです。

 また、「スポニチの阿部公輔氏は、2006年に米ニューヨークのJFK国際空港で、所持していた42万ドル(当時のレートで約4,900万円)を没収された事件の直後に藤圭子から話を聞いています。「阿部は、藤圭子が宇多田家からつまはじきとなった後も、呼び出しを食らっては熱弁を聞かされています。「二言目には「娘は天才だから」ですよ。デビュー前の売り込みの時期ではなく、大ブレイクした後も変わらなかった。ただ、そばにいない娘に向かってのアドバイスを忘れない。今のままではダメって、いつも口にしていました」。阿部が舌を巻いたのは、音楽に対する膨大な知識である。もともと聡明な人だとは思っていたが、アメリカのプロデューサーや一流ミュージシャンの名前が次々と出てくる。ドラムやベースは誰々がヒカルに合っているというように」と述べています。つまり筆者が思うに、ギャンブル三昧の旅だけではなく、世界の音楽の最新情報を収集していたように見受けられるのです。

 藤さんの知人はその背景をこう説明する。「ギャンブル好きと言われていたけど、いつもつまらなそうなんですよね。照實さんのことも嫌がって全く話そうとしない。ただ唯一、ヒカルさんについては嬉しそうに、“あの曲はもっとこうしたほうがいい”とか次から次に話し始めるんです」。そして、孤独を埋めるもうひとつのものが「電話」だった。...そんな電話は照實氏の元にもかかってきていた。機嫌よく話していたかと思えば、覚えのないことで理不尽な罵声を浴びせられたりもした」と言います(芸能関係者)。

 今回の事件に関して、藤圭子が強く訴えたのは家族への不信だったと言います。「藤さんは“今回の件はすべて家族のせいだ”というんです。“旦那も冷たいし、家族とも疎遠になって、ほとんど一緒にいない。寂しいし、ほかにもいろいろあって人間不信になっている。だから現金を持って、好きなギャンブルをして歩いている”と、切々と訴えるんですよ」と語っています。

 何故藤圭子が宇多田ヒカルと絶縁せざるを得なかったのか。それは「藤圭子」というアイデンティティの完全な否定だったと思われます。1999年に藤圭子は突然、歌手を封印しています。それは明らかに宇多田ヒカルのデビューと関連し「封印」させられたのです。帰国子女が新しい海外の曲に乗せ作詞作曲をするシンガーソングライターとしての「宇多田ヒカル」を演出するはずだから圭子さんは、当然ヒカルさんのプロデュースに加われるものと考えていましたが、「事務所の副社長なのに、方向性を断片しか知らされていない。ヒカルと夫だけで話が進んでいって、仲間外れにされている」状況になります。
 理由は歌手を封印した母としての宇多田純子であっても厳然として「藤圭子」と見られることを、夫であり事務所の社長である宇多田照實氏が嫌い、ヒカルさんのプロデュースから遠ざけられ、あるときは「暴力団体質」を理由に「藤圭子」が宇多田ヒカルに関わらぬように排除されてしまうのです。つまり、「藤圭子」と「宇多田ヒカル」は二律背反の存在としてはじかれたわけです。そのことが、藤圭子が「藤圭子」を恨み、恩師石坂まさをと実母竹山澄子を恨むことにもなるのです。

 藤圭子は、莫大な「手切れ金」で宇多田ヒカルとの接触を禁じられ人間不信になります。人間不信は孤独を招き、体調不良も追い討ちをかけました。このような中、藤圭子は宇多田ヒカルのブレークと軌を一にして消息不明になります。一方、「ヒカルさんは周囲に母と会うことを禁じられ、3年は会っていなかったようです」(スポーツ紙デスク)。
 もしかしたら、宇多田ヒカルの音楽製作に集中させるため、3年間、母娘が一緒にいることを禁じられていたのかもしれません。そうだとすると、家族の再会や共同製作の催促を照實氏に訴えていたのかもしれません。しかしながら、 ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港にて大金を没収される事件により、藤圭子と宇多田ヒカルの再会を断念せざるを得なくなります。麻薬関連は完全に否定したものの、暴力団体質や目の疾患で麻薬漬けの印象を与え、没収された現金が返還されるまでは「完全なシロ」ということが言えず、圭子さんは再度世間から身を隠す事以外、宇多田ヒカルを守る術を失うことになります。

 2006年3月ニューヨークのJFK国際空港で起きた米司法省麻薬取締局による「現金計約4900万円相当の差押え事件」に関連し、10月のテレビインタービュー後、某ホテルで家族が揃う以外、照實氏もヒカル氏もほとんど藤圭子と家族として実際に対面し話し合われた痕跡が全くありません。宇多田ヒカルによると、「(藤圭子に)話しかけたくても、母親のほうから頑なに没交渉だった」と言っていますが、なぜ藤圭子がこのような態度をとったのかについても何か理由がありそうです。

 「2007.03.22 歌詞に行き詰まって徹夜で家を大掃除 そう、まじめな話になるけどね、これは早く書かなきゃと思ってたんだ。今月発売されたMUSICAっていう雑誌に掲載された私のインタビューが、その後も部分的にマスコミに取り上げられてね。普通のインタビューよりもいろいろなことを深く掘り下げた内容で、私の中でママは非常に大きな存在だから、自然と彼女の話になったの。誰でも親という存在(もしくは不在)にたいして特別な感情や複雑な心理を抱いて、いくつになってもそれを永遠のテーマとして生きていくんだろうと思うんだけど・・・。私の発言が、想像以上にママに対してネガティヴな印象を与えてしまったみたいで、すごく後悔してるの。ものすごくパーソナルなトピックに中途半端に触れてしまって。娘の私からみても、変わった人だなぁ、と思うことがよくあるけど、私が今まで出会ったことのある誰よりも純粋で、正義感にあふれてて、とっても魅力的な人なの。すごく誤解されやすいんだけど。ママを守らなきゃいけない私がその誤解に加担してしまったのが非常に心苦しくて、ここでちょっと釈明させてもらいました。私はママが大好きだし、いつももっと近づきたいと思ってる。要するにそれが言いたかったのだ。読んでくれてありがと!」(Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikkiより)とヒカルは書いている。
 「MUSICA」は、日本の最新の音楽情報を発信する音楽雑誌で2007年3月15日に創刊され、創刊号には「宇多田ヒカルインタビュー」の記事がメインに載っている。目次をみると、「●宇多田ヒカル、すべてを語る新曲"Flavor Of Life"でトップに返り咲いた今だからこそすべてを語る――「アメリカ」を相手に闘ったUTADAでの挑戦とその総括、『ULTRA BLUE』で再び目覚めたもの、"ぼくはくま"の本当の意味、両親と家庭、そして離婚について……。「日本で一番力強く、そして孤独なアーティスト」が自らの本質を初めて語った画期的ロング・インタヴュー! 」と謳っている。

 インタヴュアーはヒカルに切り込んでいく。「ダイレクトに聞きますけど、この歌(ぼくはくま)が出た頃ってお母さんのことが世の中で報道されていましたよね。(2006年3月ニューヨークのJFK国際空港で起きた米司法省麻薬取締局による「現金計約4900万円相当の差押え事件」)そういう意味でも、あのタイミングであの歌を出すのはリスクが高いと思わなかったの?」の問いに、ヒカルはこう答えている。
 「そういう自覚はなかんですよ、まぁ母も有名人だし、有名人じゃなくてもプライヴェートなことだからペラペラ話すこともないと思ってんだけど、「絵本で出ちゃった、あら?」みたいな感じですかねぇ」と答えて、問われてないことも続けて話している。「どっちかというと、ファザコンに見られるんですよ。お父さんがフィーチャーされてるし仲よさそうってことで、お父さんを慕っているみたいな。でも、お父さんはかなり客観的に好きな人間って感じで、最近やっと仲良くなれてきたみたいな感じなんです。本当にこの1年くらいで仲良くなれて。それまではお互いのプライヴェートとか全然しらなくて。まぁ不器用な親子というか、お互いに侍的なところもあるから悩みとか話し合わないし、むしろ弱いところは家族に一番見せたくないみたいな感じですよ。だから仕事の話しかしなくてーーそれは子供の頃からなんです。でも、この1年くらいはだんだん、たぶんお父さんも円く柔らかくなってきて、私もだんだん「もうちょっと触れ合いがあってもいいな」見たいに素直になってきた感じもあって」と本音を明かしている。

 問題の母藤圭子については、父親の関係に続いて次のように語っている。「母のほうは、凄い歪んだマザコンみたいな感じ。憧れなんですよ、ずっと。凄い距離が遠くて絶対に触れ合えない、みたいな。凄く独特の世界を持っている人で、ある意味凄く閉じた人なんですね。「彼女がそう思ったらそう」みたいな感じの人。だから私に対しても彼女なりに確立した私の見方があるんだけど、でも私としてはあんまり彼女が私を見ている感じがしない、みたいな。彼女から見える私の輪郭と、そこから一步下がっている私っていうかな...直接関わったって気分はまったくしないんですよ……諦めてるんですかねぇ」と答えている。インタヴュアーはさらにヒカルを追い詰めている。「きっと昔から、いろいろなことを受け止めてきたんだろうね。だから最近のお母さんの行動もそれによって莫大なショックを受けたわけでもなくーー。」と話しを向けると、ヒカルは「全然なんてことなかったですね。強がりじゃなくて、あれは大したことじゃなかったんですよ。(中略)ーー今までのことを知っている内側の人間からすると、「え、これが何?何でそんなに騒いでるの?」って感じなんですね。マスコミがそんなに騒ぐのも、わかんなかったし。その辺の感覚のズレーー私は今さらママが何しても受け入れる、「ええぇ!?」とはもうならないの」と答えている。筆者は、ヒカルの意識に何か欠落した部分を感じてしかたがない。

 先ほど、「2006年3月ニューヨークのJFK国際空港で起きた米司法省麻薬取締局による「現金計約4900万円相当の差押え事件」に関連し、10月のテレビインタービュー後、某ホテルで家族が揃う以外、照實氏もヒカル氏もほとんど藤圭子と家族として実際に対面し話し合われた痕跡が全くありません」と書いたが、その後藤圭子の消息は不明になっています。その後のことは、「藤圭子の自殺」後に徐々に判明してきます。

 まず藤圭子の自殺したマンションの同居人のことについて、上沼恵美子司会の「気になる情報のウラのウラ 上沼・高田のクギズケ!」(2011年1月16日から一部日本テレビ系列局で放送されている情報バラエティ番組)で井上公造が言っている NYの空港での例の現金差し押さえ事件の時のインタビュー映像の未放送部分で 「一人旅ですか?」と聞かれ、藤圭子は「いつも松村君が付いてきてくれるの」と答えるこの松村君(当時38歳)が藤圭子最後のマネージャーで、 照實氏と藤圭子両者の信頼が厚くて、英語も堪能な元商社マンであり、後の同居人だと思われます。「6~7年前(2007年頃)、藤は知人に理想の男性が見つかったと話していた」と言います。(芸能デスク)

 ですから、照實氏と藤圭子両者が完全に嫌疑が晴れるまで藤圭子が「再度世間から身を隠す事」を画策し、当初は様々な定宿で過ごし結果的に西新宿のマンションに住むことになったのだと考えています。
 藤圭子は同居人とともに、2006年10月に竣工したばかりの西新宿6丁目のN.Y.T.アトラスタワー西新宿の13階の2LDKの一室に移ります。このマンションは同居人名義で購入し、2007年のはじめに入居したのではないかと考えています。
 このマンションは恐らく照實氏が探し藤圭子等に住まわせたと考えています。このことは、「竹山澄子さんの妹で藤圭子の叔母に当たる竹山幸子さんの話を引用」として、「姉は2010年11月に亡くなりました。同じ年の2月、純ちゃんが「お母さん、今までごめんなさい」と言って突然訪ねてきた。1週間ほど姉の高島平のアパートに泊まっていたそうです。「親不孝してごめんなさい。お母さんと一緒に住みたい」純ちゃんはそう言ってきたそうです。実際に純ちゃんが三田にマンションを購入して、母娘で生活する計画を立てていた。姉は当時すでに体調が悪くなっていて「住み慣れた場所から離れたくないけど、純子とも暮らしたい」と悩んでいました。私はずっと音信不通だった純ちゃんがそう言うのよ。住んだらいいじゃない」と言いました。姉はこのときに純ちゃんから西新宿のマンションに住んでいるとは聞いていた。自殺の時、同居していた男性についても、「宇多田さんから(純ちゃんの)マンションに一緒に住むように指示されていた人」だと言っていたそうです」と報道されていますから概ね事実と思われます。

 2007年の藤圭子・宇多田照實氏との最後の離婚報道も、ある意味宇多田ヒカルに藤圭子の事件で影響が出ないよう演出したもので、戸籍上は夫婦のままであったと思われます。このことは、宇多田ヒカルには気づかれないように、藤圭子が若いマネージャーと暮らすことになったので、照實氏と離婚したから、そっとしておくように宇多田ヒカルに伝えたのかもしれません。
 2010年11月21日宇多田ヒカル氏は、東京・六本木でFM局・J-WAVEのラジオ番組「TOKIO HOT 100」の公開生放送に出演した際、「50歳くらいになった時、マネージャーなしじゃ何もできないおばさんにはなりたくなかった。イタイ大人になっていくのはかっこ悪い」とも言っています。(暗にマネージャー(同居人)と共同生活を送っている藤圭子さんへの皮肉にも聞こえます。もしかしたら、そのことも承知していたと考えています。 )

 2009年には、前述のケネディ国際空港で没収された現金42万ドルが圭子さんに、全額返還が決定されています(計約4900万円)。ユースリーミュージックは「米側は差し押さえを根拠付ける証拠を出せなかった。両者の合意に基づき27日、ニューヨークの連邦地裁で返還を命じる決定が出た」と説明している。
 この時期、藤圭子さんの携帯電話がつながらなくなり、奇行が始まったと言われています。「携帯電話は勝手に解約しちゃうし、誰も連絡が取れない。北海道のすすきのや、四国の山中で目撃されたこともあった。娘の宇多田も母親の所在を把握しておらず、心配していた」(芸能プロ関係者)と言います。(日刊サイゾー 2010年8月16日より)
 ただ、「ニューヨークの連邦地裁で返還を命じる決定」が出れば没収された現金等の引き渡しの手続きをすることになり、「北海道のすすきのや、四国の山中」はないとしても、日本を離れ「ニューヨークの連邦地裁」に行き来することがあったとしても不思議はありません。

 その後の藤圭子の動向については、2013年9月14日号の週刊現代にも兄の藤三郎氏の話があります。「実は、母親が亡くなる数ヶ月前(藤圭子の実母竹山澄子は2010年11月4日没)には、純子も母親を訪ねて来ています。「お母ちゃん、これまでゴメンね」と詫びたそうです。和解の印なのか、3,000万円の現金を携え、それを母親に渡しました。しかし、母親は純子の言葉が信じきれなかったと言っていました。その予感どおり、純子は翌日、再びやってきて、「やっぱり、返して」と、現金を持って帰りました」とあります。また、「竹山澄子さんの妹で藤圭子の叔母に当たる竹山幸子さんの話を引用」として、「姉は2010年11月に亡くなりました。同じ年の2月、純ちゃんが「お母さん、今までごめんなさい」と言って突然訪ねてきた。1週間ほど姉の高島平のアパートに泊まっていたそうです。「親不孝してごめんなさい。お母さんと一緒に住みたい」純ちゃんはそう言ってきたそうです。実際に純ちゃんが三田にマンションを購入して、母娘で生活する計画を立てていた。姉は当時すでに体調が悪くなっていて「住み慣れた場所から離れたくないけど、純子とも暮らしたい」と悩んでいました。私はずっと音信不通だった純ちゃんがそう言うのよ。住んだらいいじゃない」と言いました。姉はこのときに純ちゃんから西新宿のマンションに住んでいるとは聞いていた。自殺の時、同居していた男性についても、「宇多田さんから(純ちゃんの)マンションに一緒に住むように指示されていた人」だと言っていたそうです。純ちゃんの体調はあまり良くなかった。アパートで血を吐いたりしていました。鮮血を吐いたんです。あの子は1日にコンビニのおにぎり1個しか食べなくて、体も細かったから本当に体調が心配でした。私は「純ちゃん、まず体を治さないとだめよ」って声をかけました。医者に行きたがらないから。でも、姉が診てもらっている北里研究病院なら行くと言ってくれて。病院も近いという理由で三田にマンションを買うことになったのです。ところが1週間、姉と暮らしたけれど、「もういい」と気が変わってしまって帰ってしまった。当時も精神的に不安定なところがあったようで、それっきり連絡が途絶えてしまった」とあります。

 また、藤圭子がヒカルの恋人(福田天人氏)の家に行ったと言う報道については、「週刊文春」(文芸春秋)によると、宇多田は現在、英・ロンドンで2009年に交際が報じられた8歳年上の画家・福田天人氏と同棲中。藤(圭子さん)さんは生前、1回だけ福田さんに会い、「娘を、よろしくお願いします」と福田氏に告げたという。「二人が同棲を始めてからのことです。ある夜、突然、藤さんがいらっしゃったんだそうです」と語るのは福田氏の祖母である。恋人の母親の急な来訪。…困惑をよそに、こう藤(圭子さん)は告げたそうだ。「娘を、よろしくお願いします」とこれだけ言うと、藤は帰っていったと言うものでした。この記事は外見的には英・ロンドンに藤圭子が訪ねていき、福田天人氏に会い「娘(ヒカルさん)を、よろしくお願いします」と告げていたと読めます。確かに藤圭子は外国に行くのは慣れていたかも知れませんが「身を隠している藤圭子」がわざわざ宇多田ヒカルの恋人の家に行くのは不自然です。この記事は「週刊文春」以外でも報道されていますが一様に「二人が同棲を始めてからのことです。ある夜、突然、藤さんがいらっしゃったんだそうです」と語るのは福田氏の祖母である。恋人の母親の急な来訪。…困惑をよそに、こう藤(圭子さん)は告げたそうだ。「娘を、よろしくお願いします」とこれだけ言うと、藤は帰っていった」と同じ内容を伝えています。ここから読み取れるのは「二人が同棲を始めてからのこと」と言う時期と、「藤(圭子さん)は告げたそうだ。「娘を、よろしくお願いします」」という事実と「ある夜、突然、藤さんがいらっしゃったんだそうです」という福田氏の祖母の伝聞で構成されていることです。これを普通の文章にすると「(二人が同棲を始めたとされる)2010年のある夜、突然、藤圭子が訪れ(どこか不明)「娘を、よろしくお願いします」と告げたと、宇多田ヒカルの恋人である福田天人氏の祖母が話した」という取材記事だと考えられます。
 だから「ロンドン」は場所を言っているのではなく時期を意味していて、また藤圭子が訪れた場所については明らかにされていないのです。ただ、「娘を、よろしくお願いします」と告げたと、宇多田ヒカルの恋人である福田天人氏の祖母が話した」と言うことですから、藤圭子が出向いた先は、「ロンドン」でもなく「福田天人氏の祖母のところ」でもないはずですから、消去法で長野県の安曇野の福田天人氏の身内(特に両親のどちらか)に違いないと考えています。

 また、スポニチの阿部公輔記者が最後に藤圭子と会ったのは3年前(2010年)で、ちょうどヒカルと音信不通になっていた時期だ。圭子は阿部にポツンと告げている。「私は誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい‥‥」と書かれています( 2013年10月4日「藤圭子と「昭和歌謡」の怨念(12)ヒカルの母に対する“ボーカリストとしての尊敬”」より)。
 この「私は誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい‥‥」たいと言うのは、藤圭子にとっても「自殺」してしまえば照實氏やヒカルに大変な迷惑をかけることになり、特にヒカルへのダメージははかりしれないことから、「私は誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい‥‥」の本意は自然死だったに違いないと考えています。

 宇多田ヒカル氏が27歳(2010年)の時に、公式ブログで、2011年以降アーティスト活動を一時休止することを発表した。「これは「引退宣言」ではありません!でも、「休養」でも「充電期間」でも無いんです。」と明言し、「むしろ熱心に、そして謙虚に、新しいことを勉強したり、この広い世界の知らないものごとを見て知って感じて、一個人としての本当の自分と向き合う期間になると思います。それは「アーティスト活動」とは違う、「人間活動」かな、と。」と綴っている(Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikki 2010.08.09より)。

 2011年については、ヒカルさんは「2011年1月9日深夜、Twitter(ツイッター)で自分の過去を書き込みしており、自身が生まれた瞬間の出来事をファンたちに伝えていた。宇多田ヒカルさんの心肺停止体験「そうだ、産まれた時の話。予定日から3週間以上過ぎてヤバいってことになって帝王切開で出されたんだけど心肺停止で、父(宇多田照實氏)は医者に「残念ですが…」とまで言われるも、父の必死のマッサージで うわああゴールされてもーたーーー!(ヒカルはサッカー観てるため叫んでいる)」「で、真っ青な私を父は泣きながら必死にマッサージしまくって名前も決めてたから「ひかるー!」と呼びかけてたら、徐々に血の気が戻ってきて蘇生したんだって。この間、藤圭子は麻酔で意識無し。父に感謝! ママもママで小さい身体で大変だったろうなあ」、「出産ではそんなに珍しい話でもないんじゃないかな?心肺停止からの蘇生。産まれるって本当に有り難いことだよね。生きてるってことは誰かに愛されたってことだよね。今生きてる人はみんな、赤ちゃんの時に誰かが一生懸命育ててくれたんだもんね」 とつぶやいています。

 2011年の報道はヒカルの熱愛に注目している。「宇多田は今年9月、8歳年上の画家・福田天人氏との交際が明らかになり、本人もブログで交際を認めた。「互いの家を行き来する仲」「すでに半同棲状態」とも報道され、来年にはゴールインとの見方が強まっている。宇多田は、来年1月15日から2月12日までニューヨークやロンドンなどを回る初の海外ツアーを控えており、ツアー後の3月入籍が最有力」(2011年03月08日メンズ・サイゾー)。
 「彼とは8歳年上の画家で、2009年9月に週刊誌がスクープした人物。宇多田は彼との関係について、自ら知人達もいる飲み会の席で口にしたという。「彼女は結婚するというわけじゃないけど、真面目に一般人としての付き合いがしたいんですよ。かっこ悪い自分になりたくないと。きっと当時から活動休止について考えていたんでしょうね。ふたりは、お互い決めたことには干渉せずに応援するというスタンス。だから、彼も宇多田の決断を尊重し、見守ってくれるのでしょうね」(音楽関係者)
 ただ話しは加熱し「2011年3月に画家の彼氏と婚前旅行にでかけていた」とか「天人さんの実家周辺では、宇多田の目撃情報がどんどんでてきた。近くのそば店でも宇多田が目撃されたという声があるので行ってみた。すると店内には、宇多田のサインが飾られていた。日付けは2008年10月22日だった」とか、さらには「宇多田ヒカルは2010年8月に人間活動に専念するために歌手活動を無期限休止し、その後ロンドンへと渡った。天人氏は宇多田ヒカルの後を追いかけた。2人でロンドン生活を送っていた」などの報道がされているが、事実はどうだったのかは調べようもないのです。

 一方宇多田照實氏だが、「2年ほど前(2011頃)だったろうか、照實さんと会って、いろんな話をしたのだが、この時夫婦は既に、何回目かの離婚をしていたのだが、「何といってもヒカルの母親だからね。純子が望むことには出来るだけ応えて、サポート出来ることは、したいと思っているんだよね」と、保護者のような、あたたかな表情で、元妻を語る照實さんにも驚いた」(残間里江子ブログ 駄目で元々雨、アラレ)とあります。

 2011年頃には、「ケネディ国際空港で没収された現金42万ドルが圭子さんに、全額返還が決定」もされ、藤圭子に関する麻薬関連の疑惑は晴れていたことや、宇多田ヒカルが「人間活動」中でもあり、藤圭子の望むことに向き合う姿勢が宇多田照實氏に見られます。
 しかしながら、藤圭子は最早宇多田ヒカルと会うことや世間に姿を現す希望もなくなっていました。視力は更に悪くなり、歌をうたう気力もなく、ましてや宇多田ヒカルをプロデュースなどできず、ただ宇多田ヒカルや照實氏に迷惑をかけずに「誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい」と考えていたとのだと思われます。
 敢えてその状況を示すならば、藤圭子は「マンションの住人によれば、「足元のおぼつかない藤さん(実際は自殺するまで藤とは気づかなかった)を男性が手を引いてエレベータに乗せていた。かなり足腰が弱っている印象だった」と話す。その住民によれば、親子のように見えたという。さらに、「藤圭子さんとは知りませんでしたが、13階に住んでいる女性は普通の主婦っぽくなくて目立ちました。目が少しうつろで、ボ~ッとしているようにも見えました。よく若い男性が手首を引いて「こっち! こっち!」とやっていたので“息子さんかな”と思いました」と話し、また別の50代女性は「マンションの玄関前で、若い男性が「阿部さん、阿部さん」と呼んでいるのを見たことがある」と言います。さらに、また亡くなる10日ほど前には藤さんの姿がマンション内で目撃されと言う情報 もあり、かっての天才歌手藤圭子の面影はすでに消え失せていたと思われます。

 そして恩師石坂まさをが2013年3月9日に死去します。そのことは、藤圭子という歌手をこの世から永遠に消し去るという最後の舞台が用意されたことを意味しました。
 2013年3月11日づけの日本経済新聞によると「石坂 まさを氏(いしざか・まさを、本名=沢ノ井龍二=さわのい・りゅうじ、作詞家)9日、心不全のため死去、71歳。連絡先は石坂まさを事務所。お別れの会を行うが日取りなどは未定。歌手の藤圭子さんの育ての親として知られ、「圭子の夢は夜ひらく」など多くのヒット曲を手掛けた」とあります。

 石坂氏の葬儀は、2013年3月14日、都内の寺院で営まれている。元歌手・藤圭子の育ての親として知られており、藤のデビュー曲「新宿の女」が流れる中、約100人の参列者が最後の別れを惜しんだ。喪主を務めた妻の清子さんは「寂しがりやで甘えん坊で繊細で優しい人でした」と涙ながらに夫を偲び、「皆さま、今までお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました」とあいさつした。石坂氏が28歳のときに、藤を見出し、68年に「新宿の女」でデビューさせた。ヒット曲「圭子の夢は夜ひらく」などを手掛けたが1993年には糖尿病で左目を失明したものの、晩年も精力的に作詞活動に打ち込んでいた。石坂氏の葬儀には、誰もが藤圭子の出席を考えていましたが、ついに姿を見ることがなかったのです。

 照實氏の2013年8月26日づけのコメントには、「通夜、葬儀に関しては、故人の遺言書に書かれていた本人の強い意志に従い、執り行わないことにしました」とあり、宇多田ヒカルは、「遺書はなかったと報道されていますが、今年の始めにしたためられた遺言書はありました。他の解釈の余地の無い、母らしい、非常に率直な遺言書です。その遺言書の内容に基づき、出来る限り母の意向に沿うべく精一杯の弔いをしています」と2013年9月8日追加コメントをしています。
 このことが事実であれば、2013年の始めにに藤圭子は遺言書を作成したものと思われます。ただ遺言書の内容は不明ですが、照實氏のコメントには、「通夜、葬儀に関しては、故人の遺言書に書かれていた本人の強い意志に従い、執り行わないこと」とあり、また、宇多田ヒカルの追加コメントには「遺書はなかったと報道されていますが、今年の始めにしたためられた遺言書はありました。他の解釈の余地の無い、母らしい、非常に率直な遺言書です。その遺言書の内容に基づき、出来る限り母の意向に沿うべく精一杯の弔いをしています」とあり葬儀の方法が書かれていたと推察できます。

 しかしそもそも、遺言書を書く時のポイントとしては、1 全て直筆で書く。縦書きでも横書きでも可 2 用紙は何でもOK。A4やB5サイズが一般的 3 1行目はタイトルとして「遺言書」と書く 4 財産を分けるときの表記は「○○を相続させる」と書く 5 不動産を指定する時は、登記簿に記載されているとおりに記述する 6 預金、株式、動産などは分かりやすく特定できるように記述する例:○○銀行○○支店の普通123456の全て例:○○作の絵画「○○」 7 なるべく遺言執行者を指定する 8 作成年月日を正しく記述する 吉日などの記述は不可 正しい例:平成○○年○○月○○日 9 最後に署名、押印をする 10 訂正は法的に定められた方法で行う の10項目です。遺言で法的効果のあるのは以上の10項目だけなのですから、葬式や遺骨の処理方法なんかについて書いたからといって、それに相続人が法的に拘束されるわけではありません。毎月墓参りに来るべし、なんて書いても、来ないからといって、どうなるわけでもありません。逆に、「葬式はするな」と書かれていても、遺族の方にだっていろいろ都合というものがあるから、実際には分相応に葬式をすることになってしまうこともあるのです。祭祀承継者とは、系譜、祭具及び墳墓等の祭祀財産を承継する者をいいます(民法897条)。 なお、墓地の所有権や墓地の使用権も、祭祀財産に含まれるものと考えられています。 さらに、遺骨についても、祭祀主宰者に帰属するというのが判例です。

 藤圭子の遺言書の作成時期は、2013年の始めとなりますが、恩師石坂まさをが死去した2013年3月9日の前なのか後なのかは判然としません。ですから遺言書の作成をもって自殺との関連性は見いだせないのです。それに恩師石坂まさをの葬儀に藤圭子が出席しなかったこととの関連性も確認できないのです。
 ただ宇多田ヒカルは、「母は、身内や知人の葬儀には出席せず、自分の時間、自分のやり方でお祈りを捧げる、というポリシーの持ち主でした。葬儀や告別式といったイベントを好むような人ではなかったことを、母をよく知る者、母のためを思う方なら、ご理解してくださることと思います」とわざわざ述べています。これは間違いであり、1988年7月19日の石坂まさをの母千恵が逝去した際、その葬儀に藤圭子は参列しています(ヒカル5歳のときです)。また、猪俣公章氏追悼番組にも駆けつけ「女のブルース」や「京都から博多まで」を涙ながらに歌っています。
 ヒカルさんは、実母の竹山澄子さんの葬儀や石坂まさを氏の葬儀に藤圭子が出席しなかった理由として、「身内や知人の葬儀には出席せず、自分の時間、自分のやり方でお祈りを捧げる、というポリシーの持ち主」とか「葬儀や告別式といったイベントを好むような人ではなかった」と述べていますが、実際は藤圭子の身体的状況や衰えにより出席することが物理的に困難であったと思います。

 最後に自殺の原因を「精神の病」に結びつけていますが、宇多田ヒカル及び照實父娘が、何故そう考えたかについて考えていきたいと思います。
 照實氏は2013年8月26日づけのコメントで「精神の病」の一端をこう述べています。「精神の病」の始期を「感情の変化がより著しくなり始めたのは宇多田光が5歳くらいのこと」と述べ、「自分の母親、故竹山澄子氏、に対しても、攻撃的な発言や行動が見られるようになり、光と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象となっていきました。しかし、感情の変化が頻繁なので、数分後にはいつも、「ゴメン、また迷惑かけちゃったね。」と自分から反省する日々が長い間続」いたとその症状を説明しています。
 ヒカルもまた同日づけのコメントで「幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした」と述べ、。藤圭子が「現実と妄想の区別が曖昧」になり、「自身の感情や行動のコントロールを失っ」たと説明しています。

 また、実兄の藤三郎氏(本名阿部博)の説明によると、1988年前後で「母親がギャラを着服していたこと、母の目が実際には見えていたことを知り、歌手になったことも含めて長年母のために尽くしてきたことが裏切られたことを知って、精神的にひどい危機状態に陥っ」たとのことについて、藤三郎氏は「確かに妹は精神的に不安定な状態が続いており、私達の母親が治療を受けさせようと、千葉県内の病院に入院させたことがあります。そのころの妹は、母親の言葉に従って素直に入院治療を受け入れるような状態ではありませんでしたから、母親は実の娘である純子から恨まれるのも覚悟のうえで、半ば強引に治療を受けさせることにしたのです。(中略)純子(圭子さん)が入院したときの容態は、兄としてはとても口にできません」と言っています(2013年9月14日発行の週刊現代)と述べています。
 このことについては、実母竹山澄子さんの妹で藤圭子にとっては叔母にあたる竹山幸子さんが、その当時の藤圭子の様子をこう話しています。それによれば、藤圭子は澄子さんを「鬼」とののしり、澄子さんが自分を毒殺しようとしているという妄想まで生じていたといいます。(2013年9月12日発行の週刊文春)しかしまた、叔母にあたる竹山幸子さんは、「照實さんは純ちゃんに、「母親がおまえを毒殺しようとしている」「あいつは鬼だ」とか吹き込んで、精神的 にマインドコントロールしていたんです 」と述べていますから、確かに圭子さんが「鬼」とか「毒殺される」と言っていますが、それは照實氏に信じ込まされて「妄想」と言ったと言う方が真実に近いようです。
 ですから、藤圭子が「現実と妄想の区別が曖昧」になり、「自身の感情や行動のコントロールを失っ」たと言っているのは、宇多田ヒカルが5歳くらい(1988年頃)のとき起きた藤圭子の精神錯乱事件を根拠
しているように見受けられます。しかし、そのことと藤圭子の自殺との関係が見えてきません。

 「MUSICA」の創刊号「宇多田ヒカルインタビュー」で、インタヴュアーに答えて、「どっちかというと、ファザコンに見られるんですよ。お父さんがフィーチャーされてるし仲よさそうってことで、お父さんを慕っているみたいな。でも、お父さんはかなり客観的に好きな人間って感じで、最近やっと仲良くなれてきたみたいな感じなんです。本当にこの1年くらいで仲良くなれて。それまではお互いのプライヴェートとか全然しらなくて。まぁ不器用な親子というか、お互いに侍的なところもあるから悩みとか話し合わないし、むしろ弱いところは家族に一番見せたくないみたいな感じですよ。だから仕事の話しかしなくてーーそれは子供の頃からなんです。でも、この1年くらいはだんだん、たぶんお父さんも円く柔らかくなってきて、私もだんだん「もうちょっと触れ合いがあってもいいな」見たいに素直になってきた感じもあって」と本音を明かし、...「母のほうは、凄い歪んだマザコンみたいな感じ。憧れなんですよ、ずっと。凄い距離が遠くて絶対に触れ合えない、みたいな。凄く独特の世界を持っている人で、ある意味凄く閉じた人なんですね。「彼女がそう思ったらそう」みたいな感じの人。だから私に対しても彼女なりに確立した私の見方があるんだけど、でも私としてはあんまり彼女が私を見ている感じがしない、みたいな。彼女から見える私の輪郭と、そこから一步下がっている私っていうかな...直接関わったって気分はまったくしないんですよ……諦めてるんですかねぇ」と答えている。
 インタヴュアーはさらにヒカルを追い詰めている。「きっと昔から、いろいろなことを受け止めてきたんだろうね。だから最近のお母さんの行動(2006年3月ニューヨークのJFK国際空港で起きた米司法省麻薬取締局による「現金計約4900万円相当の差押え事件」)もそれによって莫大なショックを受けたわけでもなくーー。」と話しを向けると、ヒカルは「全然なんてことなかったですね。強がりじゃなくて、あれは大したことじゃなかったんですよ。(中略)ーー今までのことを知っている内側の人間からすると、「え、これが何?何でそんなに騒いでるの?」って感じなんですね。マスコミがそんなに騒ぐのも、わかんなかったし。その辺の感覚のズレーー私は今さらママが何しても受け入れる、「ええぇ!?」とはもうならないの」と答えています。

 藤圭子の死後2016年9月音楽活動を再開した宇多田ヒカルが22日の「SONGS」(NHK)に出演。活動休止についても語った宇多田だが、3年前に亡くなった母、藤圭子への思いも語った。
 対談した糸井重里が「お母さんの存在って?僕らから見ても大きいお母さんだったけど」と切り出すと、宇多田は「ステージで母を見てると『うわあ、すごいなあ』って思う事はずっとありました。体からエネルギーのオーラみたいなものがわーっと出る感じ」と偉大さを語り、「すごく個性的ですごく純粋ですごくすてきな美しい人」と母の姿を思い浮かべた。
 母が亡くなったことについては「デカいですね。あらゆる現象に母が見えてしまった時期があったんですよ」と、日常のすべてが母親を思い出させるほど母の死が衝撃だったことを明かしたが、「誰しも原点があって、私の原点は母だったから、私の世界、あらゆる現象に彼女が含まれてるのは当然じゃんと。私の体は親からきてるものですからまあ当然かと思えるように」なってから、やっときちんと母の死と向き合えるようになったことを明かした。
 2015年春、長男を出産した宇多田。「もし母が亡くなった後に妊娠していなかったら、今もし子どもがいなかったら、仕事を始めようって思えてない」と語り、子を持つことで親の偉大さを実感し、新しい自分の立ち位置を見つけたことを明かした。
 子供のこと、母親のこと、そして他でもない自分自身のこと。その全てを隠さず時に詩的な言葉で率直に語る宇多田には、かつての唇を尖らせたような、大人びた少女の面影は微塵もない。

 さらに、「歌手の宇多田ヒカル、2013年8月に亡くなった母で歌手の藤圭子さんが打ち立てた大記録に「遠く及ばぬわ笑」と白旗をあげた。宇多田は2016年9月28日に約8年半ぶりのオリジナルアルバム「Fantome」をリリース。NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の主題歌「花束を君に」や日本テレビ系「NEWS ZERO」テーマ曲「真夏の通り雨」、椎名林檎が参加した「二時間だけのバカンス featuring椎名林檎」など11曲が収録されており、10月31日付オリコン週間CDアルバムランキングで4週連続1位を記録した。

 宇多田は29日にツイッターで「4週連続1位になっちゃった。びっくり」とヒットを喜んだが、「しかし藤圭子の37週連続1位には遠く及ばぬわ笑」と、亡き母の大記録の前には白旗。圭子さんは1970年3月発売のファーストアルバム「新宿の女」で20週連続1位を記録。その連続1位記録を阻止したのが同年7月にリリースされた自身のセカンドアルバム「女のブルース」で、同作は17週連続1位。合計で連続37週1位という記録を打ち立てた。宇多田は「37週とか意味わからん笑」と、亡き母のはるか遠い記録の偉大さにあらためて思いを馳せた」と述べている。

 さらに最近の宇多田ヒカルの言動を見てみよう。 2021年6月27日のスポニチの報道では、宇多田ヒカルは、「母が亡くなって10年、ここ最近の方が悲しいし、寂しい。再会がかなわない人への思いをどう断ち切るか助言してほしい」というフォロワーからの質問に答えた。
 断ち切らなければいけないということはないというスタンスで「生きてる限り、お母様との関係は続くし、あなたの人生が進んでいくし、関係が変わることもあると思う」と語り、「私も母が亡くなって8年だけど、最近になって出てきた気持ちもある。当時、一気に感じちゃってたら耐えられないような強烈な体験をしてしまった時、体が一部を保留するという機能があると思うのね。だから最近になって悲しいとか寂しいとか思うのは、感じる準備ができてきたのかなと思う」と語りかけた。
 宇多田自身、母の死からどうやったら前に進めるかを模索し続けてきたという。「エヴァの最後の脚本もらって曲書き出した時に、喪失感とか悲しみを断ち切るとか置いて前に進むってことはないんだって。なぜならそれが自分の一部だから。自分の一部を切り捨てて、前に進んだところで別の喪失が生まれるだけ。別の喪失を断ち切ろうとか埋めようとかでぐるぐるまわってるだけだと思った」と考えたという。
 さらに「悲しい気持ちとかいろんな思い出とか喪失感とかはずっとあるかもしれないんだと思って。大事に抱えて、大事に生きていこうって思った瞬間に母親にもらったプレゼントを大事にしているみたいな気持ちに切り替わった。初めて自分がちょっと自由になった気がして、母親も自由にしてあげられた気がして。ちょっと前に進めた気がした」と意識が大きく変わった瞬間があったことを明かした。
 母亡き後「なかなか母親の写真が飾れなくて。飾りたいんだけど、自分がどう反応するかわかんなくて怖くて」と写真が飾れなかったという宇多田。「でも7年くらいたってやっと飾るようになったら、うちに来た友達とかが“これお母さん?ヒカルかと思ったー”って言われたり、子供も、“ばあちゃんかわいい”とか話しかけるようになって、私の中で母親との関係が変わったの。だから、わかんないもんだよ、どうなるかは」と自身の体験を振り返った。

 「(藤)圭子さんは18歳、ヒカルさんも15歳でデビューしてトップ歌手にのぼり詰めた“似たもの母子”でした。晩年の圭子さんはギャンブルのため世界を放浪するような生活を送るように。ヒカルさんは“反面教師”として見ていたなかで突然亡くなっ」(音楽関係者)ています。その中で出産を経験しヒカル自身が母親の血肉を受け継ぎ自身が母親藤圭子の一部であることに気づき、「あらゆる現象に母が見えてしまった時期があったんです。嫌だなって最初は思っていたんですけど、結局誰しも原点はあって、その原点は母だったと……」と考え母藤圭子を宇多田ヒカル自ら再評価を行い、更なる前進への糸口としています。

 以上から、宇多田ヒカルは0歳から15歳まで母藤圭子のそばで育ちながら、藤圭子の娘への「夢」に引きずられ、柔らかな母の愛情より、むしろ硬質な音楽教育の師として、また日常も洗濯、家事、育児をする普通の母親ではなく、「ママの公演をステージのそでからずっと見てる、すごい音、光、闇、集中力、熱、ママ泣いてるみたい、お客さんの方を向いている、私の方は見てない――」という宇多田ヒカルの経験が、「凄い歪んだマザコン」を生み、藤圭子の晩年の姿を1988年の強烈な母親の精神崩壊としか理解できずに「精神の病」による自殺を暗示するコメントとなったようです。
  宇多田照實氏の場合も、2009年以降の藤圭子との関係は良好であったと考えられます。藤圭子、宇多田照實氏、宇多田ヒカルとも、その気になれば電話で連絡できる関係で、ヒカルも「亡くなる直前まで、母は娘である私だけでなく、父とも連絡を取り合っていました。父は、母が最後まで頼っていた数少ない人間の一人」だったことを明かしています。
 このように家族の軋轢が解消されつつあった時期での藤圭子の「自殺」については、宇多田照實氏、宇多田ヒカルとも理解しがたい事件であったに違いありません。ですから、自殺の原因を1988年の強烈な母親の精神崩壊を発端とした「精神の病」に結びつける以外なかったと考えています。

 藤圭子の「自殺」については、むしろ家族の軋轢が解消され、娘ヒカルの結婚という「しあわせ」を確信できた時期に恩師石坂まさを氏の死去がきっかけで、「藤圭子」としての幕を自ら閉じようとしたもので、それは宇多田純子としての家族への恩返しと、歌手としての藤圭子が恩師の後を追った殉死であったと思われます。
 
 筆者が考える藤圭子の「自殺」は、「同居人」の行く末をも考えに入れたうえで、妻であり母親として、ヒカルさんと照實氏に「これ以上迷惑をかけたくないという意志」と、さらには歌手の藤圭子が「8月23日に行われる石坂まさをを偲ぶ会に出席する」旨と伝えたことに起因しており、宇多田純子=藤圭子が「私は誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい」と言う気持を優先させながらも、「石坂まさをを偲ぶ会」が迫る中で、止む無く芸名をいただいた恩師石坂まさを氏の前に「藤圭子」を献身することで「出席」に代え「義理」を果したのではないかと考えています。

 宇多田純子として家族等への愛、そして歌手の藤圭子の師弟の絆を改めて示す最後のチャンスが2013年8月22日の早朝(「石坂まさをのお別れの会」の前日)だったと思うのです。しかしながら、その行為は歌手の藤圭子自ら「秘中の秘」としていただけに「謎」とされたのでした。
 何故「秘中の秘」なのかですって?それはただの純子だと言っても、歌手藤圭子は付いてまわってくるから、純子と藤圭子の分離を図るためには、表裏一体の純子=藤圭子をこの世から抹殺するほかなかったのです。そして遺骨にしても同じでこの世から抹殺するために「散骨」を希望したんです。ですから、「遺言書」は、時期が2013年の春頃に作成していても、事実上「遺書」だったと思います。
 「藤圭子」と呼ばれた「純ちゃん」らしい「潔い死に方」だったと考えています。 いいじゃあありませんか!ヒカルのペンダントの中に「純ちゃん」は、いつもそばにずっといられるのですから...。

参考
☆藤圭子の「精神の病」の本質について
 藤圭子には解離性健忘(解離性健忘の主な特徴は、心的外傷(戦争、天災、事故、犯罪、虐待といった強い精神的衝撃)や、強いストレスとなる出来事の記憶(数時間~数日間の記憶)を思い出せなくなること)があり、パニック障害(不安障害の一種。突然に激しい不安に見舞われ、息切れやめまいなどの発作に襲われる)、社交不安障害(社会不安障害)もあることから、藤圭子の子供時代、酒乱の父親から、DVを受けていたことが遠因となり、ヒステリーや身体化障害、疼痛や不定愁訴(「原因不明ですけど、この20年間、吐きまくりの人生です。週に3回は吐いてる。今でもそう。だからどっか悪いと思うんだけど」と体調不良を告白していること」)、引退する1979年の5月頃には、舞台恐怖症(解離性とん走)、母親、故竹山澄子氏、に対しても、攻撃的な発言(被害妄想)、「デビューするとき、藤圭子っていう名前をもらったとき、生まれ変わったと思ったんだ」、「竹山純子には戻れないと思うよ」と言う自意識(人格の解離)が伴う複合的な心的外傷後ストレス障害 (C-PTSD)と考えています。 つまり、境界型だが精神的障害を持つ性格であったと思うのです。 しかしこれらが藤圭子の自殺の直接的原因ではありません。ましてや、統合失調症ではありません。

(完)

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