藤圭子さんの晩年の空白の12年間について 上

 藤圭子の自殺について、前夫である音楽プロデューサーの宇多田照実氏は2013年8月26日、娘の宇多田ヒカルの公式サイトを通じてコメントを発表しています。

 「このたび故宇多田純子、投身自殺に於きましては、各方面の関係者の皆様、歌手藤圭子の大勢のファンの皆様、そして宇多田ヒカルのファンの皆様に多大なご心配と世間をお騒がせしていることに対して、所属事務所代表として、また25年間連れ添った元夫として心からおわびを申し上げます」と謝罪。さらに「遺言書に書かれていた本人の強い意志」により葬儀を行わないことも報告した。
 さらに、「感情の変化が頻繁なので、数分後にはいつも、『ゴメン、また迷惑かけちゃったね』と自分から反省する日々が長い間続きました。とても辛そうな時が多く見られるようになった際には、病院で診察を受け、適切な治療を受けるように勧めたことも多々ありましたが、このアドバイスは逆に、僕に対する不信感を抱かせることになりました。結果、本人が拒絶し続けた治療が成されないまま、彼女の苦しみは年を追うごとに重症化したものと思われます」
 さらには「直近の12年間は、好きな旅に思い立ったら出かけるという生活を送っていました。アメリカは一回の入国で最長5年間の滞在許可がもらえるビザを取得し、ニューヨークを拠点に、ヨーロッパ各国、米国各地、オーストラリアなどを気の向くまま、頻繁に旅していました。そのような環境の中、光と僕には昼夜を問わず、予期せぬ時間に電話連絡が入り、「元気?」という普通の会話が交わされる時もあれば心当たりのない理由で罵声を浴びせられる時もあり、相変わらず心の不安定さを感じさせられてとても気がかりでした」と述べています。(平成25年8月26日の「ご報告と謝辞」<MESSAGE from Hikki - 宇多田ヒカル>より)。

 ここで「藤圭子さんの晩年の空白の12年間」とは、宇多田照実氏の言う「直近の12年間」であり、「藤さんが思い付くままに旅を繰り返していた」という期間を確認していきます。併せて「5年間連れ添った元夫」と述べていることについても考察したいと考えています。

1 藤圭子さんの晩年の空白の12年間について
(1)2006年の藤圭子のテレビインタビューについて
 宇多田照実氏の言う「直近の12年間」とはどの期間をさすのでしょうか。文面どおりなら藤圭子が亡くなった2013年8月22日を含む12年間は、2001年8月23日から2013年8月22日まででありますが、おそらくはおおよそ「12年間」と言う意味であると思われます。

 そして宇多田照実氏の言うとおりなら、「好きな旅に思い立ったら出かけるという生活を送って」いたことになります。行き先については「一回の入国で最長5年間の滞在許可がもらえるビザを取得し、ニューヨークを拠点に、ヨーロッパ各国、米国各地、オーストラリアなどを気の向くまま、頻繁に旅してい」ということで、詳細については、「2006年の藤圭子のテレビインタビュー」で語られた内容を否定していないことから、これを比定するほかはありません。

 「2006年の藤圭子のテレビインタビュー」とは、宇多田照実氏の言う「直近の12年間」の中で唯一と言ってほどの、藤圭子の動向を伺い知ることができる出来事でした。ですからこのことを最初に検討してみたいと思います。

 このテレビインタビューの原因となった事件は、「アメリカから『日本のポップスターの母親が空港で麻薬取締局に現金を差し押さえられた』という一報が入ってきたことからはじまります。この報道によると、現金を没収される際に藤圭子が大声を出すなど取り乱した様子だったということもあり、薬物についても疑惑が持たれました事件でした。

 この事件直後の藤サイドのインタビューでは、「ニューヨークの金庫に保管していたものに、ギャンブルで勝った金を加えた。違法な現金ではない ラスベガスのボランティア団体に寄付するつもりだった」と説明し、全額返還を求めています。また、麻薬への関与は一切ないと説明しています。

 この事件は、2006年3月、ケネディ国際空港からラスベガスへ向かう飛行機に搭乗する際、手荷物検査で藤のバッグに麻薬探知犬が異変を察知したものでした。

 「中から出てきたのは約42万ドル(約4900万円)もの現金。100ドル札など4000枚以上の紙幣が輪ゴムで束ねられていた。藤は『ベガスの養護施設に寄付する』など係官に説明したが、クレジット社会の米国では大量の現金は麻薬取引やテロの資金と疑われてもしかたなかった」ようです。

 この事件は日本の一般紙でも大きく報道されたこともあり、その1カ月後、報道が誤報であることを訴えるため、藤は帰国してフジテレビの情報番組に緊急出演し、久しぶりに公の場に姿を見せました。

 番組では麻薬疑惑を完全否定したうえで、カジノでは現金を持ち歩くのは普通のこと。これまでにパリ、モナコ、アムステルダム、ゴールドコースト、バハマなど世界各地の賭場を歴訪し、5年間で5億円の金を使ったことを明かしています。

 また、2006年3月29日ごろ、所属事務所の宇多田照実代表は「差し押さえは確かだが、金額など詳細は調査している。不法な薬物の取引に関係したものでは100パーセントない」とコメントしています。

 また事件後の10月初旬、日本に帰国していた藤圭子に会った知人のひとりがこう語っています。「今回の件に関して、藤さんは“JFKの職員はおかしい。私は世界各国を大量の現金を持って回っているけれども、どこの空港でもこんな目にあったことはない”といっていましたね」。そんな藤の憤りの一方で今回の事件では、押収品の中に他人名義の小切手も一緒に含まれていたことが明らかになっている。その名義人は、以前藤のアシスタントを務めていたというA氏(例のマンションの同居人と思われる)。ニューヨークの捜査関係者がいう。「彼は2005年に藤とオーストラリアに旅行に行った際、多額の現金を所持していたため、通貨法違反で現地当局に逮捕されているんです」。このように、現金をめぐるトラブルは今回の件が初めてというわけではなかったようですが、今回の事件に関して、藤圭子が強く訴えたのは家族への不信だったと言います。「藤さんは“今回の件はすべて家族のせいだ”というんです。“旦那も冷たいし、家族とも疎遠になって、ほとんど一緒にいない。寂しいし、ほかにもいろいろあって人間不信になっている。だから現金を持って、好きなギャンブルをして歩いている”と、切々と訴えるんですよ」と語っています。また、藤圭子没後の2013.9.3Asagei+によると、「藤は周囲に、こんなことを漏らしていたんです。最近交際している男性とは、関係は順調で「ラスベガスのカジノにも同行してもらっている」と。そしてその理由を聞くと、単なる交際相手という以外に、「自分1人でお金を持ってカジノに行くと、全て使い切ってしまう。だから彼に現金を持たせて使いすぎないようにしている」いる人で余程信用している方のようです。

 さらに、2006年10月22日放送の情報番組『スタ☆メン』(フジテレビ系)にインタビュー出演し、「この5年間ほとんど日本に帰らず、世界中を旅している。ファーストクラスのチケット代、(各国の高級)ホテル宿泊代などで、5年間で5億円は使った」「カジノでは現金所持が当たり前」「アメリカはカード社会や小切手社会とされているが、現金(の使用)が主流である」と主張した。また、麻薬探知犬が反応したことに関しては「麻薬とは一切関係がない」と否定しています。しかし麻薬犬による検査で、現金からは微量の規制薬物が検出されたので、米国司法省麻薬取締局は、現金が麻薬取引のためにすでに使われたか、あるいは使われる意図があったと結論付け、全額を没収したのでした。

  藤圭子はこの『スタ☆メン』(フジテレビ系)の独占インタビューに答え、今年3月に米ニューヨークの空港で現金約42万ドル(約4900万円)を差し押さえられた“事件”について初めて釈明しましたた。経過として、ラスベガスに向かう途中の手荷物検査で、麻薬探知犬が現金に反応。米当局は「麻薬などの取引に使用された可能性がある」との理由で現金を没収したが、藤は「麻薬とは一切関係がない」と完全否定し、大金を所持していた理由について「世界中を旅している。パリ、モナコ、アムステルダム、メルボルン、シドニー、コネチカット、ニュージャージー、ネバダ、カリフォルニア…。ファーストクラスの飛行機代、ホテル代などで5年間で5億円は使った」。さらに「カジノでは現金所持が当たり前」と説明しました。

 しかし、「とにかく早口で一方的に話し、目の焦点があっていない。誰が見ても「危ない」状態だったので、まともに映っているところだけを使いました」と報道されてしまったため、ギャンブルや麻薬問題もあり精神の病がクローズアップされています。しかし、藤圭子は宇多田ヒカルを出産すると遺伝性の実母の目の疾患(網膜色素変性症)を発症し、目の焦点があっていないように見えてしまったようです。録画の一部はYouTubeで見ることができます。https://www.youtube.com/watch?v=7M97RZFzCm0

 Mixiのばらちんさんの投稿によると「圭子さん55歳、インタビューの時「Close To You」を口ずさんでいます」とあります。もし、「圭子さん55歳、インタビュー」がこのときのインタビューだとすると、ある構図が見えてきます。
 その「Close To You」は、兄妹デュオ「カーペンターズ」の代表曲で、1970年のグラミー賞も受賞した人気曲であり、アメリカで「Cubic U」(日本デビュー前の初期の宇多田ヒカルの別名儀)としてシングル「Close To You」を発表した曲でもあり、その歌詞にはこんな言葉があります。

 On the day that you were born
 The angels got together
 And decided to create a dream come true
 あなたが生まれた日
 天使たちが集まって
 夢を形にしようって決めたの

 それは、 1983年1月19日、ニューヨークで長女が生まれた。娘に「光」と名付けた藤圭子は、こんな詩を書いています。「あなたが生まれたその日に 天使たちが集まって そして決めたのよ 夢を実現させようって」。まさに、偶然ではない何かを感じざるをえません。

 また、「スポニチの阿部公輔氏は、2006年に米ニューヨークのJFK国際空港で、所持していた42万ドル(当時のレートで約4,900万円)を没収された事件の直後に藤圭子から話を聞いています。「阿部は、藤圭子が宇多田家からつまはじきとなった後も、呼び出しを食らっては熱弁を聞かされています。「二言目には「娘は天才だから」ですよ。デビュー前の売り込みの時期ではなく、大ブレイクした後も変わらなかった。ただ、そばにいない娘に向かってのアドバイスを忘れない。今のままではダメって、いつも口にしていました」。阿部が舌を巻いたのは、音楽に対する膨大な知識である。もともと聡明な人だとは思っていたが、アメリカのプロデューサーや一流ミュージシャンの名前が次々と出てくる。ドラムやベースは誰々がヒカルに合っているというように」と述べています。つまり筆者が思うに、ギャンブル三昧の旅だけではなく、世界の音楽の最新情報を収集していたように見受けられるのです。

 その後、日本の最新の音楽情報を発信する音楽雑誌で2007年3月15日に創刊され、創刊号には「宇多田ヒカルインタビュー」の記事がメインに載っていて、そして宇多田ヒカルはこんな事を話しています。
 インタヴュアーはヒカルに切り込んでいく。「ダイレクトに聞きますけど、この歌が出た頃ってお母さんのことが世の中で報道されていましたよね。そういう意味でも、あのタイミングであの歌を出すのはリスクが高いと思わなかったの?」の問いに、ヒカルはこう答えている。「そういう自覚はなかんですよ、まぁ母も有名人だし、有名人じゃなくてもプライヴェートなことだからペラペラ話すこともないと思ってんだけど、「絵本で出ちゃった、あら?」みたいな感じですかねぇ」と答えて、問われてないことも続けて話している。「どっちかというと、ファザコンに見られるんですよ。お父さんがフィーチャーされてるし仲よさそうってことで、お父さんを慕っているみたいな。でも、お父さんはかなり客観的に好きな人間って感じで、最近やっと仲良くなれてきたみたいな感じなんです。本当にこの1年くらいで仲良くなれて。それまではお互いのプライヴェートとか全然しらなくて。まぁ不器用な親子というか、お互いに侍的なところもあるから悩みとか話し合わないし、むしろ弱いところは家族に一番見せたくないみたいな感じですよ。だから仕事の話しかしなくてーーそれは子供の頃からなんです。でも、この1年くらいはだんだん、たぶんお父さんも円く柔らかくなってきて、私もだんだん「もうちょっと触れ合いがあってもいいな」見たいに素直になってきた感じもあって」と本音を明かしている。
 問題の母藤圭子については、父親の関係に続いて次のように語っている。「母のほうは、凄い歪んだマザコンみたいな感じ。憧れなんですよ、ずっと。凄い距離が遠くて絶対に触れ合えない、みたいな。凄く独特の世界を持っている人で、ある意味凄く閉じた人なんですね。「彼女がそう思ったらそう」みたいな感じの人。だから私に対しても彼女なりに確立した私の見方があるんだけど、でも私としてはあんまり彼女が私を見ている感じがしない、みたいな。彼女から見える私の輪郭と、そこから一步下がっている私っていうかな...直接関わったって気分はまったくしないんですよ……諦めてるんですかねぇ」と答えている。インタヴュアーはさらにヒカルを追い詰めている。「きっと昔から、いろいろなことを受け止めてきたんだろうね。だから最近のお母さんの行動もそれによって莫大なショックを受けたわけでもなくーー。」と話しを向けると、ヒカルは「全然なんてことなかったですね。強がりじゃなくて、あれは大したことじゃなかったんですよ。(中略)ーー今までのことを知っている内側の人間からすると、「え、これが何?何でそんなに騒いでるの?」って感じなんですね。マスコミがそんなに騒ぐのも、わかんなかったし。その辺の感覚のズレーー私は今さらママが何しても受け入れる、「ええぇ!?」とはもうならないの」と答えている。

 さらに「あの2人、6回の離婚と結婚を繰り返していてワケわかんないです」。宇多田ヒカルの発言に、世間が騒然となったのは2006年のこと。さらに翌2007年には最後の離婚に踏み切った藤圭子と宇多田照實氏は25年の夫婦生活を完全に終えたと言われています。ただ藤圭子は、正しくは2人の男性としか結婚していません。最初の男性は言わずと知れた前川清氏である。あとは、同一人の宇多田照實氏とだけです。つまり、宇多田照實氏と6回の離婚と結婚を繰り返していたことになります。
 さて藤圭子に関する報道はされなくなり、藤圭子の姿は再び見失われ、2013年8月22日の「藤圭子自殺」の記事で日本国内に居たことを知るのです。

(2) 「藤圭子自殺」に関する報道と宇多田父娘のコメントについて
 「藤圭子自殺」のニュースは当日の午後には報道されている。例えば、「歌手の藤圭子さんが8月22日朝、東京都新宿区のマンション高層階から転落し、病院に搬送されたが死亡したことが分かった。MSN産経ニュースが、警視庁への取材結果として報じた。
 藤さんは1951年生まれで、歌手の宇多田ヒカルさんの母親。「圭子の夢は夜ひらく」などのヒット曲で知られる。NHKオンラインでは関係者の話として「飛び降り自殺とみられている」と報道している。
 日刊サイゾーの3月18日の記事によると、藤さんは6〜7年前から、芸能関係者の間でも消息不明になっていたという。同サイトでは、「圭子の夢は夜ひらく」の作詞をした「恩師」にあたる石坂まさをさんの葬儀に藤さんが出席しなかった理由について、以下のように書いていた。
 芸能プロ関係者は「誰も彼女と連絡が取れないから。石坂さんが亡くなったことも、彼女は知らないだろう」と推測。同氏によれば「異変が起き始めたのは6~7年前くらい。ちょうど米国のケネディ国際空港で現金42万ドル入りのバックを警察に没収された騒動を起こしたあたりかな。心配した知人が彼女に電話しても、電波の届かないところにいるか、すぐに留守電に切り替わってしまった」。本人からの折り返しもないため、自然と藤の存在は関係者の間でも忘れ去られていったという」と言うようにです。

 翌日23日には、「新宿署によると、藤さんはマンションの13階にある知人の30代男性宅に6年前から同居。この部屋のベランダから飛び降りたとみられる。手すりの高さは115センチあり、足元にはクーラーボックスがあった。踏み台にしたかは不明。手すりの外側に片方のスリッパが引っかかり、もう片方は転落した現場近くにあった。
 午前8時前、新宿署員がこの部屋を訪れたが、応答は無かった。マンションの警備員を呼び、鍵を開けたがチェーンが掛かっていた。この時、男性が玄関に現れ「昨夜一緒にいた女性がいない」と驚いた様子だったという。男性は別の部屋で就寝中で、転落に気づかなかったという。小柄で帽子を目深にかぶった藤さんと思われる女性が数回このマンションに出入りする様子が目撃されている。
 遺書は見つかっておらず、新宿署に安置されている遺体からアルコールや薬物は検出されていない。新宿署は飛び降り自殺とみて調べている」と「知人の30代男性」について言及されている。

  ある記事では、「藤さんは1969年に「新宿の女」で歌手デビューし、70年に「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒット。71年に歌手の前川清(65)と結婚するが翌72年に離婚。79年に引退表明して渡米し、その後、照實氏と再婚して83年には娘の宇多田を出産。96年には宇多田と一緒に曲を発表したが、近年は表舞台から遠ざかっていた。
 一体、藤さんに何があったのか。親しかったスポニチ本紙記者に「どうしても会いたい。相談したいことがある」と数年前、電話を入れていた。会ったのは亡くなった場所と同じ西新宿。「久しぶりに日本に帰ってきたけど、話す人がいない。寂しい。昔の知り合いに連絡を取ってみたいけど、電話番号もどこにいるのかも分からない」と、孤独感に襲われていることを吐露。手塩にかけてきた宇多田についても「このままではダメ」と厳しく言った上で「彼女は天才。私よりずっとずっと凄いんです。私がいたらもっとあの子のいいところを引き出せるのに」とアイデアを次々と語っていた。ただ、照實氏と宇多田とは10年近く疎遠になっていて、「もうずっと会っていない」と明かしていた」ともある。

 藤圭子の遺体の引き渡し、葬儀等については、日刊スポーツ(2013年8月24日)の紙面によると、「藤圭子さん寂し葬…葬儀なし家族で荼毘に」として、歌手藤圭子さん(享年62)は自らの歌のように寂しく旅立つことになるかもしれない。東京・西新宿のマンション13階からの突然の転落死から一夜明けた23日、前夫の音楽プロデューサー宇多田照実氏(65)が葬儀は行わず、家族だけで荼毘(だび)に付すことを明らかにした。
 たった1人の血縁となった長女の歌手宇多田ヒカル(30)は姿を見せていない。藤さんの遺体は東京・新宿署に安置されたまま一夜を過ごし、この日(24日)昼の午後0時15分、黒のワゴン車で同署の駐車場を出た。棺には白い布が掛けられ、車中ではジーンズに白いシャツ姿の前夫宇多田氏が3列目に座り、いたわるように右手をひつぎの上に置いていた。50分後、目黒区碑文谷の葬祭場に車が到着、建物裏口で宇多田氏が降りた後、正面入り口から藤さんの遺体を搬入した。宇多田氏は落ち着いた様子で足取りはゆっくりとしていた。取材陣には無言のままだった。
 搬入から1時間半経過した午後2時半過ぎ、葬儀社の男性が宇多田氏の伝言として次の3点を取材陣に伝えた。
 (1)故人の遺志により面会はご遠慮いただきたい。
 (2)葬儀は行わない。火葬のみとする。
 (3)出棺の日程は未定。
 葬儀社によると「ご遺体は安置されていますが、祭壇などは設けていません。ご家族だけが中に入ることになると思います」。1人娘の宇多田の面会については不明という。この日までに宇多田が藤さんの遺体と対面した形跡はない。所属レコード会社によると「活動停止の状態にあるため所在は確認できていません。今後の行動やコメントについても分かりません」という。」と書かれています。

 藤圭子の自殺から4日後の2013年8月26日、宇多田ヒカルと宇多田照實氏のコメントを宇多田ヒカルの公式サイトを通じて発表します。宇多田ヒカル氏のコメントはこうしるしています。
 
 8月22日の朝、私(ヒカルさん)の母(圭子さん)は自ら命を絶ちました。
 様々な憶測が飛び交っているようなので、少しここでお話をさせてください。彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。
 幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。
 誤解されることの多い彼女でしたが… とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。沢山の暖かいお言葉を頂き、多くの人に支えられていることを実感しています。ありがとうございました。
 25年8月26日 宇多田ヒカル
--------ご報告と謝辞
ご報告と謝辞
 この度の故宇多田純子、投身自殺に於きましては、各方面の関係者の皆様、歌手藤圭子の大勢のファンの皆様、そして宇多田ヒカルのファンの皆様に多大なご心配と世間をお騒がせしていることに対して、所属事務所代表として、また25年間連れ添った元夫として心からお詫びを申し上げます。また、宇多田ヒカル並びに僕に対して沢山の心の籠った暖かいお言葉、お悔みをいただいたことに対しては、この場を借りて感謝の意を表明させていただきます。通夜、葬儀に関しては、故人の遺言書に書かれていた本人の強い意志に従い、執り行わないことにしました。
 出会った頃から彼女には感情の不安定さが見受けられましたが、心を病んでいるというよりも、類い稀な「気まぐれ」な人としか受け止めていませんでした。僕にとっては十分に対応出来る範囲と捉えていました。この感情の変化がより著しくなり始めたのは宇多田光が5歳くらいのことです。
 自分の母親、故竹山澄子氏、に対しても、攻撃的な発言や行動が見られるようになり、光と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象となっていきました。しかし、感情の変化が頻繁なので、数分後にはいつも、「ゴメン、また迷惑かけちゃったね。」と自分から反省する日々が長い間続きました。とても辛そうな時が多く見られるようなった際には、病院で診察を受け、適切な治療を受けるよう勧めたことも多々ありましたが、このアドバイスは逆に、僕に対する不信感を抱かせることとなってしまいました。
結果、本人が拒絶し続けた治療が成されないまま、彼女の苦しみは年を追うごとに重症化したものと思われます。
 直近の12年間は、好きな旅に思い立ったら出かけるという生活を送っていました。アメリカは一回の入国で最長5年間の滞在許可がもらえるビザを取得し、ニューヨークを拠点に、ヨーロッパ各国、米国各地、オーストラリアなどを気の向くまま、頻繁に旅していました。そのような環境の中、光と僕には昼夜を問わず、予期せぬ時間に電話連絡が入り、「元気?」という普通の会話が交わされる時もあれば心当たりのない理由で罵声を浴びせられる時もあり、相変わらず心の不安定さを感じさせられてとても気がかりでした。
 最後に僕が純子と会話をしたのは今年の8月14日でした。純子からでした。この時は珍しく明るい口調で、元気そうな純子の声でした。約8分間、世間話を含め、お願いごとを何件か受け、了承し電話を切りました。その8日後の自殺となってしまいました。純子として覚悟の上での投身自殺だったのか、衝動的に飛び降りてしまったのか、今となっては知りようがありません。最終的に僕から救いの手を差し伸べられなかった悔しさ、大切な人間を失った悲しさでいっぱいです。
 これまで宇多田純子を、藤圭子を愛情を持って見守ってくださった方々全員に、本人に代わり、心から感謝いたします。ありがとうございました。純子と過ごした日々は僕の記憶にはっきりと刻まれています。
 平成25年8月26日 宇多田照實
(MESSAGE from Hikki - 宇多田ヒカル https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/)

 照實氏の「通夜、葬儀に関しては、故人の遺言書に書かれていた本人の強い意志に従い、執り行わないことにしました」と言うコメントで「遺書」がなかったが「遺言書」があったことを知るのです。しかし、「知人の30代男性」についてはコメントされていません。
 この男性の消息については、同年8月27日発売の「アサヒ芸能(9/5号)」で知ることになります。ー「芸能記者はこう話す。「その飛び降りた部屋の持ち主は、30代の男性A氏でした。A氏はマンションが完成した06年当時から藤と同居していたそうですが、警察官が(2013年8月22日の)午前10時頃に部屋を訪ねると「別々の部屋で寝ていたため、警察が来るまで転落したことに気づかなかった」と、ショックを受けていたそうです。その後、実況見分に立ち会い、警察の聴取には「内縁関係ではなく、トラブルもなかった」と答えています」。6年間も同居していながら内縁関係でもない、そしてA氏とは親子ほど年が離れている‥‥。藤はどんな暮らしをしていたのか」ーと。そして30代のA氏については、年齢差もあり、ホスト説や介護士説、あるいはヤクザ説まで飛び交ったが、圭子の死後2年近くなっても正体は判然としていなかったのでした。

 2013年8月29日 発売の「週刊文春」(9月5日号)で妹・藤圭子の死について実兄の藤三郎氏(本名阿部博氏)は、次のように語っています。「(8月の)22日の午前中に、ある方から「圭子ちゃんが飛び降りた!」という一報を聞きました。翌日、遺体が安置されている新宿署に駆けつけました。「実の兄です」と言ったら、警察は慇懃な感じで「証明書を見せろ」という。証明書を見せて、「遺体と面会したい」と言っても、のらりくらりと拒否をするのです。 そして「もし、娘の宇多田ヒカルさんが遺体を引き取れないということがあるなら、私が引き取りますと申し出たら、警察は「それは100%ありえません」と断言するのです。おかしいのは遺体の身元引き受け人が宇多田(照實)君だということなんです。圭子は宇多田君とは離婚して籍が抜けているし、他人なのです。せめて面会だけでもと思い、警察に電話番号を渡して、「宇多田君に電話をくれるように伝えてくれ」と言いました。しかし、連絡は一切ありません。彼には圭子を私に会わせるつもりがないのでしょう。宇多田君はこれまでも圭子と家族を切り離し、会わせないようにしてきました。圭子が死んでもなお、同じことを続けるのかと絶望的な気持ちになりました」と述べています。

 藤圭子の自殺から5日目の2013年8月27日の朝、宇多田ヒカルが亡き母と対面を果たした。藤圭子の遺体が安置されていた東京・目黒の碑文谷会館を訪れ、約40分間の対面を終えると、霊きゅう車の助手席に座り、都内の斎場に向かった。藤さんの遺体は宇多田や父の音楽プロデューサー照実氏(65)が参列する中、都内の斎場で荼毘(だび)に付された。午前9時すぎ、霊きゅう車は斎場に着いた宇多田は照実氏や数人の関係者と火葬に立ち会った。場内で宇多田を見かけた人によると、取り乱すことなく静かに振る舞っている姿が印象的だったという。「涙は浮かべておらず、気丈に振る舞っていた。うつむきながらも、心の中で何か区切りをつけたような表情に思えた」という。火葬が終わると、斎場スタッフの誘導で足早に駐車場に止めていた車に乗り込んだ。その間、照實氏らと会話する様子は見られなかったという。午前10時40分、スタッフらに深々と一礼して、斎場を後にしたという。(「宇多田ヒカル、母と最後の40分」2013年8月28日7時21分 日刊スポーツ紙面から)また、「週刊文春」(9月5日売り号)によると、「芸能関係者の証言として「ヒカルは母親を埋葬して、数日後、お骨を持たずにロンドンに戻ったようです。
誰が遺骨を引き取るかはわからない」との証言を掲載しています。しかし遺骨は後日「散骨」されれたことが明らかになるのです。

 藤圭子の「遺言書」については、宇多田ヒカルの最初のコメントになかったことや、離婚したはずの宇多田照實が遺体の引受人である疑問に呼応するように、宇多田ヒカルは Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikki 上で、平成25年9月8日に「一連の記事で母の本名が誤って報道されていました。阿部純子ではなく、宇多田純子です。父と離婚後も、母は旧姓の阿部ではなく宇多田姓を名乗ることを希望し、籍も父の籍においたままでした。夫婦だとか夫婦ではないなんてこと以上に深い絆で結ばれた二人でした。亡くなる直前まで、母は娘である私だけでなく、父とも連絡を取り合っていました。父は、母が最後まで頼っていた数少ない人間の一人です。それらの事実をふまえた上で新宿警察署は、母の遺体の本人確認と引き取りを父が行うべきと判断したものと思われます。当日新宿警察署に行ける状態ではなかった私に代わって、辛い思いをしながらも、父はこの役割を果たしてくれました」と述べ、さらに「遺書はなかったと報道されていますが、今年の始めにしたためられた遺言書はありました。他の解釈の余地の無い、母らしい、非常に率直な遺言書です。その遺言書の内容に基づき、出来る限り母の意向に沿うべく精一杯の弔いをしています」と追加コメントを発表します。

 この追加コメントは何を意味しているのでしょうか。一見すると、 「母の本名が誤って報道」されていて、「阿部純子ではなく、宇多田純子」だったことをコメントしているように見えますが、大事な点は、「母は旧姓の阿部ではなく宇多田姓を名乗ることを希望し、籍も父の籍においたままでした」と述べていることです。正確に申しあげると藤圭子(出生名は阿部純子)は、両親を離婚させると、母澄子は復姓し「竹山」を名乗り、藤圭子(出生名は阿部純子)も母の戸籍に入り「竹山純子」となっています。ですから、宇多田光(芸名ヒカル)の戸籍の欄には母の旧姓は竹山になっていると思います。ですから、このコメントは、ただ藤圭子(出生名は阿部純子)の戸籍は宇多田照實の妻となっていることを伝えているのです。ただし、宇多田照實氏は先のコメントで「25年間連れ添った元夫」と言っていますので、逆算すると2007年に離婚していることになっており、藤圭子(出生名は阿部純子)の実兄藤三郎氏(出生名は阿部博)が「おかしいのは遺体の身元引き受け人が宇多田(照實)君だということなんです。圭子は宇多田君とは離婚して籍が抜けている」と指摘してしているのを、「亡くなる直前まで、母は娘である私だけでなく、父とも連絡を取り合っていました。父は、母が最後まで頼っていた数少ない人間の一人です。それらの事実をふまえた上で新宿警察署は、母の遺体の本人確認と引き取りを父が行うべきと判断したものと思われます」と述べ、宇多田照實氏の発言の齟齬をヒカルの考えとして訂正しているのです。もちろん、新宿警察署は行政機関ですので情状酌量する権利もなく戸籍上夫の照實氏に「遺体の本人確認と引き取り」を委ねているのです。ただ今回のコメントは「離婚はしているが事実婚は継続している」と言う含みを持たせているのです。さらに、 藤圭子の「葬儀は行わない。火葬のみ」としたことは、宇多田照實氏の意思ではなく、母(藤圭子)の遺言書の内容に基づき」行ったのだと主張しているのです。

 藤圭子自殺後の報道内容を少し追ってみたい。
 2006年10月のインタビュー以降の圭子さんの動向ついては、ホテル業界に詳しい人物によると「6年ほど前(2007年頃)までは港区のホテル『X』の1泊数十万円もするスイートルームに住んでいました。ここには宇多田ヒカルさんも別の部屋を借りて、創作活動をしていました」とあります。
 ただ、そこで目撃された藤さんの姿は異様なものだったようで、目撃者は「キレイとは言い難いラフな格好というんですかね。スイートルームに宿泊する人とはとても思えない服装で、ロビーを徘徊していたんです」と言い、藤さんは「X」だけでなく、目黒区にある高級ホテル「Y」にも部屋をキープしていた。ここには宇多田(ヒカル)も夫の照實氏も住んでいたと言います。2013年08月24日東スポWeb
 しかし、藤圭子の動向は一般的には報道されず、いつのまにか藤圭子がまた「行方不明」になっています。芸能プロ幹部はこう話しています。「藤は睡眠薬や向精神薬を常用していたそうです。一時は母親の実家に程近い、長野の診療施設に入っていたという情報も飛び交ったことがあった」と。

 当初、藤圭子の自殺で、飛び降りたマンションの13階にある知人の30代男性宅に6年前から同居していたこと。そして、この部屋のベランダから飛び降りたとみられることから、この男性との関係が取り沙汰された。「不可解なのは62歳の藤さんと30代知人男性の関係だ。少なくとも20歳以上の差がある。関係者によると、内縁関係はないとされ、ともに別々の部屋で寝ていたという。」、「同居するマンションは2006年10月に竣工し、13階には9部屋がある。男性宅は約70平方メートルの2LDKとみられ、約6年前からの付き合いを踏まえると、竣工ほどなく同居したことになる」とあります。

 9月初旬になると同居していた男性の正体についての報道がある。「藤が最期を迎えたマンションの名義はA氏となっている。登記簿謄本によれば、71平方メートルの床面積があり、相場では7000万円前後の一室である。しかも、抵当権は設定されておらず、現金で購入した可能性が高い。前出・音楽業界関係者はこう話す。「1年ほど前に、藤さんがギャンブルを通じて知り合ったホストに入れあげているという話を耳にしたことがあります。まるで、「ヒモを養っているようだ」と。それがA氏だったのかも‥‥」。
 報道各社は、歌舞伎町周辺でA氏の勤務先であるホストクラブを割り出そうと躍起になっていた。今や、A氏の素性が判明しても、藤の「死の真相」にたどりつくことはないのだろう」(2013年9月3日Asagei+)とあります。

 9月の中頃になると同居人の真相が徐々に見えてきます。「照實さんもヒカルさんも藤さんを心配していたんですが、彼女の中でふくらんだ被害妄想はとんでもなく大きくなっていて、とても一緒にはいられなかった。それで照實さんは、もともと藤さんのマネージャーをしていた男性にお願いし、6年前から彼女の行動を見ていてもらうようにしたんです。自殺したり、間違いを起こしたりしないための監視役みたいなものでした。藤さんもいい気持ちはしなかったでしょうが、話し相手がいないよりはましと思ったのかもしれません」(芸能関係者)
 至る所に監視カメラが設置され、玄関ロビーにはコンシェルジュがいる冒頭のマンション。藤さんが暮らしていた約74平方メートルの2LDKの部屋の購入価格はおよそ6000万円ほどだった。2006年に照實氏と最後の離婚をしてから亡くなるまでの最後の6年間、藤さんはこの部屋で“監視役の男性”と過ごしていた。ほとんど外出することがなかったため、目撃談はわずかしかないが、「ハイヒールをはいたきれいな女性だった」と言う人もいれば、「年齢以上に老けこんでいて、もう面影もなかった」と両極端の証言が。それほどまでに藤さんの状況は起伏が激しかったといえよう。(女性セブン2013年9月12日号)」とある。

 これらの報道で明らかになったことは、同居人は藤圭子の元マネージャーだったことや、マンションの名義が同居人で、相場では6000〜7000万円前後の一室であること。そして、照實氏が、同居人の男性にお願いし、6年前から藤圭子の行動を見ていてもらうようにしていたことだ。

 2013年9月26日のスポニチWebによると、「歌手の藤圭子さん(享年62)の四十九日法要は、前夫で音楽プロデューサーの宇多田照實氏(当時65)の自宅で営まれる。(9月)26日未明、照實氏がツイッターで明らかにした」とあります。そのツイッターの内容を見てみましょう。
「u3music@u3music 僕が自宅で執り行います。teruzane RT @bakarizumulove 藤圭子さんの49日は行きますか?posted at 01:49:32」とあります。

 また、「10月3日@u3music u3music@u3music 宇多田純子さんの四十九日は10月10日です。teruzane RT @azisai_tarou 藤圭子さんの四十九日は10月10日ですか?posted at 20:57:54」、「u3music@u3music 10月10日も終わりに近づいています。四十九日の供養、上手く出来たか自信はありませんが、僕の知識の範囲内で出来る限りやったつもりです。みんなからも沢山のお悔みの言葉を受け取り、感無量です。ありがとう。teruzane https://pic.twitter.com/P1zwnm5EZE」とあります。

 しかし、「遺言書の内容に基づき、出来る限り母の意向に沿うべく精一杯の弔いをしています」と言いますので、多くのひとは、遺骨は埋葬されると思っていました。しかし、圭子さんの「散骨」されていたことが突然わかります。
 遺骨の取り扱いについては、「藤圭子さん遺骨すでに散骨 宇多田ヒカルからの手紙で判明…」と2013年10月3日発売の「週刊文春」が報じていいます。同誌によると、「圭子さんの実兄で元歌手、藤三郎氏の元に先月(2013年9月)18日、圭子さんの長女で歌手、宇多田ヒカルから手紙が届いた。その中に「母の意志に沿い通夜葬儀納骨は行わず」、「なお且つ母の強い指示で遺骨は散骨させて頂きました」とあったといいます。

 そうすると、葬儀も行っていないので当然位牌も考えずらく、しかも遺骨もない中で、四十九日の法要が営まれたことになります。また、ヒカルさんは「母の強い指示で遺骨は散骨させて頂きました」としていますが、故人が指示できるのでしょうか。なにより、どう四十九日の法要が営まれたかも不思議です。

 10月に入ると、藤圭子の実兄の藤三郎(本名阿部博)氏が、3日放送のフジテレビ系「ノンストップ」にVTR出演し、圭子さんの一人娘、歌手宇多田ヒカル名で「母の遺骨は散骨しました」などと記した手紙が届いたことを明かします。一方で三郎氏は「この手紙を本当に(宇多田が)書いたがどうか分からない」とし、「少しでも分骨してもらい、母に報告したい」とコメントしている」(「「母の遺骨は散骨」宇多田ヒカルから手紙」2013年10月3日10時9分 日刊スポーツから) 。

 そして、宇多田ヒカル氏はツイッターで伯父藤三郎氏への批判がはじまります。
 最近の事務所サイトの書き込み( 平成25年9月5日のヒカル氏のコメント )について、私ではなく父が私の分も書いている、父が故人の遺志さえ無視し全てを仕切っている、などという言いがかりをつけている方もいらっしゃるようですが、なんの根拠もない主張にあきれてしまいます。午後10:19 · 2013年10月11日

 身内の者が世間をお騒がせしております。お恥ずかしい限りです。度々小遣い稼ぎに利用され傷ついた母が長年絶縁していた相手とはいえ、身内を悪くは言いたくないのでこれまで静観していました。彼が本当に母のためを思うならば公の場で醜態をさらさずに私に直接訴えればよいことです。
午後10:26 · 2013年10月11日

 テレビや雑誌に出る度にギャラをもらっている人の発言・動機を鵜呑みにするような人達にどう思われようが構いませんが、汚い嘘に傷つき追いつめられる父を見て黙っていてはいけないと思いました。49日も過ぎました。母が安らかに眠れるように、この騒ぎが一刻も早く終息を迎えることを切に願います。
午後10:28 · 2013年10月11日

 (訂正)伯父に関して私が言及するのはこれが最初で最後です。午後11:11 · 2013年10月11日

 概ね、「藤圭子自殺」に関する報道と宇多田父娘のコメントについては以上のとおりです。

(3) その他、藤圭子晩年の空白の12年間の行動が明らかになったことについて
 藤圭子さんの元所属事務所「ユースリー・ミュージック」は2009年1月28日、藤さんが2006年、米ニューヨークのケネディ国際空港で米国側に差し押さえられた現金約42万ドル(約3800万円)について、米国側が藤さんに全額返還することで両者が合意したと発表しました。また、日刊サイゾーの2010年8月16日号によると、2009年には、ケネディ国際空港で没収された現金42万ドルが圭子さんに、全額返還が決定されています(計約4900万円)。

 藤圭子の動向については、2013年9月14日号の週刊現代にも兄の藤三郎氏の話があります。「実は、母親が亡くなる数ヶ月前には、純子も母親を訪ねて来ています。「お母ちゃん、これまでゴメンね」と詫びたそうです。和解の印なのか、3,000万円の現金を携え、それを母親に渡しました。しかし、母親は純子の言葉が信じきれなかったと言っていました。その予感どおり、純子は翌日、再びやってきて、「やっぱり、返して」と、現金を持って帰りました」とあります。また、「竹山澄子さんの妹で藤圭子の叔母に当たる竹山幸子さんの話を引用」として、「姉は2010年11月に亡くなりました。同じ年の2月、純ちゃんが「お母さん、今までごめんなさい」と言って突然訪ねてきた。1週間ほど姉の高島平のアパートに泊まっていたそうです。「親不孝してごめんなさい。お母さんと一緒に住みたい」純ちゃんはそう言ってきたそうです。実際に純ちゃんが三田にマンションを購入して、母娘で生活する計画を立てていた。姉は当時すでに体調が悪くなっていて「住み慣れた場所から離れたくないけど、純子とも暮らしたい」と悩んでいました。私はずっと音信不通だった純ちゃんがそう言うのよ。住んだらいいじゃない」と言いました。姉はこのときに純ちゃんから西新宿のマンションに住んでいるとは聞いていた。自殺の時、同居していた男性についても、「宇多田さんから(純ちゃんの)マンションに一緒に住むように指示されていた人」だと言っていたそうです。純ちゃんの体調はあまり良くなかった。アパートで血を吐いたりしていました。鮮血を吐いたんです。あの子は1日にコンビニのおにぎり1個しか食べなくて、体も細かったから本当に体調が心配でした。私は「純ちゃん、まず体を治さないとだめよ」って声をかけました。医者に行きたがらないから。でも、姉が診てもらっている北里研究病院なら行くと言ってくれて。病院も近いという理由で三田にマンションを買うことになったのです。ところが1週間、姉と暮らしたけれど、「もういい」と気が変わってしまって帰ってしまった。当時も精神的に不安定なところがあったようで、それっきり連絡が途絶えてしまった」とあります。ここから藤圭子が自殺した西新宿のマンションの同居人は、「宇多田(照實)さんから(純ちゃんの)マンションに一緒に住むように指示されていた人」だったことがわかります。

 藤圭子がヒカルの恋人(福田天人氏)の家に行ったと言う報道については、「週刊文春」(文芸春秋)によると、宇多田は現在、英・ロンドンで09年に交際が報じられた8歳年上の画家・福田天人氏と同棲中。藤(圭子さん)さんは生前、1回だけ福田さんに会い、「娘を、よろしくお願いします」と福田氏に告げたという。「二人が同棲を始めてからのことです。ある夜、突然、藤さんがいらっしゃったんだそうです」と語るのは福田氏の祖母である。恋人の母親の急な来訪。…困惑をよそに、こう藤(圭子さん)は告げたそうだ。「娘を、よろしくお願いします」とこれだけ言うと、藤は帰っていったと言うものでした。
 この記事は外見的には英・ロンドンに藤圭子が訪ねていき、福田天人氏に会い「娘(ヒカルさん)を、よろしくお願いします」と告げていたと読めます。確かに藤圭子は外国に行くのは慣れていたかも知れませんが「身を隠している藤圭子」がわざわざ宇多田ヒカルの恋人の家に行くのは不自然です。この記事は「週刊文春」以外でも報道されていますが一様に「二人が同棲を始めてからのことです。ある夜、突然、藤さんがいらっしゃったんだそうです」と語るのは福田氏の祖母である。恋人の母親の急な来訪。…困惑をよそに、こう藤(圭子さん)は告げたそうだ。「娘を、よろしくお願いします」とこれだけ言うと、藤は帰っていった」と同じ内容を伝えています。ここから読み取れるのは「二人が同棲を始めてからのこと」と言う時期と、「藤(圭子さん)は告げたそうだ。「娘を、よろしくお願いします」」という事実と「ある夜、突然、藤さんがいらっしゃったんだそうです」という福田氏の祖母の伝聞で構成されていることです。これを普通の文章にすると「(二人が同棲を始めたとされる)2010年のある夜、突然、藤圭子が
訪れ(どこか不明)「娘を、よろしくお願いします」と告げたと、宇多田ヒカルの恋人である福田天人氏の祖母が話した」という取材記事だと考えられます。だから「ロンドン」は場所を言っているのではなく時期を意味していて、また藤圭子が訪れた場所については明らかにされていないのです。ただ、「娘を、よろしくお願いします」と告げたと、宇多田ヒカルの恋人である福田天人氏の祖母が話した」と言うことですから、藤圭子が出向いた先は、「ロンドン」でもなく「福田天人氏の祖母のところ」でもないはずですから、消去法で長野県の安曇野の福田天人氏の身内(特に両親のどちらか)に違いないと考えています。

 また、スポニチの阿部公輔記者が最後に藤圭子と会ったのは3年前(2010年)で、ちょうどヒカルと音信不通になっていた時期だ。圭子は阿部にポツンと告げている。「私は誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい‥‥」と( 2013年10月4日「藤圭子と「昭和歌謡」の怨念(12)ヒカルの母に対する“ボーカリストとしての尊敬”」より)。「私は誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい‥‥」たいと言うのは、藤圭子にとっても「自殺」してしまえば照實氏やヒカルに大変な迷惑をかけることになり、特にヒカルへのダメージははかりしれないことから、「私は誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい‥‥」の本意は自然死だったに違いないと考えています。

 そして自殺する前の状況については、2010年の実母竹山澄子宅と福田天人氏への訪問後の消息はあまりはっきりとしていません。藤圭子の自死関連の他の報道しては、「マンションの住人によれば、「足元のおぼつかない藤さん(実際は自殺するまで藤とは気づかなかった)を男性が手を引いてエレベータに乗せていた。かなり足腰が弱っている印象だった」と話す。その住民によれば、親子のように見えたという。
 さらに、「藤圭子さんとは知りませんでしたが、13階に住んでいる女性は普通の主婦っぽくなくて目立ちました。目が少しうつろで、ボ~ッとしているようにも見えました。よく若い男性が手首を引いて「こっち! こっち!」とやっていたので“息子さんかな”と思いました」と話し、また別の50代女性は「マンションの玄関前で、若い男性が「阿部さん、阿部さん」と呼んでいるのを見たことがある」と言います。さらに、また亡くなる10日ほど前には藤さんの姿がマンション内で目撃されと言う情報もありました。
 これらの状況を踏まえると、藤圭子は、目の病気が進み視力が相当落ちていたことや、かなり足腰が弱っていることが覗えます。

 さて同居していた男性についてですが、これまでの記事を関連づけるとひとつの構図が見えてきます。
 JFK国際空港で現金約42万ドル押収騒動の押収品の中に他人名義の小切手も含まれていて、「その小切手の名義人が(後にマンションで同居生活を送る)A氏だとささやかれているんです。A氏は彼女にとって家族同然の大事な相手であることは間違いないです」、「05年に藤さんとM氏がオーストラリア旅行に行ったそうで、その時、A氏が多額の現金を所持していたため、通貨法違反で現地当局に逮捕されていたというんですよ」(2013.08.22 17:38  NEWSポストセブン「転落死した藤圭子さん「家族から孤立していた」との証言も」より要約)、また2013.9.3Asagei+では、「藤は周囲に、こんなことを漏らしていたんです。最近交際している男性とは、関係は順調で「ラスベガスのカジノにも同行してもらっている」と。そしてその理由を聞くと、単なる交際相手という以外に、「自分1人でお金を持ってカジノに行くと、全て使い切ってしまう。だから彼に現金を持たせて使いすぎないようにしている」と言っていたそうです。時期から考えると、その交際男性は、今回のA氏と同一人物に思えますから、藤の持つ多額の現金を常に自由にできる立場にあったのかもしれません」と。そして、「藤が、最後に頼ったのが、死を選んだマンションで一緒に生活していた30代の男性だったのです。※当時の記事ではM氏となっているものあり、元演歌歌手・松村和子(ヒット曲 「帰って来いよ」)の息子と見られていましたが後に間違いとわかります。A氏は、圭子さんの元アシスタントで、圭子さんが最期を迎えたマンションの名義はA氏となっていて、登記簿謄本によれば、71平方メートルの床面積があり、相場では7000万円前後の一室であるいわれています。しかも、抵当権は設定されておらず、現金で購入した可能性が高いとも。

 「照實さんもヒカルさんも藤さんを心配していたんですが、彼女の中でふくらんだ被害妄想はとんでもなく大きくなっていて、とても一緒にはいられなかった。それで照實さんは、もともと藤さんのマネージャーをしていたこの男性(A氏)にお願いし、6年前(2006年)から彼女の行動を見ていてもらうようにしたんです。自殺したり、間違いを起こしたりしないための監視役みたいなものでした。藤さんもいい気持ちはしなかったでしょうが、話し相手がいないよりはましと思ったのかもしれません」(芸能関係者)ともあります。 ですから、同居していた男性については、宇多田照實氏も知っていて、もしかすると宇多田ヒカルさえ知っていた可能性は大きいにです。しかし、これまでの宇多田父娘は、藤圭子の「精神の病」は公表しても、藤圭子が自殺したマンションの同居男性にはひとことも触れていません。何故か?

(4) 藤圭子の自殺について
 一般的に藤圭子の自殺については、次のようなまとめ方が多いように感じます。いわく、「女の情念を歌い上げ最期は空に身を投げた宇多田ヒカルの母親としても、名演歌歌手としても有名だだった藤圭子だが、晩年は虚言癖、妄想癖、パニック症候群などを患って家族にも見放され、ついに西新宿のマンションから飛び降り自殺した。宇多田は後に、母は「現実と妄想の区別が曖昧になり、感情や行動のコントロールを失っていた」とコメントした」というように。
 まずは、宇多田ヒカルの 「現実と妄想の区別が曖昧になり、感情や行動のコントロールを失っていた」と言う根拠を具体的に考えていきます。

 照實氏は、藤圭子の精神の病の経過をこのように述べています。「出会った頃から彼女には感情の不安定さが見受けられましたが、心を病んでいるというよりも、類い稀な「気まぐれ」な人としか受け止めていませんでした。僕にとっては十分に対応出来る範囲と捉えていました。この感情の変化がより著しくなり始めたのは宇多田光が5歳くらいのことです。自分の母親、故竹山澄子氏、に対しても、攻撃的な発言や行動が見られるようになり、光と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象となっていきました。しかし、感情の変化が頻繁なので、数分後にはいつも、「ゴメン、また迷惑かけちゃったね。」と自分から反省する日々が長い間続きました。とても辛そうな時が多く見られるようなった際には、病院で診察を受け、適切な治療を受けるよう勧めたことも多々ありましたが、このアドバイスは逆に、僕に対する不信感を抱かせることとなってしまいました。結果、本人が拒絶し続けた治療が成されないまま、彼女の苦しみは年を追うごとに重症化したものと思われます」。

 これに対してヒカル氏は、「幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした」と述べています。

 照實氏は「心を病んでいるというよりも、類い稀な「気まぐれ」な人としか受け止めていませんでした。僕にとっては十分に対応出来る範囲と捉えていました。この感情の変化がより著しくなり始めたのは宇多田光が5歳くらい」と述べ、ヒカル氏は「幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました」と述べていますので、藤圭子の「精神の病」の始期は宇多田ヒカルが5歳の頃となります。

 つまり1988年頃のことになります。照實氏はさらに続けます。「自分の母親、故竹山澄子氏、に対しても、攻撃的な発言や行動が見られるようになり、光と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象となっていきました。しかし、感情の変化が頻繁なので、数分後にはいつも、「ゴメン、また迷惑かけちゃったね。」と自分から反省する日々が長い間続きました。とても辛そうな時が多く見られるようなった際には、病院で診察を受け、適切な治療を受けるよう勧めたことも多々ありましたが、このアドバイスは逆に、僕に対する不信感を抱かせることとなってしまいました。結果、本人が拒絶し続けた治療が成されないまま、彼女の苦しみは年を追うごとに重症化したものと思われます」と述べています。

 一方で、音楽プロデューサ―の故・酒井政利さんは、藤圭子が宇多田ヒカルのことを「この子、天才なの」と得意げに紹介したのは1980年代後半でヒカルが5歳前後の時だったと述べています。

 この頃と言えば、そんな宇多田が「昔住んでた家の荷物を整理してたらとんでもないものを発見してしまった」とSNS(インスタ、ツイッター)を更新。https://www.instagram.com/p/BtHdYYuFK-v/
 5歳のときい描いたもののようだが、「わたしは、大きく、なたら、かしゅになりたいです。 宇多田光」…と、絵日記形式で将来の夢が描かれている。

 しかし、ヒカルは言います。「5才くらいまでは、ゲームに負けたりピアノがうまく弾けなかったりした時、根っからの負けず嫌いなために悔しくて悔しくてその度に泣いた記憶がある。それがだんだん、悔しい時も悲しい時も、泣かない子になった。母の前で泣くと、ひどく怒られたから。悲しくて泣いてるのは私なのに、なぜか彼女の方が傷ついて、泣いて、私を責めた。すると私は泣く気が失せた。泣くよりももっと深い悲しみを知った。彼女に悪気は無いんだ、って分かってしまう自分が、体の芯からひんやりしていくようで、こわかった。それは子供にはとても辛い、母親からの拒絶、というものだった。でも彼女にはそんなつもりはない。彼女は本当に純粋で美しい人だ。私をとても愛してる。私が勝手に拒絶された気になってるだけかもしれない」と(宇多田ヒカルー点ーより)。

 一体何があったか藤圭子が宇多田照實氏に出会った頃からの藤圭子の心の動きを見ていきます。冗長になりますが、お付き合いください。藤圭子の本当の姿が見えてくると思います。

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