覚え書き〜ヒカルさんの心の変遷

 1990年頃(ヒカル7歳のときに)一家でニューヨークに移住します。圭子さんは、娘のヒカルさんにR&Bのリズムを叩き込み、家族3人で世界を目指そうと考えていて、7歳のヒカル、母藤圭子と父宇多田照實と音楽ユニット(キュービックU(U³))を組んでいます。ヒカルさんは、インタビューで「急に学校から帰ったら「明日からニューヨークに引っ越すわよ」と言われたことを記憶しています。かくしてヒカルさんは、小学校(ニューヨークのThe Hewitt School)に入学します。ヒカルが2年生の時(1993年)、はじめて飛び級し4年生となっています。

 1993年ヒカルさん10歳のときに、当時ニューヨークではラップが流行っていて、ヒップポップなどリズム主体の黒人文化にハマった圭子さんは、夫の照實とともに有限会社ユースリー・ミュージックを資本金300万円で東京都杉並区に設立し、取締役社長に照實氏、圭子さんも自らも取締役になっています。そして、ヒカルさんを中心にファミリーで新しい音楽を作って世界で勝負しょうとしています。この頃の様子を宇多田ヒカルは「急に学校から帰ったら「明日からニューヨークに引っ越すわよ」。また2、3年経って「明日、東京に帰るわよ」って。

 ニューヨーク在中時代の宇多田ヒカルの母親(藤圭子)像は「ザ・芸能人」。「アーテスト(芸術家)肌」というイメージとともに、スタジオ代捻出の為、車を売ってたりする理解できない存在、つまり経済的合理性と相容れない「得たいの知れない存在」と考えていたようである。したがって、宇多田ヒカルの幼少期は経済的不安定さがつきまとっていたのである。

 家の中が険悪と思ったら、「もう二度と会えないよ、お父さんと。離婚しちゃった」とかそんなのばっかりでした」と言っている。

 宇多田ヒカルは、「一番音楽を聴きだした11歳〜12歳(1994〜1995年)の時期、母親が近所のヒップホップダンス教室に通い始めたんですね。見に行ったら超真剣で(踊っていて)。すごく時代を先取りする人だったんですよ。「この曲のキックドラムが凄い」とか「ノリが、グルーヴがどうだ」とか語ってて。で、家でそれまで目立ってたSadeとかThe BeatlesとかT-REXとかのCDより、もうCDプレーヤーの近くにDr.Dreの『The Chronic』とSnoop Doggy Doggの『Doggystyle』が並んで、それがめちゃくちゃ流れてて私も好きで聴いてました」と話しています。

 1994年6月 圭子さん43歳、ヒカルさん11歳、照實さん47歳のとき、藤圭子の波乱に富んだ人生をインタビューを交え振り返る。最後の方で娘のことを聞かれ、こう答えている。「娘を歌手にですか?おそらく本人がそういわないと思います。でも、ひとつの人格として認めていますから、好きなようにさせるつもりです。ただ自立するまでは親の責任ですから、それは果たします。」と。

 1997年にCubic U「U³」(宇多田ヒカルがメインボーカル)としてソロシングル「Close To You」とアルバム「Precious」を発表。1997年秋、東京のスタジオでレコーディングをしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰の目(東芝EMI(当時)のプロデューサー)にとまり 日本デビューを持ち掛けられるが、アメリカでCubic Uとしてソロデビューを控えていたが説得により1998年1月28日に「Precious」を日本で発売し12月に「宇多田ヒカル」としてデビューすることになります。

 1999年に宇多田ヒカルが「Automatic」で鮮烈なデビューを飾り、あっという間にミリオンセラーを記録、続くセカンドシングル「Movin'on without you」も大ヒットするのです。

 1999年ヒカルさん16歳のときに、2月17日 Movin'on without youリリースのセカンドシングル。ミリオン達成。日産『テラノ』のCMソング。4月28日 First Loveリリース。このタイトルのアルバムが日本だけで860万枚以上売り上げ、日本記録としてギネス認定。11月10日 Addicted to Youリリース。ミリオンセラー。1999年オリコン年間ランキング6位。シングルセールスでは2番目。Sony Red Hotキャンペーンソング。と一躍スターダムに躍り出た最愛の娘ヒカルさんについて、圭子さんは「最近は宇多田ヒカルの母親といわれています。それがすごくうれしんです」と言っています。
 ヒカルさんは一度だけ圭子さんに「(歌手を)やめたい」ともらしたときも、圭子さんは、平然と「じゃあ、やめれば?」と言っています。つまり、圭子さんは、後はヒカルさん自身が決めることだと考えたのだろうと思います。一方、ヒカルさんは。「さすが、藤圭子だな」と思ったそうです。

 2000年頃、宇多田照實氏の浮気騒動が起こります。圭子さんは照實氏さんの収入配分にも不信を持ち始めます。2000年1月末、「私は東芝EMIに行って全部調べた。一番わからないのが、歌唱印税だ」と藤圭子は言う。宇多田ヒカルの歌唱印税を巡って、新人歌手の場合ヒットするかどうかわからないから、歌唱印税は、けっこうアバウトに決められるらしいんですね。これは事務所宛に振り込まれるのですが、これもどうなっているかわからない。「絶対おかしいわ」となる。それが数日間続」き、事務所の社長であり夫の照實氏との仲が険悪になり、2月以降にヒカルさんと圭子さんは、「事務所兼自宅のU3 MUSIC」の事務所からM子(照實氏の浮気相手)さんが住むマンションに引っ越ししたようだと言います。

 圭子さんは、「2001年でした。ヒカルさんは藤さんに、もうこの場所にはいないで!と言い放ったことから、娘ヒカルの突然の「絶縁宣言」に、藤さんは動揺したのでしょう。当時付き合いのあった関係者に、もうヒカルとは会わないと漏らしていました」とあります。(https://anaenta.com/fujikeiko/)

 ヒカルが幼いころから藤は心のバランスを崩しており、2001年頃にはケンカをきっかけに、藤がヒカルを拒むような「没交渉」状態にあったと、芸能関係者は話している。

 2002年、ヒカルさんは、所謂「ヒカル・マネー」が両親の争いを生む元凶と思い、ヒカル夫婦自ら「所謂ヒカル・マネー」を管理をしようと、夫の紀里谷氏から圭子さんに「役員を外れてほしい」と申し入れをしましたが、結局、圭子さんは、役員は外れなかったと言っています。「家族からそんなこといわれると思わなかった。それから人間が信じられなくなった」、「ときには少し涙ぐむ様子で「ヒカルは冷たい」と何度も何度もいって...家族からもう完全に孤立しているという感じでした」といいます。(芸能関係者)この頃から「ヒカルは本当は話しかけたくても、母親のほうから頑なに没交渉だった」という状況が続くのです。

Letters 2002年 宇多田ヒカル
暖かい砂の上を歩き出すよ
悲しい知らせの届かない海辺へ
君がいなくても太陽が昇ると
新しい一日の始まり

今日選んだアミダくじの線が
どこに続くかは分からない
怠け者な私が毎日働く理由

ああ 両手に空を 胸に嵐を
ああ 君にお別れを
ああ この海辺に残されていたのは
いつも置き手紙
ああ 夢の中でも 電話越しでも
ああ 声を聞きたいよ
ああ 言葉交わすのが苦手な君は
いつも置き手紙

忙しいと連絡たまに忘れちゃうけど
誰にだって一、二度はあること

今日話した年上の人は
ひとりでも大丈夫だと言う
いぶかしげな私はまだ考えてる途中

ああ 花に名前を 星に願いを
ああ 私にあなたを
ああ この窓辺に飾られていたのは
いつも置き手紙
ああ 少しだけでも
シャツの上でも
ああ 君に触れたいよ
ああ 憶えている最後の一行は
「必ず帰るよ」

ああ 安らぐ場所を 夢に続きを
ああ 君に「おかえり」を
ああ この世界のどこかから私も
送り続けるよ
ああ 夢の中でも 電話越しでも
ああ 声を聞きたいよ
ああ 言葉交わすのが苦手なら
今度急にいなくなる時は
何もいらないよ

Tell me that you'll never ever leave me
Then you go ahead and leave me
What the hell is going on
Tell me that you really really love me
Then you go ahead and leave me
How the hell do I go on…

Tell me that you'll never ever leave me
Then you go ahead and…

※「ああ夢の中でも、電話越しでも、ああ声を聞きたいよ。言葉交わすのが苦手な君は、いつも置き手紙」とあり、藤圭子さんが何故ヒカルさんと「別離」したかについて、筆者はヒカルさんの楽曲づくりをすすめるため、照實氏と東芝EMI側が圭子さんに暫く(たぶん3年程度)ヒカルさんに会わないよう申し入れをしたのではと筆者は考えています。何故なら、圭子さんが「消息不明」の時期に、「ヒカルさんは周囲に母と会うことを禁じられ、3年は会っていなかった」ようですとのスポーツ紙デスクの話しもあるからです。

 結局2003年、圭子さんの了解のないまま、ヒカルのプロデュースに口を挟まないことを条件に支払われています。実際、2004年の納税額は5966万円からの推定年収は1億6800万円であったと言います。

COLORS 2003年 宇多田ヒカル
ミラーが映し出す幻を気にしながら
いつの間にか速度上げてるのさ

どこへ行ってもいいと言われると
半端な願望には標識も全部灰色だ

炎の揺らめき 今宵も夢を描く
あなたの筆先 渇いていませんか

青い空が見えぬなら青い傘広げて
いいじゃないか キャンバスは君のもの
白い旗はあきらめた時にだけかざすの
今は真っ赤に 誘う闘牛士のように

カラーも色褪せる蛍光灯の下
白黒のチェスボードの上で君に出会った

僕らは一時 迷いながら寄り添って
あれから一月 憶えていますか

オレンジ色の夕日を隣で見てるだけで
よかったのにな 口は災いの元
黒い服は死者に祈る時にだけ着るの
わざと真っ赤に残したルージュの痕

もう自分には夢の無い絵しか描けないと言うなら
塗り潰してよ キャンバスを何度でも
白い旗はあきらめた時にだけかざすの
今の私はあなたの知らない色

※「どこへ行ってもいいと言われると 半端な願望には標識も全部灰色だ 炎の揺らめき 今宵も夢を描く あなたの筆先 渇いていませんか」:母藤圭子の「夢」と宇多田ヒカルの「夢」が相容れない状態で、母ならどうするか考えはじめているのだろうか?

Devil Inside 2004年 宇多田ヒカル
They don't know I burn, they don't know I burn
Maybe there's a devil
Or something like it inside
Maybe there's a devil
Or something like it inside of me
Devil or something like it inside
Maybe there's a devil
Somewhere really deep inside me
Devil inside of me
Jealous angel deep inside me

※「私の中の悪魔 私の奥深くにいる嫉妬深い天使 」:藤圭子と宇多田ヒカルの別離の本質か?

ヒカルは当時の母への思いを2005年に発表した「Be My Last」で、こんな風に歌っている。

「Be My Last」(2005年)
 母さんどうして/育てたものまで/自分で壊さなきゃ/ならない日がくるの?/バラバラになったコラージュ/捨てられないのは/何も繋げない手/君の手つないだ時だって

 2006.04.12 おとっつぁん
 ずっとお父さんとは、仕事中心のわりとドライな関係だったんだよね。なんとなく武士っぽいというか、自分のことは自分でやるみたいな精神の漂う家系でね。お互いずっともっと近づきたいっていう気持ちはあったと思うんだけど。で、この一年くらいかな?お父さんに対する心の壁が低くなったのかな、私。最近は大事な話や心の問題やら、相談したり語り合ったりすることがある。こないだ東京がちょー天気良かった日、「ドライブしようぜ!」ってことになっていきなり湘南まで飛ばしたよ!二人とも初めての江ノ島まで行ってお茶してお土産買って帰った。こんなデートっぽいことお父さんとしたの初めてかも、、、(。- -。)ポッ

  離婚と再婚を繰り返していた両親は07年に最後の離婚。ヒカル自身も同時期、02年に結婚した写真家で映画監督の紀里谷和明氏と4年半で離婚し、10年には「人間活動」に専念するため、無期限の活動休止を発表した。
 このとき発売した2枚組アルバムに収録された5曲の新曲をみると、ヒカルの心に変化が見える。雑誌のインタビューで、過去との和解や、恐怖と向き合うことをテーマにしていると語っていた。
 その中の1曲、「嵐の女神」ではストレートに「お母さん会いたい」と、祈るように歌っている。精神科医で医学博士の西多昌規さん(当時43)は、こう読み解く。

「『Be My Last』の歌詞から感じられるのは、私は理想の母を求めているのに、どうしてそうじゃないのですか? という娘の怒り。『嵐の女神』を書いた5年後は、彼女の成長とともに、母の状況を少しずつ受け入れている様子がうかがわれます」

*  *  *
「嵐の女神」2010年 宇多田ヒカル

嵐の女神 あなたには敵わない
心の隙間を埋めてくれるものを 探して 何度も遠回りしたよ
たくさんの愛を受けて育ったこと どうしてぼくらは忘れてしまうの
嵐の後の風はあなたの香り 嵐の通り道歩いて帰ろう
忙しき世界の片隅 受け入れることが愛なら
「許し」ってなに? きっと… 与えられるものじゃなく、与えるもの
どうして私は待ってばかりいたんだろう お母さんに会いたい
分かり合えるのも生きていればこそ 今なら言えるよ ほんとのありがとう
こんなに青い空は見たことがない 私を迎えに行こう お帰りなさい
小さなベッドでおやすみ

※AERA 2013年9月9日号
※宇多田ヒカルは「母藤圭子は トラブルメーカー」と考えていたのでは?

「桜流し」(さくらながし)は、2012年(平成24年)11月17日よりデジタル配信されている宇多田ヒカルの楽曲である。歌詞について
「桜流し」は、宇多田が前年に発生した東日本大震災を想って書いた曲とされている。批評家の杉田俊介は、アルバム『Fantome』の中で特に撃ち抜かれた曲に「桜流し」を挙げ、同曲で繰り返される一節〈 Everybody finds love In the end 〉について、「全ての人間が最後の瞬間には愛を見出すんだという。本当にそう信じられるのか。それは普通に考えればありえない感覚」と指摘。そして、「これは宇多田ヒカルからの東日本大震災に対するアンサーのひとつ」と考え、「宇多田が培ってきた祈りや信仰のようなものを極限的な形で表現したもの」だと語った。

桜流し 2012年 宇多田ヒカル

開いたばかりの花が散るのを
「今年も早いね」と
残念そうに見ていたあなたは
とてもきれいだった

もし今の私を見れたなら
どう思うでしょう
あなた無しで生きてる私を

Everybody finds love
Everybody finds love
In the end

あなたが守った街のどこかで今日も響く
健やかな産声を聞けたなら
きっと喜ぶでしょう
私たちの続きの足音

Everybody finds love
In the end

もう二度と会えないなんて信じられない
まだ何も伝えてない
まだ何も伝えてない

開いたばかりの花が散るのを
見ていた木立の遣る瀬無きかな

どんなに怖くたって目を逸らさないよ
全ての終わりに愛があるなら
※藤圭子と宇多田ヒカルは電話で連絡を取り合っていた時期。おそらく会って話をしたかった宇多田ヒカルに、藤圭子は「会うことはできない」と言われたのであろうか?

2016年4月 真夏の通り雨  宇多田ヒカル

夢の途中で目を覚まし
瞼閉じても戻れない
さっきまで鮮明だった世界 もう幻

汗ばんだ私をそっと抱き寄せて
たくさんの初めてを深く刻んだ

揺れる 若葉に手を伸ばし
あなたに思い馳せる時
いつになったら悲しくなくなる
教えてほしい

今日私は一人じゃないし
それなりに幸せで
これでいいんだと言い聞かせてるけど

勝てぬ戦に息切らし
あなたに身を焦がした日々
忘れちゃったら私じゃなくなる
教えて 正しいサヨナラの仕方を

誰かに手を伸ばし
あなたに思い馳せる時
今あなたに聞きたいことがいっぱい
溢れて 溢れて

木々が芽吹く 月日巡る
変わらない気持ちを伝えたい
自由になる自由がある
立ち尽くす 見送りびとの影
思い出たちがふいに私を
乱暴に掴んで離さない
愛してます 尚も深く
降り止まぬ 真夏の通り雨

夢の途中で目を覚まし
瞼閉じても戻れない
さっきまであなたがいた未来
たずねて 明日へ

ずっと止まない止まない雨に
ずっと癒えない癒えない渇き
ずっと止まない止まない雨に
ずっと癒えない癒えない oh

※「真夏の通り雨」は、宇多田ヒカルの5作目の配信限定シングル。2016年4月15日に、「花束を君に」と同時に配信リリースされた。藤圭子が2013年8月22日に自死してから約3年後だ。家族のトラブルメーカーだったと考えていた宇多田ヒカルは、母藤圭子の自死である意味安堵することもあったが、突然の「死」に、自身の「再婚(2014年)・出産(2015年)」によっても癒えない悲しみがつきまとっていたのだろう。

 宇多田:うちの中でトラブルが起きて、みんな話をしない、気まずすぎたり怖すぎて、誰も何も言えない状況だったのが、気がついたら誰かがギター弾いて、誰かが歌いだして、私がピアノ弾いて。で、いつの間にか日常に戻るの。この気まずさはいつまで続くんだろう、どうなっちゃうんだろう、また離婚するのかな、って思っていても、いつの間にか音楽が始まって、「お腹すいたね、なに食べる?」って日常に戻るの。音楽がなかったら、成立しない日常だった。まずさはいつまで続くんだろう、どうなっちゃうんだろう、また離婚するのかな、って思っていても、いつの間にか音楽が始まって、「お腹すいたね、なに食べる?」って日常に戻るの。音楽がなかったら、成立しない日常だった。
 本来なら、モラルは社会とか家庭環境から学ぶものなんだなって後から気づいたんだよ。私にはモラルがないというのを、自分ですごく感じてる。生き方や、人としての選択にしてもそう。これはやっちゃダメなことっていうのはあるよ。人を殺しちゃいけないとかね。そういう道徳心はある。でも、社会から学んでないの。自分が一人の人間として、気持ちいいか気持ちよくないかで決めてる。人を殺したくないのは、だって自分が嫌な気持ちになるじゃん、ってそういう基準しかないのよ。しちゃいけないと言われたからとか、逮捕されるから、とかではなく、あらゆることが「自分がしたくないから、しない」。したいと思ったことはしちゃう。音楽も言葉もぜんぶ、社会性があるものとは別のところで、私は触れてきたんだ。(2018年5月22日採録 宇多田ヒカル 小袋成彬 酒井一途 座談会)

 2010年、宇多田ヒカルは「人間活動」として、音楽活動を休止した。2013年8月に母・藤圭子を亡くした当時について、宇多田はインタビューで次のように語った。「気持ち的にも、あまりにも母親がわたしにとって音楽そのものだったんで、『音楽とか歌詞とか、ああ無理、歌うのも、ああもうできない!』って、その時は思って」「『あ、もう人前には出られないな』ってほんと思いました、その時は。」その後宇多田は、2015年7月に第一子を出産することになる。その当時、次のような心境の変化が起こったと語った。「花束を君に」の制作は、妊娠中に作り始めたという「真夏の通り雨」の後に進められた(「宇多田ヒカル 8年間のすべてを語る」『ROCKIN'ON JAPAN』第31巻第10号、2017年。)。
 同曲のタイアップ先であるNHK朝の連続テレビ小説が国民的な番組だったということで、宇多田は「意識的にいつにも増して間口を広げる作詞をしました。オフコースとかチューリップ、エルトン・ジョンの『タイニーダンサー』をイメージして軽やかな感じに『開いてる』曲を目指して。いろんな状況で、いろんな人に当てはまるといいな、と思います」とコメントしている( “宇多田ヒカル、活動再開後初の映像出演は「花束を君に」新MV”. 音楽ナタリー. ナターシャ (2016年9月2日)。

 タイトル及び歌詞の「君」とは、宇多田ヒカルの母で、突然の自殺によって亡くなった歌手 藤圭子であると宇多田自身が明言している。その歌詞は、亡くなった彼女への手紙であると宇多田自身は語っている(“宇多田ヒカル、亡き母・藤圭子の死と長男への心情を吐露。「もし母が亡くなった後に妊娠していなかったら…」”. E-TALENTBANK (2016年9月23日))。
 宇多田は、「花束を君に」を書いた後に、自死遺族の会合に行ったという。そこで、「亡くなった人に手紙をかくと、気持ちが整理できる」ということを聞き、そこで初めて自分が同曲の制作でそれをやっていたことに気が付いたと語った。また宇多田はこのことについて次のように語った。手紙をしたためるという、考えて考えて言葉を紙に残すというプロセス。言葉に書き残すという作業は取り消せない。一言一句、責任を感じて書かなければならない(「宇多田ヒカルが語る、音楽の言葉」『PMC』ぴあ MUISC COMPLEX vol.6、2016年)。
 そして、そのようにして「すごく勇気をもって、何も隠さず、強がらず」に書いた同曲が世に出たときに、その反応がすごくポジティブだったこと、「わかってくれている」「受け入れられている」と感じたことが嬉しく、また勇気となり、その後の制作にあたって背中を押されたと語った(“宇多田ヒカル、新作『Fantôme』を大いに語る「日本語のポップスで勝負しようと決めていた」(2016年9月28日))。

 糸井重里は、2016年の『SONGS』(NHK)にて宇多田にインタビューした際、同曲について、「普通の社会では“花束を贈るだけでいいの”と言われるが、この曲では“言葉では足りない”ゆえに花束に持っていくところが気持ち良い」と語った。これに対し宇多田は、「日本の家族って、あんまりお互いに愛してるとか言わないし。私はその感覚も日本人としてすごく分かるんですよね」とした上で、「本当は言葉とか、何か形で、できる限り伝えないと。伝えたい、っていう気持ちが、わっと芽生えたんですよね。じゃあ、って思ったところで、言葉では足りないくらいの思いが存在したんですよ。」と語った(小池宏和 (2016年9月23日). “NHK『SONGSスペシャル「宇多田ヒカル~人間・宇多田ヒカル 今“母”を歌う」』を観て思うこと”)。

 又吉直樹は、2018年の『SONGS』(NHK)で宇多田と対談した際、「花束を君に」について、「聞くたびに泣いてまう。あそこまで感情をはっきりと浮かび上がらせるなんてできない」という。宇多田もそれに対し、「ああいう歌はもう書けない」といい、「芸術とか、何か創造性をはらんだものを作るときは、基本的には全部喪失の話」、「その喪失が大きければ大きいほど、そういう作品がでてくるタイミングになる。」と語った( “『SONGS』宇多田ヒカル・又吉直樹対談書き起こし”. 別館.net.amigo (2018年6月30日))。また、宇多田自身が一番気に入っている歌詞は、〈 世界中が雨の日も 君の笑顔が僕の太陽だったよ 〉だといい、「今の自分に精一杯の歌詞が書けた」と語った(“「#ヒカルパイセンに聞け」Q&Aサイト”. ユニバーサルミュージック)。

花束を君に 2016年 宇多田ヒカル
普段からメイクしない君が薄化粧した朝
始まりと終わりの狭間で
忘れぬ約束した

花束を君に贈ろう
愛しい人 愛しい人
どんな言葉並べても
真実にはならないから
今日は贈ろう 涙色の花束を君に

毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く
ただ楽しいことばかりだったら
愛なんて知らずに済んだのにな

花束を君に贈ろう
言いたいこと 言いたいこと
きっと山ほどあるけど
神様しか知らないまま
今日は贈ろう 涙色の花束を君に

両手でも抱えきれない
眩い風景の数々をありがとう

世界中が雨の日も
君の笑顔が僕の太陽だったよ
今は伝わらなくても
真実には変わりないさ
抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に

花束を君に贈ろう
愛しい人 愛しい人
どんな言葉並べても
君を讃えるには足りないから
今日は贈ろう 涙色の花束を君に

※この「花束を君に」は、ある意味で、宇多田ヒカルさんの母藤圭子さんへの「追悼文」であり、「禊ぎ」に似て、約6年ぶりの宇多田ヒカル「音楽活動再開」を知らせる「メッセージ」だったのではないだろうか?

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