藤圭子さんの晩年の空白の12年間について 中

2 「流星ひとつ」後の藤圭子について
 「流星ひとつ」(りゅうせいひとつ)は、1979年秋、当時28歳の引退を決意をした美しき歌姫・藤圭子に、ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが当時31歳がインタヴューを試みたものです。場所は東京、ホテルニューオータニの「バー・マルゴー」。ウォッカトニックを飲みながらのインタヴューです。
 この作品は長らく封印されていましたが、宇多田ヒカルと宇多田照實氏の「精神を病んだ果ての自殺」というコメントに対抗すかのように、2013年10月に新潮社から出版されました。
 沢木耕太郎氏は、2013年の出版に際して書き起こした後記に、その当時これを出版していたら、藤圭子が将来芸能界に復帰するときの妨げになると思い、藤圭子本人から出版の許可を得ていたにもかかわらず、出版を断念したと書いている。
 そして、今回の出版理由を、「彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、もしかしたら『流星ひとつ』しかのこされていないのかもしれない。「流星ひとつ」は、藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、一枚のスナップ写真になっているように思える」としました。

 少し「流星ひとつ」を引用してみよう。
 「よく、週刊誌にあなた(藤圭子)の年収を五千万とか六千万とかしているけど、あれはだいたい当たっているの?」「うん、そのくらいかな」「ほんと!凄いですね」「いくらあたしだって、そのくらいの年収はありますよ」…「しかし、それが全然なくなるわけでしょ、引退すれば。…ああそうか、全然じゃないか。レコードの印税がるかな」「そんなの、引退したら、もうないよ。売れなくなるもん、れこーどなんか」「それでは、ますます大変なことになるんだろうけど、その五千万、六千万が入らなくなって、どうやって生活していくつもりなんですか。やっていけるの?」「一年か二年は、仕事しないでも食べていけるだけの貯えはあるけど、もちろん、一生、働かないですむわけじゃない」「だったら、どうするの?また歌うわけ」「まさか!でも、そのうちに、何かの仕事につこうとは思っているんだ。お母さんだっていることだし、困らせるわけにはいかないじゃない」。(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「一杯目の火酒」より)

 「近所の女の子が、よく抱かせてって、来たんだって。一度なんか、妹に頂戴という子がいて、お母さんが冗談にいいわよ言ったもんだから、翌日、お小遣いで綺麗な服なんか買ってきて、本気にもらいにきて、その子を納得させるのにとても困ったことがあるんだって」、「お人形さんを可愛がるように、可愛がっていたんだろうな」、「でも、そういうのって、話しに聞くだけで、ちっとも覚えていないんだけどね」、「あなたが生まれたのは、本当は北海道の旭川じゃないんだって?岩手県の一関…旅興業の途中だとか」、「そうらしいんだ。でも、その頃のことはよく知らない。ほとんど知らないんだ、子供のの頃のことって。記憶にないし、たまにお母さんに聞かされるくらいだから」、「お母さんは曲師だったの?」、「そうじゃなくて、お母さんも浪曲師なの。お父さんも、お母さんも」、「しょっちゅう、旅に出ていたわけだ、二人して」、「うん」、「子供の頃は、一緒だったんでしょう?」、「でも、その頃のことって覚えていないんだ、全然。小学校へ上がる前だったし。ただね、話しによると、巡業で汽車を乗り継ぐでしょ、そうすると駅の名前を読んだらしいの。なんだか、そうやって字を覚えたんだって。だから、あたし、学校に上がる前から字が読めたらしんだ」…。「それじゃ、小学校に上がった前後のことは覚えている?」、「全然」、「えーと、一年のときの担任の先生は?」、「覚えていない。二年のときも、三年のときも」、「ほんとに?」、「校舎も、友達も、何も覚えていない」、「欠陥商品ですねえ、あなたの記憶装置は。どういうのかなあ…その時代のころは、まっしろけの感じなの?」、「まっくらけの感じ」、「だとすると、いつ頃の記憶からあるようになるのかな」、「小学校五年から。カムイへ引っ越してから」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「二杯目の火酒」より)

 また圭子さんは、コンプレックスがあったと言う。「自分はコンプレックスのかたまりだって、小さいときから思いつづけていた。何なんだろう、これって」…「あれで、ずいぶんオドオドしてたんだよ」…「いまでも、コンプレックス、たくさんある。あまり強く意識することは少なくなったけど、ああ、自分が、いま、こう反応しているのは、コンプレックスのせいだ、なんて感じることはあるんだ」…、「性格もあるのかな」、「そうだね、同じように育っても、お姉ちゃんは、そういうのってないからね」…、「芸人って、昔はさ、こう、なんて言うのか…人の世話になって生きていくみたいな…そういうのが…どうしてもあったんだよね。」...「やっぱり恥ずかしかったんだろうね。…人に世話になって生きているっていうのが。きっと、そういうこともあるのかもしれない」…「そうなんだよね。芸人って、やっぱり、恥ずかしいんだよね」…「そうか…あたしには…それが、いつも、いつも、頭の片隅にあったのかもしれない。そうか…そうなのか…」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「六杯目の火酒」より)

 さらに子供時代、酒乱の父親から、DVを受けていたと言う。「恐いもの。確かにあったよ、小さい頃。いまだって、恐いけど、別々に住んでいるから忘れることができるというだけのこと。恐かったんだ、とても恐かった。あたしは、お父さんが、ほんとうに恐かった」…「理由はないんだよ。殴ったり蹴とばしたりするのは、向こうの気分しだいなんだ。気分が悪いと、有無を言わさず殴るわけ。こっちは小さいじゃない、何もできないで殴られているの」…「きっと、お父さんがいなかったら、あたし、こんなに頑張らなかったと思う」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「六杯目の火酒」より)

 「あなた個人としては、どのくらいのお金を使っているの?」...「そうだなあ…あればあるだけ使っちゃうから…お母さんから必要なときだけ受け取るようにしているけど…百万くらい使っていた、一ヶ月に」とある。また、引退する頃になると「少なくなった」といい、「前の三分の一か四分の一くらい…」といっているが、それにしても月25〜30万円である。また、「あたしはね、財布に一万円あれば一万円使うし、百円しかなければ百円でいいの」ともいっているのです。
 歌手時代の圭子さんは、野球選手故小林繁との恋と失恋をめぐりヒステリー発作を起こしたという。「……そうなんだ。あたし、ヒステリーを起こしたんだよね」、「誰に?」、「お母さんに」、「いつ?」、「(1979年)四月頃」、「どこで?」、「クラブで、クラブの楽屋で」、「あなたみたいな人でも、人並みにヒステリーを起こすんですか?」、「起こすんですよ、これが。すごいヒステリーを起こしちゃった」…「ここ十年で最大のヒステリー」…「お母さん……びっくりしたんだって。血の気が引くような思いをしたんだって。そのヒステリーの起こし方がとてもお父さんに似ていたらしいの。そっくりだったんだって。ああ、この子にもやっぱり、あのお父さんの血が流れているんだろうか……」…、「それが直接の原因だとしても、もっとほかに、いろいろあったわけだね、心が痛む、何かが」、「うん」、「どうして?」、「えっ?」、「どうして心が痛むようなことがあったの、その、野球をやってる人との恋愛で」…、「…..裏切られたんだ」、「男の人を尊敬したいって思ったんだ。女がどれだけ頑張っても、やっぱり女なんだよね。できることなら、女は、やっぱり男に支えられて、そうやって生きていくことが幸せ何じゃないか、と思ったの。尊敬できる男の人と、一緒に生きていきたいと思ったんだ…でも…駄目だった」…「うん…結構、真面目に考えていたんだよ…結婚を」…、「別れたあとだね?クラブの楽屋でヒステリーを起こしたっていうのは」、「うん…」…「惚れるのは、いつも変なのばかり、か」、「そう」…、「くだらない、駄目な男ほど、女の人にとっては魅力があるものなんだろうし…」、「そうなんだろうね、たぶん」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「七杯目の火酒」より)

 同時期の引退する1979年の5月頃には、舞台恐怖症みたいになっていたとも言っている。「あなたは、初期の頃の自分は無心でよかった、とよく言うよね。…」、「…それはそれなりに、ぜんぜん幸せだったんじゃないかな」、「それで、いまは?」、「しんどいね。こんなに考え込むようになっちゃうと」、「…それが人間として普通だとは思わない?」、「思わない。こんなに神経質になって、いろいろ細かいことを気にするのは、やっぱりよくないよ」…、「いま、どんなことを考えているの、そんなに苦しむほど」、「…歌っても歌っても満足できないんだ。…ああでもない、こうでもないって考えちゃうんだ。どうしても満足できないから。…」、「考えることといえば、仕事のことが多いの?」、「ほとんど、みんな」…、「私生活の悩みなら、まだ幾分救われかみしれないけどね」、「そう、私生活ならしれてるんだけど。…」…、「さっき、ノイローゼみたいになったとか言ってたよね?あれは、仕事のことで?それとも、やっぱり、彼とのトラブルが原因で?」、「どうなんだろう。みんなは、あの人のとのことが原因だとみてただろうけど…それもこれも、みんな、ワァーッと一時に押し寄せてきちゃったんだよね。すべてが虚しくなって、もう、どうでもいいっていうような気持ちになって…ぼんやり、死のうかな、なんて思うようになりはじめて…どうやって死ぬのがいちばんいいのかとか、夜になると考えるようになったんだ」、「しっかりしてくれないと、そんなつまらない男のために…」、「だから、それだけじゃないんだって、歌っても歌っても絶望なわけじゃない。歌うのがつらすぎるようになっちゃったんだ。それがいちばんひどくなってしまったのが、デビュー十周年の舞台(1979.5- デビュー10周年記念公演(日劇)(5月9日~13日))」…、「大事な舞台だったわけだよね」、「そうなんだけど、舞台恐怖症みたいになって上がれなくなっちゃったんだ」、「そんな感じ、初めてのこと?」、「二年前に一度、それと似たようなことがあった。歌を忘れそうになるの」、「歌って、歌詞を?」、「歌詞だけじゃなくて、メロディーも忘れそうになるの。…そう言うことが、四度か五度、続いたんだよね。自分で自分が怖くなった。もう恐怖なんだよね、また忘れるんじゃないかって。そう思うと、舞台で体がすくんじゃうんだ。ほんと、そうなると、どうしていいか、わかんなかった」…、「どうやって突破したの、その、かなり深刻な落ち込みを」、「うん、まず、馬鹿らしい、と思ったんだよ。…だってそうじゃない。男の人はつまらない人ってわかったわけじゃない。それは、あたしに男の人を見る眼がなかった、というだけのことでしょ。歌を歌うのが辛い、絶望だ。だったら、やめればいいわけじゃない。簡単なことではないですか。そう思ったの…」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「最後の火酒」より)

 さらに藤圭子の心の風景を見ていくと、「いまね、歌っていて、いちばんつらい歌は<聞いてください私の人生>っていう歌なんだ…」、「どうして?」、「その中の歌詞が、どうしても、歌うたび胸につかえるんだ。…終わりの方にさ、声がかれても、つぶれても、って歌詞があるでしょ」、「ああ、そうか、そうだ」、「曲が好きだから歌うけど、つらいんだ。本当は、これは自分の心とは関係ないんだ。これは曲なんだからって、割り切ればいいんだろうけど、駄目なんだ…」…「いい加減な決心じゃないつもりだよ、あたし」、「それはわかってる。だからこそ、さ」、「いや、ここまで突きつめて、自分が決心したことだもん、戻れといっても戻れないよ、無理だよ」…、「…いま、あなたが傷と思っている肉体的欠陥が…つまり喉が、何年かすると価値の基準が変わって、欠陥とは思わなくなるかもしれないじゃないか」、「うん、あたしもね、そんなふうに考えることがないわけじゃないんだけど…でも、声が出なくなったとき、切っちゃたんだよね。…切れば早く楽になると思って…切っちゃたんだから、傷があるんだよね、絶対。歌っていると、その傷の痕がはっきりわかるんだよ。…歌うってことは、その傷口をさわることなんだよ」、「切ったことが、口惜しいわけだ」、「うん、でも、歌を歌うには確かに口惜しいことだけど、切ってよかった、だから歌をやめてよかったという人生がこれから送れるかもしれないし……わからないよ」、「それに歌いつづければいい、永く芸能界にいつづければいい、なんていうことはないと思うんだ。永く歌っていたからといって、紫綬褒章だかなんだか知らないけど、国から勲章もらって……馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。その歌手はただ生活のために歌を歌っていたに過ぎないのに。それだったら、どうしてお豆腐屋さんのおじいさんにあげないんだろう。だめな歌は、もう歌じゃない。だめな歌を歌う歌手は、歌手じゃないはずなんだ」、「心があると、大変だね」、「心が?」、「こういう仕事していると、ね」、「人間的なものは、必要ないのかね?」、「歌手として必要なだけの人間味はなくちゃいけないんだけど、ね」、「そうか…」、「業務用には心の取りはずしができなければ、やっていけないんだろうね。」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「最後の火酒」より)

 「たとえば、あたしは歌手をやめるけど、やめても藤圭子をやめるわけじゃないんだ…」「どういうこと?」「あたしはね、阿部純子と藤圭子ということで言えば、デビューするとき、藤圭子っていう名前をもらったとき、生まれ変わったと思ったんだ」…「あなたは、これから藤圭子であることをやめて、お母さんの姓の竹山純子に戻ることに、一般的にはなるわけだけど、やはり依然として藤圭子でありつづけるという感じが、残っているわけだ」「うん。もう、竹山純子<藤圭子と呼ばれた女性は、両親の離婚で母の戸籍に入り、母の姓である竹山純子となっていた>には戻れないと思うよ」「歌を歌う、歌わない、にかかわらず?」「だって、いったん藤圭子に生まれ変わっちゃたんだから、戻ることはできないんだよ。…藤圭子をやめたいんじゃない、歌をやめたいだけなんだよ。藤圭子であるかぎり、何をしようと変わらないはずだよ」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「最後の火酒」より)

 沢木は「後記」にこう書いてある。「インタヴュー」と名付けた藤圭子について原稿を書き上げることに熱中した」…「…ようやく、(1980年の)五月に入って、五百枚近い分量のものが書き上がった」…「私は、手書きの原稿を製本所に頼んで一冊のほ本の形にしてもらうと、「インタヴュー」ではなく「流星ひとつ」とタイトルを変え、それをアメリカに渡った藤圭子に送ることにした。…出版させてもらおうと思いましたが、出来上ったのはこの一冊でした。申し訳ないが、この時点での出版は断念しようと思います…。すると、藤圭子から、自分は出版していいと思うが、沢木さんの判断に任せるという返事が届いた」とある。

 次にこのインタヴュー後の藤圭子を追ってみよう。
 幼い頃から浪曲歌手の父・阿部壮(つよし)、三味線瞽女(後に曲師兼浪曲師と訂正されている)の母・竹山澄子(2010年に死去。享年80)の門付に同行。旅回りの生活を送り、自らも歌った。勉強好きで成績優秀だったが、貧しい生活を支えるために、高校進学を断念。15歳の時に岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会のステージで歌う姿が作曲家・八洲秀章の目に留まり、上京。約1年間、初代林家三平宅に下宿する。八洲秀章のレッスンを受けながらいくつかのレコード会社のオーディションを受けるが全て落選。
生活のために錦糸町や浅草などで母と流しをする。その後、作詞家の石坂まさをと知り合い、石坂まさをの自宅に住み込みでレッスンを受ける。1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」でデビュー。

 以後、作詞家の石坂まさをと組んでヒット曲を連発。女性ハスキーヴォイスの先駆者青江三奈とはまた異なる魅力を持った、ドスの効いたその声は、可憐な風貌とのギャップも相俟って当時の社会に衝撃を与えた。ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、間を置かずリリースされたセカンドアルバム「女のブルース」は17週連続1位を記録。計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。そのヒットから、テレビアニメ『さすらいの太陽』のヒロインのモデルにもなった。1971年、当時ともに絶頂期であった内山田洋とクール・ファイブのボーカル前川清と結婚するが、大スター同士の結婚生活はすれ違いが重なり、翌1972年に離婚。同時期に藤さんの両親も藤さんの収入を巡って対立し離婚してしまう。そして、都心の一等地に建つ高級マンションで母との生活が始まったものの、1974年には、喉のポリープの手術を受け、かつてより歌に幅がなくなったことを悔やむ中で、1975年1月15日 澤ノ井音楽事務所を退所。1975年から1978年までの3年間のロック・グループ「ジュテーム」のリード・ボーカル・宮本ヨシミとの恋と破局。
 また、1977年ごろからの小林繁投手との恋も破局。その裏で、私生活の悩みとともに「声の手術をしてから声がきれいになって、なかなか声にあった歌い方がつかめなくて悩んだ」りしていた。
 「夜になると考えるようになったんだ」「しっかりしてくれないと、そんなつまらない男のために…」「だから、それだけじゃないんだって、歌っても歌っても絶望なわけじゃない。歌うのがつらすぎるようになっちゃったんだ。それがいちばんひどくなってしまったのが、デビュー十周年の舞台(1979.5- デビュー10周年記念公演(日劇)(5月9日~13日))」…「大事な舞台だったわけだよね」「そうなんだけど、舞台恐怖症みたいになって上がれなくなっちゃったんだ」ということがきっかけで、「歌を歌うのが辛い、絶望だ。だったら、やめればいいわけじゃない。簡単なことではないですか。そう思ったの…」と言う思いが「もっと違った生き方をしたい、何か違ったことを勉強して生きてみたいという気持ちが強く」なってきて、引退宣言に至るのである。
 1979年10月17日に藤圭子は引退を突然表明。記者会見後数日経って、タクシーに乗って、「運転手さんは個人タクシーのおじいさんだったんだ。…降りる間際に、急に言い出したんだよね。あの、歌い手の藤圭子っていう子も引退するらしいけど、無理ないよな、やめさせてあげたいよな、って」「あなたが藤圭子だっていうことを知らずに?」「うん、ぜんぜん気がついていないの。あの子がやめたいっていうのは無理ないよな、ってあたしに話しかけるんだから」「へえ。でも、それは嬉しかったね」「うん、嬉しかった、とても」と語っています。そして同年12月26日 、新宿コマ劇場で行われた引退公演で涙ながらに「圭子の夢は夜ひらく」を歌いファンに別れを告げた。

 藤圭子の元マネージャー成田忠幸氏(成プロ企画代表取締役)の話によると、1979年12月26日の引退公演後、米国へと渡った藤藤子は「ロックが好きでした。(渡米する数年前から)英語の勉強をしていました」と言います。 これは、デビュー前から同居していた石坂まさをに 「アメリカ人になりたい」と話し熱心に英語を学んでいたことと重なり、ロック歌手としてやり直すという夢をもっていたのかも知れません。

 1979年の芸能界引退後の足取りを見ていきます。藤圭子の「ギャラなどのお金」は、母親の竹山澄子の銀行口座に振り込んでいたから、そこから3000万円を引き出し、同年12月26日 、引退公演を終えた藤はハワイ大学留学へと旅だった。その当時、歌手時代に稼いだ銀行預金の金利だけで月に60万円以上の収入があったという。そして圭子さんは、ハワイ大学の聴講生になりきり、若いクラスメートと英語の勉強に真剣にとりくみ、1980年の春にはアメリカの西海岸に渡って、カリフォルニア州のバークレーで英語学校に入っている。

 その様子は、沢木耕太郎著の「流星ひとつ」の「後記」の中に「(1980年)七月、私のもとに、藤圭子から次の内容の手紙が届いた」とあり手紙の内容が書かれている。それを引用しよう。
 「お元気ですか。今、夜の9時半です。外はようやく暗くなったところです。窓から涼しい風が入ってきて、どこからか音楽が聞こえてきます。下のプールでは、まだ、誰か泳いでいるみたい。ここの人達は、音楽とか運動をすることの好きな人が多くて、私が寒くてカーディガンを着て歩いているとき、Tシャツとショートパンツでジョキングしている人を、よく見かけます。勉強の方は相変わらず、のんびりやっています。(中略)私は8月15日に学校が終わったら、16日の(カルフォルニアの)Berkeleyでのボズ・スキャグスのショーを見て、それからニューヨークに行くつもりです。最初は一人で旅をしようと思っていたのですが、クラスメートのまなぶさんという人が友達と車でボストンまで行くというので、一緒に行こうと思っています。車で行く方が、飛行機で行くより、違ったアメリカも見られると思うし、8月30日頃までにニューヨークに着けばいいのですから……。体に気をつけてください。あまり無理をしないように。沢木耕太郎様 竹山純子 追伸「流星ひとつ」のあとがき、大好きです」とある。

 この「手紙」で1980年の8月30日頃までにニューヨークに行こうとしていることがわかる。この辺のところを更に見て行きたい。それからの動きについては、出版・映像・文化イベントなどのプロデューサーである残間里江子氏が出会ったヒト、気になったモノ、体験したコトなどを紹介するブログで藤圭子(「純ちゃん」)について、こんなことを書いている。「渡米の目的は語学留学で、はじめは、カリフォルニアに行き、学校に通っていた。現地で友人も出来、それなりに楽しい日々を、過ごしてはいたのだが、いろいろあって、「いつまでこうしていても、仕方がないのではないか」と、思いはじめ、ある日友人たちと、ソルトレイクシティに行った時、「空港に行って、最初に来た飛行機に乗って、どこかに行ってみようと思ったの」と、友人たちと別れて、単身ニューヨークに行ったと、聞いた時も驚いたが、「ニューヨークの空港に着いたら、もう夜になっていたんだけど、たまたま通りかかった、トラックの運転手さんに頼んで、マンハッタン(アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市の地区名で、ハドソン川河口部の中州であるマンハッタン島 (Manhattan Island)、あるいは、マンハッタン島が大部分を占めるマンハッタン区 )まで、連れて行って貰ったのよ」と、聞いて、その大胆さに、二度ビックリする私に、「黒人のいい運転手さんだったわよ。人は信じればそう簡単に、悪いことなんてしないものよ」と、ニコニコ笑いながら言ったのに、三度ビックリした。」と。もうその時は、ある程度の英会話ができていたと考えても大きな間違いはないと思う。ただ何故ニューヨークだったのだろう。

 そのことは、写真評論家・大竹昭子のエッセイ集『旅ではなぜかよく眠り』(新潮社/95年)に詳しく書かれている。1980年「女性カメラマン(大竹昭子)のアパートに1人訪ねて来た歌姫は、小柄で、小リスのような少女のあどけなさを持っていた。初対面の女性カメラマンに、芸名ではなく本名(おそらく竹山純子を名乗ったのだろう)を名乗って「早く英語がしゃべれるようになりたい」とバッグから、ウォークマンを取り出して耳に当てた。そして、日本の著名な作家の書いたノンフィクションの本(沢木耕太郎)を開いた」。「この作家のことは知らなかったけれど、本人に会ったらとてもステキな人で、たちまち好きになってしまった。もうすぐニューヨークで会うことになっている。そういって、その本をぎゅっと抱きしめ、作家の名前を小さく叫んだ」「手を洗わせて下さいと言って、歌姫はキッチンに立つと彼女は手を洗いながら、ヒット曲を口ずさんでいた。少女のような人なのに、その口からはあの暗い歌声がこぼれ出ていることに女性カメラマンは、はっとして息を飲んだ。しかし、歌姫の待つNYに、妻のいるその作家は、結局、表れなかったのである・・・」と書いてある。

 「ライターのマコこと田家正子さんに巡りあう。...『ある日、ニューヨークのカフェでお茶を飲んでいたら、日本人らしい女性が通り過ぎ、また戻ってくる。アパートを探していた。それが藤圭子。結局、同じアパートの部屋で3カ月、一緒だった。マスコミが自分をつくった、藤圭子は終わった、と言ったわ。(略)』/グラスを傾けながら、マコは藤圭子が大切にしていた原稿の束のことを口にした。『あるルポライターが彼女について書いたもの。彼女はその男を待っていた。でも、来なかった』。アパートに入居したときのパーティーに招かれていたのが、後に夫となる現地取材コーディネータを手がけていた宇多田照實さんだった。...」(鈴木琢磨「『藤圭子の新宿』を歩く」・「毎日新聞」2013.9.4夕刊)

 田家正子さんがこう話している。「私が「なぜ、ニューヨークに来たの?」と彼女に尋ねると、「実は、沢木耕太郎を待っています」と、答えたんです。(中略)沢木さんが彼女について書いた、300枚くらいのインタビュー原稿を大事に持っていたのを覚えています。当時連載していた新聞の連載が終わったら『コロンビア大学(米国ニューヨーク市に本部を置く私立総合大学)のジャーナリズム科に通う予定だった』そうで、このアパートで一緒に暮らすために待ち続けていたようです」。 だが、沢木氏が藤の前に現れることはなかったそうだ。1999年に藤の娘・宇多田ヒカルがブレイクしたとき、噂の真相に「沢木耕太郎が宇多田ヒカルの本当の父親だったのか」という記事が掲載された。そこで沢木氏はこう答えている。(中略)ただ、取材のプロセスで確かに彼女は僕に好意を抱いていたし、僕も好意を抱いていた。これは間違いありません」と。つまり、ニューヨークで沢木耕太郎と逢うつもりだったのだろう。

 何故なのか、それは、先の沢木耕太郎著の「流星ひとつ」の「後記」に書かれていた。「インタヴュー」と名付けた藤圭子について原稿を書き上げることに熱中した」…「…ようやく、(1980年の)五月に入って、五百枚近い分量のものが書き上がった」…「私は、手書きの原稿を製本所に頼んで一冊のほ本の形にしてもらうと、「インタヴュー」ではなく「流星ひとつ」とタイトルを変え、それをアメリカに渡った藤圭子に送ることにした。…出版させてもらおうと思いましたが、出来上ったのはこの一冊でした。申し訳ないが、この時点での出版は断念しようと思います…。すると、藤圭子から、自分は出版していいと思うが、沢木さんの判断に任せるという返事が届いた」とあるから、ニューヨークで沢木耕太郎と逢うつもりだったのは本当だったと思っている。

 田家正子さんの話で気になるのは、「当時連載していた新聞の連載が終わったら「コロンビア大学(米国ニューヨーク市に本部を置く私立総合大学)のジャーナリズム科に通う予定だった」そうで」という田家正子さんの記事である。たしかに圭子さんは「実は、沢木耕太郎を待っています」と答えていますから、沢木氏と一緒に「コロンビア大学(米国ニューヨーク市に本部を置く私立総合大学)のジャーナリズム科に通う予定だった」とも読めるし、圭子さん一人通う予定だったとも読めます。しかし、英語を学んでいたとしても、圭子さんがコロンビア大学(米国ニューヨーク市に本部を置く私立総合大学)のジャーナリズム科で学ぶことには少し違和感があります。もし、主語が沢木耕太郎氏なら「コロンビア大学(米国ニューヨーク市に本部を置く私立総合大学)のジャーナリズム科に通う予定だった」と考えれば充分理解できますが、そうすると「沢木氏と一緒に暮らせることを信じてニューヨークで待っていた」という意味が少しだけ違う気がしています。

 アメリカの大学は普通9月からはじまるから、1980年8月末には圭子さんは、沢木耕太郎氏が来ていないことに気づいたはずです。それでも、「待ち続けていた」いたのでしょうか。そして何故沢木氏は現れなかったのだろうか?答えは簡単に見つかりました。「流星ひとつ」の「後記」に「藤圭子は最後のコンサートを終えると、その年(1979年)の暮のうちにハワイに発った。直後から、私は「一瞬の夏」の執筆を中断して、「インタヴュー」と名付けた藤圭子について原稿を書き上げることに熱中した」…「すると、ようやく、ようやく、(1980年の)五月に入って、五百枚近い分量のものが書き上がった」と書いてある。「一瞬の夏」は、「クレイになれなかった男」の続編で、韓国でふがいない試合をして敗れたカシアス内藤がその後、再びリングに立とうとする姿を描く内容だった。その執筆の経緯については、『一瞬の夏』刊行後に沢木が書いた(インタビューを書き起こした?)「可能性としてのノンフィクション――自作を語る」(1981年7月、『紙のライオン』所収)で明らかにされる。そして、第1回(1982年度)新田次郎文学賞受賞に沢木耕太郎「一瞬の夏」(【上下】1981年7月 新潮社)が選ばれている。その一年間を素材とするノンフィクション作品を『朝日新聞』に連載しはじめたいた。その時にはノンフィクション執筆における方法上の冒険をしたいという気持ちも重なっていたという。

 つまり、沢木氏は「ノンフィクションの方法論を意識しはじめたのは、ここ四、五年のことです。方法をいろいろ詰めていく作業の中でアメリカからもたらされたニュージャーナリズムに接し、方法上の思考が変化しました。その変化の方向は、一言でいってしまえば、どうやって「シーン」を書いていくかに尽きます。そこでの問題は「シーン」をどう獲得していくかだった。」と述べており、ニュー・ジャーナリズム(英: New Journalism)は、1960年代後半のアメリカで生まれた新たなジャーナリズムのスタイルで、従来のジャーナリズムにおいては何よりも客観性が重視されていたが、ニュー・ジャーナリズムでは、敢えて客観性を捨て、取材対象に積極的に関わり合うことにより、対象をより濃密により深く描こうとする手法である。
 後日、沢木氏はこう述べている。「古びること、しかも急速に古びることは、ジャーナリストにとって決して恥ずべきことではない。むしろ、その中にこそジャーナリストの栄光があるといってもよい。なぜなら、ジャーナリストに矜恃に似た断念があるとすれば、それは「いま」に深い傷痕を残すために永遠を目ざさない、という点にあるからだ。「芸術」家には、永遠を獲得するために、まずそこから古びてしまう俗なる部分をそぎおとしたい、という衝動がどこかに潜んでいる。ジャーナリストによる肖像は、ほとんどが、一本の接線にしかならず、作品として自立することもない。その無数の集積は必ず時代の接線になりうるのだ、ということをどこかでジャーナリストは信じている。」と書いている。
 だから、沢木氏は「朝日新聞への連載が終わったら「コロンビア大学のジャーナリズム科に通う」ことを考えていたに違いないし、私は、上記の目的意識のために「コロンビア大学のジャーナリズム科に通う」予定を圭子さん伝えたに違いないと思っている。

 「噂の眞相」では、80年代初頭にニューヨークで藤と付き合いがあったという人物が、藤がいつも沢木の話をし、沢木が書いた幻の原稿をいつもうれしそうに持ち歩いては周囲にそれを見せていたこと、そしてニューヨークで沢木と同棲する計画があることを話していたとも報じている。この「噂の眞相」の記事では、沢木に直撃取材を敢行。ここで沢木は大竹のエッセイに登場するのが自分と藤であることを認め、「取材のプロセスで確かに彼女は僕に好意を抱いていたし、僕も好意を抱いていた。これは間違いありません」と返答。男女関係にあったことや、同棲の約束をしていたことについては否定しながらも、取材の終わりには「藤さんの家庭はうまくいっているの?」と直撃した記者に逆質問している。

 このようにこの時期の藤圭子のことを見ていくと、「流星ひとつ」の原稿の「本当のあとがきには、"沢木から藤へのラブレター"が書かれていたはず。」(大手出版社のベテラン編集者)というものもいるが、そうではなく「手紙」の「追伸「流星ひとつ」のあとがき、大好きです」と圭子さんが言ってるのは、沢木氏のジャーナリズムに対する情熱のことであり、なんとしても沢木氏の力になりたいという「義侠心」の表れかと思っている。まるで圭子さんの「命預けます」の歌詞通り「こんな女でよかったら 命預けます」の心意気である。だから、「アパートで一緒に暮らすために待ち続け」たが「沢木氏が藤の前に現れることはなかった」ことについては、小林繁氏との恋愛のような「裏切り」とは考えていなかったと思う。さすがに圭子さんも気落ちしたと思うが、反面そのことが新たな恋に向かわせ、宇多田照實氏との恋模様が展開していくきっかけとなります。

 さて、藤圭子の理想の男性像は、「Binitam ブログ」を拝見しますと、「 黒うさぎさんの投稿による|(2013年10月28日 (月) )「またまたの参上で恐縮です。実は古い記憶ですが思い出しました。圭子さんの理想の男性像が…。高倉健さんです。憧れだったそうです。あの『網走番外地』『昭和残侠伝』シリーズ、その後は「幸福の黄色いハンカチ」「駅」などその役柄が任侠路線から変わりりましたが、いずれも言葉少なく、生きる悲しみを背中で耐えていく姿が印象的です。圭子さんも健さんの映画、絶対何度もみていたはずです。きっと健さんのその姿と圭子さんの境遇を含めた人生とに共鳴する何かを感じたのだと思います。よくわかる気がします。さもありなん。圭子さんの憧れが健さんなら許せます(笑)。
かの『網走番外地』『圭子の網走番外地』を歌う圭子さんの心中には健さんの姿があったのだと思います。あの迫力・臨場感にはただ度肝を抜かれるばかりです」と書かれています。ですから、この男性像からして長身の宇多田照實氏は正に理想のタイプだったに違いありません。それにアメリカの音楽に知識があり英語が堪能な人ですから圭子さんが夢中になってもおかしくないと思います。

 藤圭子と宇多田照實氏との出会いと交際は、1980年の秋から1981年の春頃に一定程度の進展があり、お互いを意識し合う関係になっていたと考えられます。そして、1981年7月藤圭子の復帰報道が突然日本に流れます。藤の熱烈なファンだった実業家(藤原成郷氏)が新たに事務所(ニュージャパンプロダクション)を立ち上げ、藤を再デビューさせるというものでした。1981年7月29日に帰国した藤は会見で「広い世界を見て自分なりに充実した人生を送りました。でも、何度も何度も(復帰を)説得されて」と語った。…復帰では芸名を“圭似子”と改名。その理由を聞かれて、「私は名前にこだわっていません」と回答。結局、本心は明らかにならないまま会見は約1時間で終了した。(2012/12/21 日刊ゲンダイ DIGITALより)
 藤原成郷氏の依頼で、1981年8月、芸能界にも顔がきく金平正紀(かねひら まさき、1934年2月10日 - 1999年3月26日)、日本のボクシング指導者、ボクシングプロモーター)が、藤のかつての所属事務所で芸能界でも迫力のある新栄プロダクションの社長・西川幸男(西川哲、西川賢の父)を説得し藤をカムバックさせたものだった。そして、1981年10月に藤圭似子名義の「螢火/恋狂い」がにリリースされます。このころ圭子さんは酒井氏に次のように話しています。「今度、いっしょになるひとがいて、紹介したいとおもっている」と。おそらく、それが宇多田照實氏だったのではないかと酒井氏は思っていたと言います。なお、同年11月にLP「蛍火ー右・左−」をリリースしています。

 1982年1月、圭子さんと宇多田照實氏との同棲が発覚する。照實氏はニューヨークから日本に来ていたのだ。テレビ朝日の前のところにあったアパートの一室にいた。1982年8月発行の週刊平凡から引用します。「今年1月、夫の宇多田照實さんとの同棲が発覚した時、「好きな男女が一緒になって、どこが悪いんですか。古いですね」と、同棲をめぐって(藤原成郷氏の)事務所(ニュージャパンプロダクション)と対立した」とあり、同棲をめぐり事務所と対立し裁判にまで発展してしまいます。

 そして、圭子さんは1982年6月に宇多田照實氏と再婚し、妊娠、そして1982年の後半にはニューヨークへ照實氏と帰って行きます。美川憲一さんが妊娠中の藤圭子さんから、米国で子供を生んで歌手にするんだと聞かされたと述べているたのは、1982年の後半頃と思われます。

  宇多田照實氏との結婚を前提にした交際が先か、藤圭子歌手復帰が先かは不明ですが、同時並行的にこれらが進んでいたと考えると、3000万円を携えてアメリカに渡った藤圭子さんの資金は、この間約2年間で半分以上使われていたと考えるほうが普通で、結婚を視野に入れての「歌手復帰」も背景にあるような気がしてなりません。当時の宇多田夫照實氏の職業については、「翻訳業になっていたり、失業中になっていたりと」、その素性はいまひとつハッキリしていません。宇多田氏については、「親の仕事の関係でアメリカに長く住んでいただけで、向こうでは定職もなくブラブラしているだけだった。ミュージシャンは自称ですよ。もっとも藤にしてみれば、英語が喋れるだけで尊敬に値したんだろうけどね」(当時を知る芸能記者)と揶揄されることもあったようです。

 藤圭子と宇多田照實氏との結婚の前後の様子ですが、残間里江子のブログによると「臨月の時には、(1982年の暮れ、残間里江子さんが)NYの家を訪ね、大きなお腹で手料理を作ってくれたり、1983年に私が雑誌の編集長になった時には、創刊号でNY特集をしたのだが、取材にも協力してくれて、照實さんが乳母車を引いて、親子3人でセントラルパークを、散歩している写真を、雑誌に掲載させて貰ったのだが、この時は、いかにも幸福そうに、「宇多田純子」としての人生を、堪能していた」と書かれています。また、女優の萬田久子さんが雑誌のニューヨーク取材を機に、宇多田一家を訪ねた時の記事。(カラーグラビアなのが嬉しい♪)圭子さんの腕に抱かれた光ちゃんは生後2~3ヶ月くらい(?)で、利発そうな顔からは早くも大物の風格が漂っています。一緒に掲載された照實氏の手紙によると、出生時の体重は7ポンド(3,200g弱)、体長は20インチ(50cm強)だったそうです。(Free('83/7月号、平凡社))

  圭子さんの出産時の話しですが、宇多田ヒカルさんが生まれたのは、アメリカのニューヨークでした。父親の宇多田照實さん、母親の藤圭子さんが日本ではなくニューヨークでの出産を選んだのは、生まれる前から宇多田ヒカルさんに世界に通用する歌手になってほしいという強い想いがあり、アメリカ国籍も選べる選択肢を与えたかったからと言われています。

 さて、圭子さんは、1983年1月19日に宇多田光さん(芸名宇多田ヒカル。以下ヒカル)を出産します。その時のことをこう語っています。「追悼 藤圭子さん 懐かしい、歌とトーク♪1998年平成10年11月05日放映・録画」よりhttps://www.youtube.com/watch?v=38URqAaeBXgでは「「(胸に)突き刺さってきますね。やっぱり特にね。最初の子どもって生まれるとき不安って言うっかね。元気な子が生まれるかどうかってあるですけど、それ以前に、自分がもう怖くてしょうがないんです。お腹がこんな大きくなっちゃってもうどうしていいか本当わからない。…陣痛もなくって。出産もすごい誘発剤してもぜんぜんダメで「危ないかもしれない」っていわれて、それで「このままだと両方(母子)危ないから」って帝王切開になったんですけど。…自分麻酔かけられているからもうわかんないんですよ。意識がなくて、ただ、あの主人が傍にいてくれたから。もうその顔みただけで安心して、そのまま麻酔きいちゃって。で、無事に生まれて。(ヒカルさんの)元気な顔みてたんだけど、…後で話をきいたら、生まれた時もぜんぜん紫で、もう全然産声なくって、それでもうピンピンたたいたりして、なんかして、やってたら、しばらくして、「ギャー」って凄い突然声あげたんだって話を後からきいて。「あぁ本当によかったな」と思っ」たと話しています。
 しかし、ヒカルさんは「2011年1月9日深夜、Twitter(ツイッター)で自分の過去を書き込みしており、自身が生まれた瞬間の出来事をファンたちに伝えていた。宇多田ヒカルさんの心肺停止体験「そうだ、産まれた時の話。予定日から3週間以上過ぎてヤバいってことになって帝王切開で出されたんだけど心肺停止で、父(宇多田照實氏)は医者に「残念ですが…」とまで言われるも、父の必死のマッサージで うわああゴールされてもーたーーー!(ヒカルはサッカー観てるため叫んでいる)」「で、真っ青な私を父は泣きながら必死にマッサージしまくって名前も決めてたから「ひかるー!」と呼びかけてたら、徐々に血の気が戻ってきて蘇生したんだって。この間、藤圭子は麻酔で意識無し。父に感謝! ママもママで小さい身体で大変だったろうなあ」、「出産ではそんなに珍しい話でもないんじゃないかな?心肺停止からの蘇生。産まれるって本当に有り難いことだよね。生きてるってことは誰かに愛されたってことだよね。今生きてる人はみんな、赤ちゃんの時に誰かが一生懸命育ててくれたんだもんね」 とつぶやいています。(筆者は圭子さんの話はよくわかりますが、宇多田照實氏の心肺停止からの蘇生の話は作話に感じています。)父親の照實氏の話によると「名前も決めてたから「ひかるー!」と呼」んだことになっていますが、圭子さんはヒカルさんを出産すると同時に網膜色素変性症を発症しています(元々藤の母方は目が弱い家系であり、兄も同じ病を患っていた)ので、視力が徐々に失われていた頃でしたので、「我が子から光が失われないように」という願いを込め、「光」(ひかる)と命名したと報道されていますのでさもあらんと思っています。

  1983年1月19日、ニューヨークで長女が生まれた。娘に「光」と名付けた藤圭子は、こんな詩を書いています。「あなたが生まれたその日に 天使たちが集まって そして決めたのよ 夢を実現させようって」。この詩は同世代の方ならあ〜と感じる詩です。

 そうです。兄妹デュオ「カーペンターズ」の代表曲で、1970年のグラミー賞も受賞した人気曲の「Close To You」の一節に似ているのです。

 On the day that you were born
 The angels got together
 And decided to create a dream come true
 あなたが生まれた日
 天使たちが集まって
 夢を形にしようって決めたの

 藤圭子にとっての「夢」は、娘の光を世界に通じる一流の歌手に育てあげることでした。それは、歌手の美川憲一氏が妊娠中の藤圭子から、米国で子供を生んで歌手にするんだと聞かされたと述べ、「どういうふうな歌手? あなた演歌でしょ」と言われた藤圭子が、美川憲一の前でマイケル・ジャクソンみたいなリズムでダンスを踊ったので、目が点になるほど驚いたと言っています。

 1983年6月に藤圭子さんは夫とともにヒカルを抱いて再度一時帰国をします。帰国したのは圭子さんの前事務所(ニュージャパンプロダクション)の藤原成郷氏とのトラブルが裁判になり、東京地裁に出廷するためでした。1983年6月に藤圭子さんは夫とともにヒカルを抱いて一時帰国をします。当時の様子は、マスコミにとり上げられていますが、裁判のことではなくは「光ちゃん、ママに甘えて初めての日本」としてヒカルさんと圭子さん夫妻に焦点が合わされていました。「ニューヨークで生まれた光ちゃんが、お母さんに抱かれて初めて日本の土を踏んだ時の様子がグラビアに掲載されています。生後5ヶ月余りの光ちゃんは丸々と成長しお母さんも少し重たそうです」と。「週刊女性」や「週刊明星」にも同様の記事と写真掲載。「子供って好きじゃなかったけど、産んでみると可愛くて」という圭子さんの談話からは母親となった喜びとわが子への愛情が感じられます。 (女性自身('83/7/21号、光文社))

 同年10月5日に帰国。親子3人でニューヨークから東京へ引っ越します。はじめは、広尾のマンションに圭子さんの母澄子さんと同居していたようです。はじめは、広尾のマンションに圭子さんの母澄子さんと同居していたようです。 そして、宇多田照實は所属事務所がなくなってしまった藤のために個人事務所(テックス)を設立して社長になり藤と二人三脚で営業を始めた。

 「事務所といっても所属タレントは藤ひとりだけ。無理矢理地方営業をさせて、それで食いつないできたようです。しかも、照實はシロウトのくせにあれこれと口を出し、いろんなところでトラブルを引き起こしていたようですね。藤が元の所属事務所やレコード会社と揉めて、レコードを出せなくなったのも照實が原因なんです」(前出・芸能関係者)

 圭子さんの叔母である竹山幸子さんの話よると、「結婚当初、純ちゃんと照實さん、姉が広尾のマンションで暮らしていた時期がありました。家のクローゼットには、照實さんのブランド品がずらっと並んでいましたね。純ちゃんは、男を立てる性格で、照實さんに全部つぎ込んでいました。ですがら、自分じゃお金を全然もっていないんです。2000円のものを買うのでも、照實さんに、買っていい?と聞く。純ちゃんの稼ぎで、照實さんが贅沢をするという関係でしたね」と述べています。一説によると当時、藤の実家のある調布のマンションを借り、藤の送り迎えをやっていたという話しもあります。

 1983年、「圭子と結婚した当時の照實氏…とても裕福とはいえない状況でした。さらに借金も抱えており、照實氏はあるとき圭子さんの母(竹山澄子)に「金をくれ。ないんだったら、マンションを売って手配してくれ」と迫ったこともあったといいいます。当然、母は難色を示しめしましたが、「マンションだって圭子が稼いだ金で買ったんだろ!」と怒鳴り、口論に発展。結局は(広尾マンションを)を売却して、3000万円ほどの金を照實氏に渡すことになった」そうです(圭子さんの実兄の話)。それにより、母澄子さんは綾瀬のマンションに移ります。そして、圭子さん一家は、杉並のマンションに移ります。(後の有限会社ユースリー・ミュージックの事務所兼自宅)

 1984年圭子さん33歳のとき、石坂まさを夫妻と交わした会話としてその理由の一端が示されていますので引用します。「このとき、藤が、二人に向かってピシッと言い放った。「もう、わたしのお母さんとは、付き合わないでちょうだい」。それを聞いた清子は、最初、何を言っているのかわからなかった。〈あんなに仲がよかったのに、どうしちゃったの?〉心底びっくりした清子は、言い返した。「純ちゃん、何を言ってるの?」それでも、藤は態度を崩そうとしない。「だから、お姉さん、わたしのお母さんと付き合うというなら、わたしはお姉さんと、今後、いっさい付き合いません」「どうして?」そう訊く清子に、藤は理解できないような理由をあれこれと言った。そのうちの一つに、こんな理由があった。「今、生活が大変なの。お母さんがお金を管理していて、わたしに、一銭も出さなくなったのよ」。…そう答える藤を、言葉通り信じることは清子にはできなかった。…(清子さんはこの後で澄子さんに電話で確認したところ、藤圭子に澄子)「お金を渡したら、すぐ、そのお金を使かちゃうからね」と、そんな理由で、本当にお金は渡していないようだった」とある。(大下英治著「悲しき歌姫」より)

 その後、藤圭子は、一人で、ハワイで2年くらい(1983〜1984)居候生活を送っている。カラオケ教室で生計を立てようと思ったのかもしれない。1984年圭子さん33歳のとき、石坂まさを夫妻と交わした会話としてその理由の一端が示されていますので引用します。「このとき、藤が、二人に向かってピシッと言い放った。「もう、わたしのお母さんとは、付き合わないでちょうだい」。それを聞いた清子は、最初、何を言っているのかわからなかった。〈あんなに仲がよかったのに、どうしちゃったの?〉心底びっくりした清子は、言い返した。「純ちゃん、何を言ってるの?」それでも、藤は態度を崩そうとしない。「だから、お姉さん、わたしのお母さんと付き合うというなら、わたしはお姉さんと、今後、いっさい付き合いません」「どうして?」そう訊く清子に、藤は理解できないような理由をあれこれと言った。そのうちの一つに、こんな理由があった。「今、生活が大変なの。お母さんがお金を管理していて、わたしに、一銭も出さなくなったのよ」。…そう答える藤を、言葉通り信じることは清子にはできなかった。…(清子さんはこの後で澄子さんに電話で確認したところ、藤圭子に澄子)「お金を渡したら、すぐ、そのお金を使かちゃうからね」と、そんな理由で、本当にお金は渡していないようだった」とある。(大下英治著「悲しき歌姫」より)
 同じ年、時期は不明ですがロリーポップから圭子名義で「あいつが悪い」をリリース。さらに10月、リバースターから芸名を藤圭子に戻し「蝶よ花よと」をリリースします。
 「蝶よ花よと」で3年ぶりにカムバックした藤圭子が、21日、キャンペーンのため来阪。愛の巣づくりと育児に専念の3年間だったが「やっと子供を母に預けても大丈夫になったし、私にとってはごく自然な歌手活動の再開です」、「ねっ!見て。かわいいでしょ」ハンドバッグの中から、1歳10カ月になった長女・光ちゃんの写真を何枚も取りだして見せる。「お父さん似だ」と言うと「そうなのよねェー」と、かたわらのご主人で、所属会社テックスの社長宇多田照實さんを見上げて、なんともうれしげにニッコリ。
 決して平たんではなかった人生を歩いて、いつもどこか鋭く暗いものが漂っていた藤圭子は、すっかりマイルドな雰囲気になっていた。ヘアスタイルも、トレードマークだった長いお下げ髪をばっさり切ってライトなショートに。デビューから15年、一人の人間に変化を刻むには十分な歳月で、33歳になった彼女は、口ずさむように軽い調子で「蝶よ花よと」を歌っている。

 1985年には、圭子さんは、ヒカルに歌を教えています。それも「七つの子」「おててつないで」と「女のブルース」です。(圭子さん34歳、ヒカルが2歳4か月)。同じ年、藤圭子の未発表曲シングル盤「母子舟/恋して母は」をレコーディングします。娘のヒカルさんが2歳くらいの時の録音のようで、圭子さんの生前には発表されていません。なお、圭子さんの実母竹山澄子さんの話では「1985-1989、7歳頃(2〜6歳)まで孫(宇多田ヒカル)の面倒を見ていた」と話しています。

 1986年圭子さんの前事務所(ニュージャパンプロダクション)の藤原成郷氏との裁判が、1月に判決が下され、藤圭子は受け取った契約金のうち2,000万円をプロダクションに返し、プロダクションは藤圭子に未払いの給料200万円を支払え、という判決でした。 ここで注目したいのが、当時の藤圭子の月給が200万円程度であったことだ。経済的困難の中、藤圭子は愛娘の成長を糧に悪戦苦闘中だったのである。
 1986年10月に1回目の圭子さんと照實氏の離婚をすることになるが、17日後には「ヒカルの幸せのために」と再婚している。圭子さんは、リバースターからポリドールに移り、1986年6月「東京迷路」をリリースする。翌1987年2月には「新宿挽歌」をリリース、B面の「北国流れ旅」は圭子さんのお気に入りの一曲となっている。
 この頃から家族問題、経済問題も絡み藤圭子の「嘔きまくり人生」がはじまる。その頃、藤圭子の実母の間での金銭トラブルを抱えながら愛娘の光を母に預けて「どさ回りしていたのではないだろうか」と石坂氏は推測する時期でもある。また、ヒカルが「ママ、どうしてお仕事に行くの、ヒカル淋しいの」と書いた時期です。藤圭子と親交のあるカルーセル麻紀が、「彼女は表に発散するタイプではなかった。悩みがあると内にこもるところがあった。最近ではよく吐いて顔がむくんでいた。」と述べています。
 そしてヒカルは、渋谷区松濤にある青葉インターナショナルキンダーガーテンというアメリカンスクールの幼稚園に入園させています。歌手を引退したときには月収が500万円程度あったものが1986年当時は、6割減の200万円程度になっていたのですから、芸能活動が仕事の圭子さんにとって決して裕福だったわけではないようです。しかしながら、英語で歌える歌手に育てるため、無理してもアメリカンスクールに通わせたと思われます。

 1988年3月にポリドールから「旅路」をリリースします。同年7月19日石坂まさをの母千恵が逝去。その葬儀に藤圭子は参列しています。ヒカル5歳のときです。そして、圭子さんの元夫の宇多田照實氏のコメントによると、圭子さんが心の病にかかったのは宇多田ヒカルさんが5歳(1988年)の時であると言う。
同時期に圭子さんは、ヒカルさんが7歳になったらニューヨークに定住する話になって、圭子さん親子3人の生活ためにまとまったお金が必要となりますが、出しもらえません。当時、「当時、藤さんは母に強い不信感を抱くようになっていたんです」と2013年9月12日発行の女性セブンに「宇多田家の知人の話として次のような記事が掲載されています。「彼女は絶縁したお父さんから、以前、お母さんが藤さんのギャラを着服していたという話を聞かされていたようなんです」と。
 母親がギャラを着服していたこと、母の目が実際には見えていたことを知り、歌手になったことも含めて長年母のために尽くしてきたことが裏切られたことを知って、精神的にひどい危機状態に陥っています。こう言う精神状況の中で、当時母親の住んでいる綾瀬のマンションも売却していまいます。「私が買ってあげたものなのに私の好きなようにして何が悪いの。ニューヨークで暮らすのはヒカルのためだから」と言う圭子さん。「照實さんも、「借金があるからマンションを売れ!その金は圭子の金だろ!」と迫るようになったんです。 姉(圭子さんの実母澄子さん)は、毎日、照實さんの怒声を浴びていました。 姉は、「おっかない、このままでは殺される」とおびえていて、一生住むつもりだった綾瀬のマンションを売却し、お金を照實さんに渡して、姉は粗末なアパートに引っ越します。それから照實さんとの関係は、それっきり途絶えました」と実兄の藤三郎氏(本名阿部博氏)は話します。
 そのことで藤圭子は精神的にひどく不安定となり、母親らによって精神科病棟に強制入院させられています。退院はしたものの、精神的に消耗がひどく、歌も満足に歌えなくなったのでしょう。
 そうした危機的状況を救ったのがヒカルの存在です。退院はしたものの、精神的に消耗がひどく、歌も満足に歌えなくなったのでしょう。そうした危機的状況を救ったのがヒカルの存在です。藤圭子はヒカルを世界に通用する歌手に育てることに生きる意味を見出したと思われます。4歳の頃から歌の稽古をはじめたヒカルは、 杉並の自宅マンションに、ヒカルのレッスン用の鏡を取り付けたという業者の話もあり、5歳の頃には自宅マンションの一室に宇多田ヒカル専用のレッスン用の業務用の鏡を取り付けたのです。
 
 1988年11月5日乾杯トークソング♪藤圭子(37歳)(藤圭子の追悼としてアップされたもの)では、「人生一路」「新宿の女」「はしご酒」を歌っています。なお、ヒカルさんの出産時のときの話しもしています。

 翌1989年2月にポリドールから「新地の雨」(with桂三枝)をリリースします。しかし売り上げは芳しくありません。

 1990年、ヒカルさんが7歳になった4月に照實氏とヒカルとともに米国に移ります。ヒカルさんは、インタビューで「急に学校から帰ったら「明日からニューヨークに引っ越すわよ」と言われたことを記憶しています。かくしてヒカルさんは、小学校(ニューヨークのThe Hewitt School)に入学します。その時から、ニューヨークでの生活資金が底をつけば、帰国して日本各地を巡り、歌をうたうと言う生活がはじまります。「裕福な生活ではありませんでしたが、以前のようにトラブルのもとになるようなお金もないですし、周囲の目を気にする必要もない。純粋に心から信じ合える家族とずっと一緒にいられることが彼女にはこの上ない幸せだったんだと思います」(宇多田家の知人)とあります。ヒカルさんはニューヨークのThe Hewitt Schoolの2年生の時、4年生へ飛び級しています。

 1991年、圭子さんと照實氏は、いつもヒカルさんをスタジオに連れて行っています。ヒカルさんは、小学校一年生のころからスタジオで宿題をして、スタジオでご飯を食べて、スタジオのソファーで寝ていたと言っています。「圭子さんが、ヒカルさんに声をかける。「光、ちょっとここ歌ってくれない?」。ヒカルさんは、頼まれると、イヤだったけど歌った。自分の声がすごく変な気がして、恥ずかしかったのだ。両親は誉めた。「声がいい。いい声だよ」と。その時の歌声が残っています。ヒカルさん9歳の声です。楽曲はU3のアルバムの「子供たちのうたが聞こえる」です。https://www.youtube.com/watch?v=V-qzIXjXlAM (1993年9月17日にリリース)。
 ヒカルさんは思った「親馬鹿だなぁ、こんなんでいいんですか?」と。しかし、ヒカルさんはどんどん音楽が好きになっていったのでした。そして音楽をたくさん聴くようになったある日、ヒカルさんは父親である照實氏から「自分で歌作ってみなよ」と進められます。ヒカルさんは、「そんなのやり方わかんねーよ」と思いつつ、好きな曲をいくつか研究します。現代のポップミュージックがだいたいこういう構成で、こう展開し….みたいなことが分かってきた。学校の勉強より難しく面白かったという」(大下英治著「悲しき歌姫」から内容を引用)。

 1992年1月に圭子さんと照實氏は3回目の離婚をします。しかし、8月にはまたまた再婚。あいかわらずですね。でも、ヒカルさんにとっては落ち着かない日々だったのでしょう。同じ年の夏、圭子さんから石坂まさを氏に電話があり青山一丁目にあるプレジデントホテルのロービーで会っています。…「石坂先生、光(9歳)を中心に、わたしと宇多田さんで、U³(キュービック・ユー)というチームを組んでいるのよ」…「石坂先生、この子天才なのよ。最高なんだから、光を中心にファミリーで新しい音楽を作ってきっと勝負してみせるから」…「光が歌ったのよ」と一本のテープを見せた。が、石坂は受け取らなかった」。石坂氏にヒカルの歌をぜひ聴いて欲しいと迫り、ヒカルがいかに天才であるか、熱弁をふるっています。「「石坂先生、ヒカルって天才なのよ。最高なんだから、ヒカルを中心にファミリーで新しい音楽を作ってきっと勝負してみせるから」と半分つっかるように責められてしまった。」と石坂まさを氏の著書「宇多田ヒカル母娘物語」に書かれています。

 圭子さんの地方巡業の際に、照實氏にマネージメントやプロデュースなどの技術を身につけさせています。普段は照實氏を立てていますが、宇多田家の独特な掟である「いい女を見かけたら声をかける」「金は天下の回り物だから、貯めるな。使っちゃえ!」などと無責任な家風が出ると、圭子さんの最後の切り札こそが「離婚する」の一言でした。照實氏は、圭子さんから「離婚する」と言われると即失業状態になるばかりか、大切なヒカルさんとも別れなければならず、いつしか圭子さんの言うとおりにならざるを得ず「再婚」となるのです。つまり、「結婚・離婚」は圭子さんにとって夫の照實氏をコントロールする手段だったのです。

 1993年ヒカルさん10歳のときに、夫の照實とともに有限会社ユースリー・ミュージックを資本金300万円で東京都杉並区に設立し、取締役社長に照實氏、圭子さんも自らも取締役になっています。そして、ヒカルさんを中心にファミリーで新しい音楽を作って勝負しょうとします。

 1993年 - 夫・照實と娘・光の3人(藤圭子(RA U.)、宇多田照實(SKING U.)、宇多田ヒカル(H。IKASO U.))の家族3人ユニット藤圭子(RA U.)、宇多田照實(SKING U.)、宇多田ヒカル(H。IKASO U.)の家族3人ユニット「U³」てセンチュリーレコードと契約し、アルバム「STAR」を発表。1993年9月17日に当時9歳の宇多田ヒカルもボーカルとして参加し、ニューセンチュリーレコードの前身であるセンチュリーレコードから「U³」としてロック曲を収録したスタジオ・アルバム『STAR』を発売して日本デビューしている。
 「U³」の唯一のアルバム「STAR」は、ヒカル(当時9歳)の(メンバーとして)歌手デビュー作となった。しかし、ヒカルが作詞作曲に参加しておらず現在とは音楽性が異なること、幼少期の歌声でありヒカルがメインボーカルとして参加している曲も少ないことなどから、全体的な印象も大きく違い、あまり一般受けしないものであった。ヒカル自身もこの作品について触れることは少なく、公式サイトでも特に表記されていない。
STAR (作詞:RA U. / 作曲:RA U. & SKING U. / 編曲:平岩嘉信)
    流されてゆくなら (作詞・作曲:RA U.)
    子供たちの歌が聞こえる (作詞・作曲:RA U. / 編曲:平岩嘉信)
    愛しているよ、あの日の君を (作詞・作曲:RA U. / 編曲:J.BRALOWER & JEFF BROVO)
    生まれた時からI LOVE YOU (作詞・作曲:RA U. & SKING U.)
    THANK YOU (作詞:RA U. & H°IKASO U. / 作曲:RA U. / 編曲:平岩嘉信)
    生きることを教えてくれた (作詞:RA U. / 作曲:RA U. & SKING U. / 編曲:平岩嘉信)
   婚約解消 (作詞・作曲:RA U. / 編曲:平岩嘉信)
   ニューヨーク・セレナーデ (作詞・作曲:RA U. & SKING U. / 編曲:平岩嘉信)

 ヒカルさんは、ある日、「自分で歌作ってみなよ」って言われて、「そんなのやり方わかんねーよ!」と思いつつ、好きな曲をいくつか研究して、現代のポップミュージックがだいたいこういう構成で、こう展開して…みたいなことが分かってきた。...どうにか一曲できた。10才。”I’ll Be Stronger”。イエーイ。おそるおそる親に聴かせると、「良いじゃん!」と褒めてくれた。※ヒカルさん10歳の時できた初めてのオリジナル曲が「I’ll Be Stroger」です。宇多田ヒカル名義としては、日本でのメジャー・デビュー以前にアメリカで発売した1枚です。宇多田ヒカル レア音源 CUBIC U "I'l l Be Stronger" housemixは、 https://www.youtube.com/watch?v=iB-WvzrKFfs で聞けます。
 この、”I’ll Be Stronger”こそが、「徹子の部屋」で黒柳徹子さんに圭子さんが聞かせた娘宇多田ヒカルさんの歌声です。当時13歳の娘の宇多田ヒカルの歌声が収録された歌声を紹介し、「本人は子ども子どもしていますが、歌うと大人っぽいと言われる」と明かした。黒柳さんは圭子さんもそうだが、歌詞の意味がわかってなくても人生をわかっている感じに聞こえてしまうのが、天性なのでしょうねと語った。※藤圭子1996年11月26日「徹子の部屋」https://www.youtube.com/watch?v=ekChts5R3kE

 1994年4月 センチュリーレコードより、「酒に酔うほど/婚約解消」をリリース。同年6月、波乱に富んだ人生をインタビューを交え振り返る。最後の方で娘のことを聞かれ、こう答えている。「娘を歌手にですか?おそらく本人がそういわないと思います。でも、ひとつの人格として認めていますから、好きなようにさせるつもりです。ただ自立するまでは親の責任ですから、それは果たします」と。同年10月、藤圭子と石坂まさをの「うたものがたり」を描く。川端康成との交流についての貴重な証言もあり、また、最終回の藤の言葉、「人生って苦しいことの方が多いけど、歌があったからまあいいっか、と言えるような死に方をしたい」は味わいがあって、いかにも彼女らしい♪(あのうたが聴こえますか-戦後五〇年歌物語(毎日新聞社社会部編、音楽之友社、1995/5、絶版))

 1995年にヒカルさんは、小中一貫校の私立の女子校で清泉インターナショナルスクールに編入します。圭子さんは、自身が学力優秀であったにもかかわらず中学校を出てすぐに歌手となっていることから、娘光(宇多田ヒカル)には、高等教育を身につけさせるべく努力をしています。また、デビュー前から同居していた石坂まさをに 「アメリカ人になりたい」と話し熱心に英語を学んでいたことから、インターナショナルスクールで英語による教育を受けさせています。
 さらに圭子さんは、身毒丸 (舞台作品) 劇中歌「藁人形」「エピローグ」を歌唱しています。1978年に紀伊國屋ホールで初演した寺山修司原作の同名の戯曲を、1995年に演出・蜷川幸雄、作曲・宮川彬良で舞台化したものです。一時引退中の圭子さんに演出の蜷川幸雄と作曲の宮川彬良両氏が依頼し、「面白そうだから」と圭子さんが引受けたとのことです。 そのほか、「乾杯トークそんぐ」で藤圭子は『みだれ髪』を歌っています。

 1996年、「1996年頃だった。新宿・歌舞伎町の台湾料理屋で宇多田照實さんと藤圭子と彼女を世に出した石坂まさをさんと、4人で会ったんだ。2時間ぐらいだったな。その時、デモテープを聴かされたけど、私は魅力を感じなかった。私は怨み歌の藤圭子が好きですから、そういうものではなかったから。本人は、演歌から転換したかったんだと思うけど、私は力を感じなかった。中途半端な歌謡曲って感じで、石坂さんも乗らなかった。ヒカルちゃんについては「この子はアメリカで歌の勉強をしているけれど、絶対にデビューするから」と自信満々に自慢していたけど、結局は石坂さんに自分を売り込みに来たんだよ」(大下英治氏談)
 8月、「天国」をリリース。(クラウンレコード)
 9月、「冷たい月-泣かないで-(with cubicU)」をリリース。(クラウンレコード)
 10月、「千年のかがり火 MY FRIENDS-春夏秋冬(めぐるきせつ)」をリリース。(クラウンレコード)
 10月15日、ほぼ半日、彼女は「多分、人生って苦しいことのほうが多いと思う」と僕(牧太郎:1944年生まれで毎日新聞の専門編集委員)に話し続けた。この日は(取材対象というより)「やんちゃな妹」、「言ってはならない秘密」を ”天使” のような明るさで話した。(牧太郎氏が毎日新聞の編集委員だった1996年に「高度成長と全共闘」の時代を「藤圭子の存在」を通じて描こうとして藤圭子に長時間のインタビューを行っています。僕が封印した藤圭子さんの「母」と「川端康成」)。
 会うと、必ず「無口な男性」がついて来る。取材が一段落して、新宿のバーで飲んだ時、部屋の隅に黙っている男性を指し「あの人は誰ですか?」と聞いたら「マネジャーよ」と言っていたが……後になって知ったのだが、その人物が「宇多田ヒカルさんの父」。何度も、結婚、離婚を繰り返した「お相手」だった。(藤圭子さんのことBy 牧 太郎2013年8月23日)

 歌手「藤圭子」は娘の宇多田ヒカルに対しては、同じ歌手の道を歩ませようと母としてより、歌手「藤圭子」として対峙し実現させます。しかし、一方で母としての接し方は不十分のように感じられます。そして、「藤圭子」と「宇多田純子」との間に大きなジレンマが生じる時期こそが、娘の宇多田ヒカルの歌手デビューの時期と重なるのです。

 ヒカルさんは、自分が「発信者となり、親は受信者となった。それは禁忌的な快感だった。初めて私の訴えが親に届いた気がした。しかも、それは音楽にさりげなく隠されていた。ニンジン嫌いの子供をだまして、巧みにニンジンを隠した料理を食べさせたような、密かな勝利だった。れはレコーディングを経て、12インチという形あるものになった。どういうわけかアメリカのEMIとアルバムを作ることになった。今思うと、歌手になりたいなんて考えたこともなかった私がなんでそんなこと引きうけたんだ、って不思議だけど、12才の私は何も考えずにどんどん歌を書いて、レコーディングした。「できない」って言いたくなかった。それに、親ががんばってとりつけてきた話を断れなかった。アルバムでけた。そしたらなんかEMI USAなくなっちゃって、宙ぶらりんになってもうた。別になんとも思わなかった。なにも変わらなかった。ただ、「制作に関わった人間とお金やら権利やらのトラブルがいくつも起きて、社会勉強になった。憤りはなく、そういう人たちはそういう人たちなんだ、と思った。父も母も甘いな、とちょっと思った」と言っています。

 1997年にCubic U「U³」としてソロシングル『Close To You』(あの兄妹デュオ「カーペンターズ」の代表曲で、1970年のグラミー賞も受賞した人気曲の「Close To You」であり、一人娘の光が生まれた時書いた詩の一節「あなたが生まれたその日に 天使たちが集まって そして決めたのよ 夢を実現させようって」の「Close To You」である)とアルバム『Precious』を発表。1997年秋、東京のスタジオでレコーディングをしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰の目(東芝EMI(当時)のプロデューサー)にとまり 日本デビューを持ち掛けられるが、アメリカでCubic Uとしてソロデビューを控えていたが説得により1998年1月28日に『Precious』を日本で発売し12月に「宇多田ヒカル」としてデビューする事になった。藤圭子「夢」が実現した一瞬でもあった。

 そのときの様子をヒカルさんはこう綴っています。「14才のある日、学校の帰りに、親の仕事で都内のスタジオに寄った。そこでたまたま三宅彰という東芝EMI(当時)のプロデューサーの目にとまったらしいのだ。お、なんか中学生くらいの制服の女の子がいる、誰かなっ☆みたいな。後日、私のバックグラウンドを知った三宅さんから、日本語の曲を作ってみない?との連絡があり、またもや私は何も考えずに引きうけた。そして記念すべき☆日本語曲第一号“Never Let Go”ができた。で、スタジオでレコーディングする日がきた。14才のくそガキが生意気に歌入れをしきった。「今、地声で歌ったコーラスのとこ、裏声で重ねてみたいんだよね。バックボーカルとしてじゃなくて、シングルで、地声パートと対等のリードとして。じゃあ、はい、そこやりましょうか」とか。これが三宅さん的に合格だったらしく、東芝EMIとアルバムを作ることになった。15才になった。大好きだった部活(バレーボール、バスケ、陸上)もやめて、放課後と週末は制作に費やした。歌手デビューの契約をしたなんて気付かなくて、ただ自分を試したいだけだった。なんだかオラ、わくわくしてきたぞ。続いて出来上がった第二号と第三号を、一枚のシングル“Automatic/time will tell”としてリリースすることが決まった。1998年12月9日の朝、いつも通り少し寝坊をしてあわてて学校へ向かった」とあります。

 これを別の角度から見ます。1997年ヒカルさん14歳のとき「平成9年秋、三宅(宇多田ヒカルをデビューさせた東芝EMIの三宅彰氏)のところに、光の英語に歌を吹き込んだテスト版レコード「Precious」が回ってきた。…三宅は思った<日本人なら、なぜ日本語で歌わないんだろう。…作詞ができて、作曲もできるなら、日本語で歌うと、これはおもしろいじゃないか…>。...三宅は、宇多田照實に話しを持ちかけた。「お嬢さんに、日本語でチャレンジさせてみませんか...宇多田照實は、困惑した表情になった」。…「光は、やっぱり日本語で歌えないじゃないかと思ったが、光は負けず嫌いなんで、「いや、やってみる」と引き受けたんです」…この年に、Cubic U(宇多田家の3乗の意)としてアメリカで英語でうたったソロシングル「Close To You」とアルバム「Precious」を発表。(大下英治「悲しき歌姫」より)。圭子さんは、この頃「曲を作るプロデューサーとしてもやっていきたい」と話しています。(1997年5月の週刊読売)

 宇多田ヒカルの日本での歌手デビューは、前述のとおり東芝EMIのプロヂューサー三宅彰氏から有限会社ユースリー・ミュージックの社長である宇多田照實氏に持ちかけられたことからはじまっており、照實氏にとってもビッグチャンスだったに違いないのです。これまで圭子さんが、宇多田ファミリーの大黒柱で、圭子さんの地方営業で家族は食いつないできたのですが、こんどこそ「俺が」と思ったのでしょう。
 東芝EMIではもともと宇多田ヒカルを「アメリカからの帰国子女」として売り出しており、当初は宇多田ヒカルの経歴の多くは明らかにされませんでした。これこそがプロモーションの戦略のひとつでもあったのです。ですから、

 1997年に娘の宇多田ヒカルがデビューし、1998年にリリースされたデビューシングル「Automatic/time will tell」が、累計出荷枚数255万枚という驚異の大ヒットします。1999年は藤圭子さんにとって、久々に脚光を浴びた年でありました。デビューした娘の宇多田ヒカルさんのファーストシングルがいきなりミリオンセラーを記録(累計出荷枚数255万枚)。希代のヒット歌手の母親として、ガゼン世間から注目を集めたのでした。それにより生み出された莫大なお金が、照實氏が社長を務める「有限会社ユースリー・ミュージック」に入り始めます。 ヒカルさんが日本音楽史上空前の大ヒットを記録した時、照實氏はベンツに乗り、宇多田は仕事でワゴン車を使うようになっていました。いつしか3人で地方巡業に使った「ミニ」はホコリまみれで忘れ去られ、藤さんは「またあの時のように3人寄り添うように乗りたい」と話していました。 

 同時期宇多田ヒカルがデビューする直前の1998年11月13日、圭子さんは、極悪ヤミ金業者として社会的批判を浴びていた日本百貨通信販売の杉浦治夫社長から "おひねり”をもらっています(1万円札5枚)。写真に写っている圭子さんの隣の男性は広域指定暴力団・極東会の松山眞一会長だったのです。
 開催場所の「東方会館」では、約四百人収容する宴会場がほぼ満席となった。「ディナーショー形式のパーティで、メインは東映のヤクザ映画の常連だった俳優の岡崎二朗さんでした。『男の道』や『同期の桜』など十曲ほど歌い、殺陣のシーンも演じました。特別ゲストとして藤圭子さんも出演し、もちろん『圭子の夢は夜ひらく』も歌いました。ただ、いつものような直立不動の姿勢でなく、ポップ調にアレンジして踊りながら歌っていました。娘の宇多田ヒカルの影響なのかもしれないけど、あんな風にしなければいいのになって思ったのを覚えています」(パーティー参加者の一人)。
 パーティー会場の人海を嬉々として泳ぎまわる怪人物がいた。日本百貨通信販売の杉山治夫社長である。「悪徳金融業者」「残酷取立て王」と言われ、腎臓売買もビジネスにしたいわくつきの人物だ。あまりに過激な銭ゲバぶりに、債務者ばかりか視聴者や読者からも憎悪の的になっていました。
 「おひねりのつもりなのでしょうか。彼(杉山会長)はショーの最中にステージに何度となく駆け寄り、割り箸に四、五万円の現金を挟んで出演者に渡していましたよ」(別の参加者)このパーティーの主催者は、池袋にある会社のオーナー会長で、山瀬晃氏(仮名)という人物である。パーティーの件を聞くと、困惑しながらも話してくれた。「私は亡くなった浪曲の玉川良一先生とおつきあいさせて頂いただいていまして、先生のお弟子さんが岡崎二朗さんでした。あのパーティーは岡崎さんのために開いたものです。藤圭子さんは岡崎さんが呼んだと思います。…1980年代末頃まで芸能界・芸能人と暴力団、ヤクザとは密接な関係がありました。興行から得られた利益の一部が暴力団の資金源となっていたこと、芸能人が興行を行う演芸場などは地元の暴力団が押さえていることが多く、興行を行うためにはその暴力団と良好な関係を保つ必要があったこと、トラブル解決のために暴力団の力を借りる芸能人が少なくなかったこと、などが、芸能界・芸能人と暴力団とが密接な関係を保っていた理由です。1992年の暴力団対策法施行により、週刊誌・写真誌は“黒い交際”のある芸能人を暴こうと報道合戦を繰り広げていました。藤圭子もその対象の一人であったのです。

 1998年に『Automatic』でデビューした宇多田ヒカルさん。デビューした頃にはアメリカンスクール・イン・ジャパン(ASIJ)に転校します。ASIJは明治35年(1902年)設立の日本は最も古いアメリカンスクールです。大学進学率も、ほぼ100%の進学校としても知られています。宇多田ヒカルさんの成績はオールA+(オール5)に近い成績だったようです。また学業優秀な宇多田ヒカルさんはこの学校でも1年飛び級します。そして17歳で、この学校のハイスクールを卒業したそうです。ASIJ卒業後、宇多田さんはコロンビア大学バーナードカレッジへ進学します。

 当初はヒカルさんの正体を隠して活動していました。無名の帰国子女との演出でしたが、1999年、藤圭子の実の娘であることが公表されると、照實氏や東芝EMIなどヒカルさんサイドの要請で、暴力団体質があった「藤圭子」を歌手封印させています。

 そしてヒカルマネーが入り出した2000年に、またもや圭子さんは離婚騒動を起こしています。この騒動では結局離婚はしませんでしたが、マスコミ各社を動員して照實氏の不倫相手に詰め寄る直前まで行きました。9月発行の文藝春秋にTVレポーターの梨元勝氏が書いた記事を紹介します。

 「1月の末だと思います。僕が今出ているテレビ朝日の『スーパーモーニング』のスタッフルームに、藤圭子さんから電話がかかってきたんです。彼女はいきなり「宇多田さん(圭子さんは夫の照實氏をこう呼んでいます)が、家族で経営する事務所「U3 MUSIC」の事務所の女の子と浮気している」という。その女の子は去年の6月に知人の紹介で入ってきた。最初は家族3人でやっていた事務所ですが、忙しくなって経理のできる女の子を入れたんですね。非常にテキパキ働く子だっだらしい。

 彼女が言うには、そういう女性がいるんだけれど、私(圭子さん)がいくら宇多田さんに言っても、邪推だ、思い込みだと言って取り合ってくれない。だから何とか裏付けを取りたい。取材してくれないか?と言うんです。「お金がかかるのか」と聞くので、「それは違う。僕たちは探偵事務所じゃないので、テレビで放送できるということなら取材します。あくまでも取材ですよ」と言ったんです。

 女性の名前を仮にM子さんとしますと、彼女(圭子さん)は「M子さんが住むマンションに宇多田さんが来るんじゃないか」と言うわけです。僕が行くと目立つので、内輪の人間に頼んでその部屋に見に行ってもらった。結果的には部屋には誰も住んでいないんじゃないか、という返事でした。電気のメーターが回っていないんですね。それが1月の終わりから2月の初め頃の話です。

 その後、2月7日以降のことですが、突然彼女(圭子さん)から電話がかかってきたんです。「私はもう絶対信じられない。宇多田さんは彼女(M子)と親密なんだ、私はその現場を見た」という内容でした。その時は言わなかったけれど、彼女は自らM子さんの部屋の前で張り込んでいたんですね。

 2月7日、彼女はM子さんのマンション前でずっと張り込んでいた。そうしたらM子さんを送って宇多田さんが一緒に車で来た。もちろん、宇多田さんは自宅に帰ったんですが、彼女(圭子さん)はM子さんの部屋に行ってM子さんを問い詰めるんです。「一体どういうことなんだ」と。ましてや、M子さんは自分の会社の社員ですからね。そして家に帰って宇多田さんと大喧嘩になる。彼女(圭子さん)が家を飛び出した、というわけです。彼女(圭子さん)がはっきりそう言ったわけではありませんが、その後かかってくる電話の端々から、僕はそういう事情を知ったんです。

 ヒカルは彼女(圭子さん)と一緒にホテルに移ったんです。というのは(圭子さんとの)電話で喋っている合間に、彼女(ヒカルさん)が「いってらっしゃい」なんて言うんですね。「今、ヒカルが椎名林檎のコンサートに出掛けたのよ」と。(ヒカルさんと圭子さんは、事務所兼自宅のU3 MUSIC」の事務所からM子さんが住むマンションに引っ越ししたようです)

 しばらくすると突然、彼女がトーンダウンするんです。「あの時はもう自暴自棄になっていた、もうどうなってもいいと思ったけれど、ハッと我にかえったんです。私がいなければ、ヒカルの面倒は誰がみるの、ヒカルは駄目になってしまう。夫もどうなってしまうかわからない。それで私は何とか気持ちを取り直したんです」と言うわけです。彼女(圭子さん)の電話はいつも、前後の説明抜きで一方的に始まるので、こちらはリアルタイムではよく事情が飲み込めないのですよ。

 じゃあこれで納まるのかな、と思っていたら、またすごい騒ぎになるんです。2月の後半から3月初めのことです。確定申告の時期がやってきた。「もう信じられない。宇多田さんが女性問題に続いて、また理解できない行動を取り始めた」と始まった。要するに、U3の経理問題なのですが、プロデューサーの印税は宇多田さんに振り込まれ、作詞作曲の印税はヒカルに振り込まれるはずだ。ところが、これ(ヒカルさんの作詞作曲の印税)が去年の2月から支払われていない。
 「私は東芝EMIに行って全部調べた。一番わからないのが、歌唱印税だ」と彼女は言う。歌唱印税は新人歌手の場合、ヒットするかどうかわからないから、けっこうアバウトに決められるらしいんですね。これは事務所宛に振り込まれるのですが、これもどうなっているかわからない。「絶対おかしいわ」となるんです。それが数日間続く。

 ところが確定申告の直前にまた電話がかかってきたんです。「梨元さん、ごめんなさい。あれは私の間違いだった。宇多田さんはヒカルと私のために一生懸命考えてくれて、最終的にそれは給料やボーナスの形でちゃんと振り込まれていた。私たちのためを考えてくれる素晴らしい人だったんだ」と言い始めるんです。その頃、僕たちは彼女の言に従って、宇多田氏の名前こそ出していないけれど、「宇多田ヒカルに印税問題が起こっているようだ」とテレビで報道しているんです。エーッてなもんですよ。

 というわけで3月の後半に、いったん彼女の気持ちは宇多田さんのもとへ戻ってしまうんですね。その時はまだ、彼女が梨元と話をしているとは、宇多田さんは知りません。彼女は急に、「いろいろ聞いてもらったけれど、もう連絡しません。これを最後にしましょう」と電話してきた。なんだか別れ話みたいになっちゃったんです(笑)。

 ところが4月15日にまたすさまじい事件が起きるんです。いままでのように電話がかかってきて、「梨元さん、聞いてください。私(圭子さん)は許せない。あの人(照實氏)が私に暴力を」と。数日後にわかるのは、4月の初めから1週間、宇多田さんはヒカルとニューヨークにレコーディングに行ったんですね。帰ってきたあと、数日の間行方不明になってしまう。連絡がとれずに東芝EMIも困ってしまう。この間、M子さんと一緒にいるんじゃないかと彼女は疑うわけです。

 帰ってきた宇多田さんが後で言うには、仕事先の大宮で熱を出して入院してしまった、と。彼女はまだ疑っているから、事務所を出た宇多田さんをつけるわけです。宇多田さんは車で移動するかと思ったら、歩き始めちゃった。彼女も歩いていたら、永田町のあたりで隠れるところもないですから、すぐにバレてしまった。「おまえ、なんだ」と言うので、口論になって突き飛ばされた、と言うんです。

 5月の31日に、僕が彼女(圭子さん)の携帯に電話したんです。そうしたら、「梨元さん、今日は私は本当に嬉しかった。ヒカルの卒業式だったんですよ」。僕は知らなかったんですが、『調布の森』というところで夕方からアメリカン・スクールの卒業式(小中一貫校の私立の女子校で清泉インターナショナルスクール)が行われたそうなんです。彼女も参加したし、宇多田さんも来てくれた、と。その頃宇多田さんは事務所に泊まっているなどと言いながら、彼女(圭子さん)とヒカルが生活するホテルには帰っていない。仕事の時にヒカルを迎えに来るだけなんです。ところが、「宇多田さんもとても喜んでくれた。家族の絆って本当に素晴らしいと、今日は実感しました。私たちは幸せなんです」と彼女は言う。

 ほんの数日前には、「私たちの泊まっているホテルに宇多田さんの車が止まっていた。絶対に同じホテルでM子さんと会っていたんだ。許せない」などと言っていたんですよ。僕も疲れちゃったから、「わかりました。本当にもう円満にしてください」と言って電話を切ったんです(笑)。

 そのうちに、彼女(圭子さん)が原因というわけではないけれど(笑)、僕(梨元氏)が肺炎で熱を出して入院したりして、6月の初めから3週間ほど大変でした。忘れもしない6月21日の夜。僕は病院で点滴を受けていたんです。もちろん携帯電話は切っています。でも虫の知らせか、電源を入れたらメッセージが1件残っていた。聞いてみたら彼女の声で、「梨元さん!」って、もう点滴の針が抜けそうな勢いなんです。
 「見つけました!実は今、新宿の○○ホテルに来ているんですが、ここに宇多田さんがM子さんと一緒に泊まっていまして、部屋番号は4401です。今日は私、夜遅くまでここにいるつもりです。宇多田さんは今外に仕事に行っています。中にいるM子さんは中からロックしていてドアは開きません。こういうことで、二人は同棲しているとわかったので、もう肩の荷がおりました。離婚を発表します。二人を取材してほしいから、すぐに来てください」ということなんです。そうは言っても、クレージーキャッツのコントじゃないんだから点滴刺したまま行けませんよ。...

 彼女(圭子さん)はすでに、別のフロアにスイートルームを取って、部屋に入っていた。二人の部屋の前まで行ったけれど、フロアの責任者がきて、「ここは宇多田さんのお部屋ではありません。お引取りください」と言われた後だったんですね。別のスイートで、4401の部屋にいる人と連絡が取りたい、返事を下さい、とホテルの人と交渉し続けたけれど、M子さんが宇多田さんに連絡を取ったので、結局彼はそこに帰ってこなかったんです。「確証をつかんだのだから、もう離婚します。明日記者会見します」と彼女は言いました。

 翌日、僕は『スーパーモーニング』でこの件について放送している。取材のために彼女がホテルから連絡を取ったスポニチは朝刊で「離婚」と報じている。昼過ぎに東スポ(東京スポーツ)が出たら、僕が「彼女から電話があった」と書いている。それはそうですよ。だって、彼女がそう言ったんです。ところが、その後彼女の気持ちはまた変わってしまうんです。

 「東スポの記事を見て、宇多田さんがすごく怒っている。おまえがしゃべたんだろうって激怒しています。私が梨元さんに「宇多田が殴った」とか、いろいろ言っているから、本当に怒っていますよ。1回くらいなら喋ったと言ってもいいですけれど、後は自分で調べたということにしてほしかった。本人は私に、いまに見ていろ、おまえに復讐してやる、と言っています。すごく怖い人ですよ。おまえをクビにするのは簡単だ、給料もやらない、ツアーが終わったらおまえをどうにかする、と脅かしています。クビになったら私はどうしたらいいんですか」と言うんです。

 ちょっと待って下さい、あなたは何も悪いことしてないんですよ、僕が言うのも僭越ですけど、これは宇多田さんの女性問題なんですよ、と言っても、「それはそうなんだけれど、怖いんです」と、完全に主客転倒しちゃってる。

しばらくしたらまた電話がかかってくる。

 「さっきはちょっと言いすぎました。梨元さんは梨元さんで、私のためを思って書いてくれたと思いますけれど、私があまりしゃべっていると宇多田さんに知られて困ったな、と思ったんです。内容は別に間違っているわけではありませんし」と言う。もう何だかわからない。2,3日後、僕が正式な退院間際に地方で仕事をしていたら電話がかかってきた。結局はこういうことなんです。

 「M子さんがあのホテルを出ました。今はもう二人がどこにいるのか、よくわかりません。私が言いたいのは、とにかく私は離婚したいのだけれど、宇多田さんが離婚したくないと言うんです。宇多田さんがまた怒ったら困るんですが、私としては子供のためにも考え直して3人でやっていきたいと思っていますので、どこかでそう伝えて言っていただければいいんですけど、宇多田さんには宇多田さんの考えがあって行動しているんだろうから、宇多田さんが好きなようにできるよう、サポートしていくのが妻の役目だと思っています」、「じゃあ、許すんですか?」と聞くと、そこは理路整然としていて、「許すということは認めることだから、嫌だ。ヒカルのためにも私がこれ以上追求しなければいいんだ」と言うんです。

 「宇多田さんはタレントじゃないから記事を書かれてすごく苦しんでいる。私は何を書かれても慣れていますけど、彼は悪者に書かれて苦しんでいる。19年間、彼は私にはとてもいい人だったし、彼のおかげで人生、助けられたと思っていることがたくさんあるので。私がただヤキモチをやいて、離婚だって騒いだけど、忙しくて彼もイライラしていたんでしょう」、「タレントじゃないといったって、彼はインタビューを受けていますし、完全な一般人じゃないですよ」と僕が言っても、「いいんです。彼は今回のことで、みんなにひどいひどいと言われたけど、私たちのために10倍、20倍、30倍も働いてくれた。私たちのことを思っているとわかりました。宇多田さんとヒカルにめぐり合ったことを神様に感謝して生きてきたのに、こんなことぐらいで私が騒いで、宇多田さんやヒカルに迷惑をかけてしまった。宇多田さんのこと、もうこれからは何も言いません」と。

 また違う日には「梨元さん、18歳になったら、子供は親を選べるんです。だからヒカルが18になるまで待てばいいんです。でも長いですよ」と言う。長いと言っても、あと半年かそこらですよ、と言うと、また別の日に、「ヒカルが20歳になるまで見守りたい。親子3人でニューヨークに行って暮らしたい」と言う。毎日のように気持ちが変わってしまうんです。ともかく、一貫しているのはヒカルのために我慢するんだ、ということですね。それから彼女独特の哲学があるんです。僕が「宇多田さんが彼女(M子)と別れればいいじゃないですか。ここまで家族を追い詰めて、彼は一体、何をやっているんですか」と言うと、「そうじゃないんです。私は、人が誰かを好きになるのは止められないと思っている。その人の気持なんだから、彼女(M子)と別れてくれとは言えない。でも、結婚していれば誰かが苦しむ。当然、私が苦しめられる。これは嫌だから、私と別れてほしい。私を解放してほしいんです」と。

 「藤さん、これは宇多田さんの浮気なんですよ」と僕が言ったら、「男は浮気するでしょ。梨元さんは浮気したことないんですか」と逆に聞かれて、「いやいや、それはべつに」と黙ってしまいました(笑)」。圭子さんの言っていることが日によって全く変わってしまうので梨元氏も対応に面食らったと思います。圭子さんは照實氏の浮気でストレスフルな状況だったのでしょう。感情が不安定になっています。照實氏の浮気問題の渦中で、ある日には照實氏を非難していたのに、別のある日には照實氏を称賛しています」。

 この離婚騒動ではヒカルさんもかなり精神的につらい状況に立たされたようです。2000年7月の週刊文春に宇多田家をよく知る知人が藤圭子から聞いた話が掲載されています。「知人」に藤はこんな秘話まで打ち明けていました。「杉並の自宅で生活している頃、ヒカルが何度も涙を流しながら、「私、ノイローゼになりそう。もう、どっちの言い分も聞きたくない」と、大きな声で訴えたことがあったんです。ホテルに移ってからも、3月初旬にバスルームで壁を叩きながら大声で泣いたことがありました。これは私達のことだけでなく、レコーディングなど、いろいろなストレスが溜まっていたのだと思います。(中略)ヒカルは「苦しいけど、自分のため、ファンのためにやっているんだ」と、外向けには明るく振る舞っていたんです。ヒカルのためにも、私は一刻も早く、落ち着いた生活を取り戻したいんです」。 ヒカルのためにも離婚騒動にケリをつけたいという母親としての藤圭子の思いがうかがえます。

 このときの離婚騒動では、藤圭子はスポニチの圭子番記者である阿部公輔氏にも約半年間に渡って連絡を取っており、6月21日には照實氏の不倫相手がいるホテルに阿部公輔氏を呼び出しています。2013年8月27日のスポニチから引用します。

 「毎日連絡があった。宇多田のデビュー翌年の2000年頃は1日に6、7回電話があり、時間の感覚を失っていたのか、午前4時ごろにかかってくることも。宇多田に「嵐の女神」という歌があるが、藤さんからの電話はまさに「嵐の前兆」で、家族など周囲への不満が爆発した時。ひたすら、なだめるしかなかった。それが噴火してしまうのが、2000年6月の離婚騒動。半年近く本人を説得してきたが「不倫現場をつかみました。離婚届に判を押します。阿部さんが来ないなら、ほかにしゃべる」と言うため、西新宿のホテルへ急行。すると、不倫相手がいるというスイートルームのドアを叩きながら「ドアスコープ」と呼ばれる小さなレンズをのぞきこみ「いるいる!」と叫ぶ。外から部屋の中を見ることはできないのに。でも、別部屋で落ち着かせて、しばらくなだめると「宇多田(照實)さんは自分を人生のどん底から救ってくれた人」と言う。生前、照實さんとの離婚回数を「書類上6、7回。実質は13回くらい」と明かしていた。

 「人生のどん底」というのは、一時引退した1980年に一緒に暮らすはずだったジャーナリストの沢木耕太郎に裏切られたときのことを指しているものと思われます。(筆者は、人生の目的を失っていた時期にの意だと思っているのですが...)そのどん底状態を救ってくれたのが照實氏でした。圭子さんは照實氏の不倫現場を押さえて離婚宣言をしますが、その3日後に撤回しています。

 宇多田ヒカルさんも、「笑っていいとも」(フジテレビ)の出演した頃のことでこんなことをつづっています。「 ありゃあアレだね、その日に親のことをいろいろ報道され始めたからだろうね。いろんな記事があってどこまでが事実でどこまでが嘘なのかもう把握できる範囲外って感じだけど、私よりも周りの人たちが気にしてるみたいでなんか悪いなー!私、自分の恋愛に親に口出ししてほしくないから、自分も親の恋愛には口出ししないようにしてるし、あんまり興味無いのね。(そういう考え方って変??私のおかしなモラルの中ではとても筋の通った哲学なんだが・・・)幼少時に積み重ねた経験のおかげで今となっては私離婚と再婚のプロだし(笑)感覚もおかしくなるわなそりゃ。(Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikki より)」と。

 梨元氏は「彼女の電話はいつも、前後の説明抜きで一方的に始まる」と書いているように、藤圭子は相手の立場にたって、相手に気を使う、ということができなかったようです。同じようなことは石坂まさをもその著書『きずな』で書いています。ヒカルを歌手に育てるために日本と米国を往復しながら生活していた時、ヒカルに出国することになることを出国日の前日になってからようやく話した、というエピソードも納得できる気がします。

 日によって感情が不安定になっていた藤圭子ですが、最終的には照實氏を理想化しています。藤圭子にとって照實氏は時々問題を起こすことがあったとしても、結局はパートナーとしての関係を続けていきたい大切な存在だったのでしょう。

 また引用します。「すでに本誌(「噂の真相」)が昨年6月号(5月号?)の特集記事でも報じているように、宇多田ヒカルが大ブレイクして以降、その仕事を一手に仕切ってきた照實は藤をないがしろにするようになっており、その関係は破局寸前だったのである。「照實の浮気相手は、『有限会社ユースリー・ミュージック』で経理などを担当していたスタッフのMって女性なんだけど、ホテルでの"同棲"が藤にバレてしまった。それでキレた藤がマスコミを使って反撃にでたんだ」(前出・スポーツ紙芸能記者)

 同時期にやはり所謂ヒカル・マネーの使途について、音楽評論家の小西良太郎氏は、藤から電話をもらったという。「会うと彼女は「私、事務所の副社長なのに、方向性を断片しか知らされていない。ヒカルと夫だけで話が進んでいって、仲間外れにされている」と愚痴るんです。しかも、お金を一銭ももらっていないというから、それはおかしいと言って弁護士を紹介しました。そうしたら1ヶ月くらい後に「ありがとうございます。解決しました」とお礼の電話があった。「良かったね、いくら入ったの?」と聞いたら「2億円」って言うから、あまりの額の大きさに絶句してしまいました」と。

 このような状況下の7月、宇多田のファーストツアーの札幌でのステージ。宇多田の「ママー」という呼びかけに応えて舞台に上がった藤さんは、娘(ヒカルさん)とともに「圭子の夢は夜ひらく」をデュエットした。その日は夫・照實さんの誕生日だった。会場にいた札幌在住の音楽ジャーナリスト・内記章さんは、藤さんの幸せそうな顔が脳裏に焼きついていると話す。「藤さんは娘の活躍が嬉しかったんでしょうね。当時、メディアにはほとんど出ていなかったので、突然の登場に驚きました。ヒカルさんは、藤さんが歌うのを、横から温かい目で見守っていました」。もしかすると、この頃が彼女の幸せの絶頂だったのかもしれない。

 この離婚騒動ではヒカルさんもかなり精神的につらい状況に立たされたようです。2000年7月の週刊文春に宇多田家をよく知る知人が藤圭子から聞いた話が掲載されています。「知人」に藤はこんな秘話まで打ち明けていました。「杉並の自宅で生活している頃、ヒカルが何度も涙を流しながら、「私、ノイローゼになりそう。もう、どっちの言い分も聞きたくない」と、大きな声で訴えたことがあったんです。ホテルに移ってからも、3月初旬にバスルームで壁を叩きながら大声で泣いたことがありました。これは私達のことだけでなく、レコーディングなど、いろいろなストレスが溜まっていたのだと思います。(中略)ヒカルは「苦しいけど、自分のため、ファンのためにやっているんだ」と、外向けには明るく振る舞っていたんです。ヒカルのためにも、私は一刻も早く、落ち着いた生活を取り戻したいんです」。 ヒカルのためにも離婚騒動にケリをつけたいという母親としての藤圭子の思いがうかがえます。

 2001年に、宇多田照實氏の元愛人と騒がれた事務所の元社員のMさん(当時27歳)が、実は人気AV女優 鏡樹里亜だったことが発覚します。 (東スポ、2001年) 「宇多田照實氏は、ヒカルの威光をカサに愛人を作る。所属の東芝EMIには無理難題を押し付ける」ことを見かねて、芸能界の実力者が、圭子さんに音楽出版社を作ろうと提案。 “宇多田パパ外し”を画策しているという話しがでたのです。(2001年、東スポの記事 )また、東芝EMI関係者のコメントとして「愛人を作るのは勝手だが、 愛人の「お手当て」をレコード製作費でまかなうのはやめてほしい」、 照實氏はヒカルのシングルCDが出るたびに、5000~6000万円を要求するそうで 「曲が売れるのでメーカーは何も言えないのが実情。レコード製作費の一部が私物化している」と言い、この横暴を止めるべく、「不倫夫 宇多田照實外し」で圭子さんに音楽事務所を設立をもちかけ、まわりもその動きに賛同しているという話さえありました。
 さらに藤圭子は、宇多田ヒカルのコンサートを開く権利を無断で第三者に売ろうとしたことが発覚します。これは、ヒカルさんの「お金」を照實氏が独占しないよう圭子さんのヒカルさんに対する精一杯の気配りでした。しかしこれさえ、報道によると「宇多田ヒカルさんのコンサート開催権利を他人に譲渡し(藤圭子の利得にし)ようとして宇多田照實さんと対立したこと」を理由に、宇多田ヒカルも父宇多田照實とともに対立していたと言うのです。
 このような家庭内不和は、娘ヒカルのプロデュースをめぐって藤圭子と照實氏のあいだで「ヒカルをここまで成長させたのは私よ!」などと何度も揉めています。藤圭子は演歌歌手から脱皮しロック歌手としても力量をたくわえていましたが、照實氏は地方巡業での藤圭子の評価のままで、ヒカルマネーの額に目を奪われ、藤圭子の先駆性、天才的素質への理解が足らず、照實氏にもヒカルさんにも理解されず、第三者に直訴のような形で次のように発言しています。「私は何を言われても音が好きだったし、スタジオにいることが、本当に大好きで、大好きで・・・どうしても、何があっても音楽だけはやりたいと思っていたから・・・。一番音楽の決め手となるところは、わびさび・味・一本調子じゃないところ。ひどいサックスのピーとかプーとか、音が上がりきらないのにOK出して、で、「あと大丈夫。作業するから」って。何でも機械で、音程が悪けりゃ何でも機械を使って直せるんだって。音楽ってそんなもんじゃないでしょ!心でしょ!気持ちの入らないもの。音程狂ったけど機械で直して人に伝わる?伝わらないよ。そんなの音も何も響いてこない」と述べています。

 しかし、ヒカルと照實氏は宇多田ヒカルとしての新曲づくりを優先します。ことあるごとに、ヒカルをここまで成長させたのは私よ!と言い出す母の姿を見て、母娘 関係も険悪になっていきました。ヒカルさんは照實さんと行動を共にし、母を避けるようになったんです」(音楽関係者)。そんな互いを支え合う父娘の姿を見て、藤さんは疎外感から、さらにヒステリックになっていきました。 「ヒカルさんと照實氏はギリギリまで我慢していましたが、それがつに限界に達したある日、ついにヒカルが「出て行って」とブチ切れてしまったというのです。(ヒカルはついに母親に「もうこの場にはいないで」と絶縁宣言をしてしまったのだといいます。

 藤はこの一言をずっと引きずっていて、「家には帰れない。娘に嫌われているから」と繰り返していました。ヒカルは本当は話しかけたくても、母親のほうから頑なに没交渉だったのです」とあります。(芸能関係者)※AERA 2013年9月9日号

 2002年は、ヒカルさんと圭子は別居し距離を置くことになります。同年4月には、ヒカルさんに卵巣嚢腫が見つかった年でもあります。また、9月にヒカルさんは、映像作家の紀里谷和明氏と結婚しますが、この時も、夫となった紀里谷氏から圭子さんに「役員を外れてほしい」と切り出されます。そのときは、役員を外れませんでしたが、結局2003年に、ヒカルさんのプロデュースに口を挟まないことを条件として、圭子さんに手切れ金として多額のお金が支払われます。
 その額は、圭子さんの2004年の納税額は5966万円からの推定年収は1億6800万円であったと言います。2000年の役員報酬を含めると3億6800万円余りを手にしたことになります。

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