藤圭子の自死と解けない謎4~食い違う藤圭子と宇多田ヒカル母娘の絶縁の原因(その1)

1 はじめに
 新型コロナウイルスで世界中が騒然となった2020年もあと僅かになっていた。2013年に自ら命を絶った藤圭子と言う歌手の謎を今日も探し続けいている。
 ことし(2020年)出会った藤圭子の記事であるが、ふたつのものが見つかった。ひとつは1月3日の「宇多田ヒカルと母・藤圭子の親子関係や共演は?愛憎人生」と言う記事だ(https://sstland.jp/577/)。
 ふたつめは、7月24日づけの「母藤圭子と宇多田ヒカルはなぜ親子で絶縁した?幼少期から天才歌手の軌跡と母との永遠の別れ秘話」と言う記事だ(https://entame-site.com/hujikeiko-utadahikaru/ )。

2 ふたつの論調
(1)1月3日づけの「宇多田ヒカルと母・藤圭子の親子関係や共演は?愛憎人生」について
 「宇多田ヒカルと母・藤圭子の親子関係や共演は?愛憎人生」では、藤圭子のプロフィールに続いて、「藤圭子さんと宇多田ヒカルさんの親子関係」と題して次のようにつづっている。「藤圭子さんの死因は転落死(自殺)とされていいます。藤圭子さんは長年うつ病を患っていたのは有名な話で、亡くなる7年前以前のインタビューでは睡眠障害、摂食障害を告白しており、心身共にボロボロであった事が分かります。なぜ夫も子供もいるのに?と思うかもしれませんが、夫である宇多田照實さんがうつ病である事を確信し、病院での治療を勧めた事がありました。しかし、藤圭子さんはそれを聞かず、宇多田照實さんに不信を抱くようになってしまい、結局治療を受けさせるには至らず、藤圭子さんは最期の時まで精神疾患で苦しむ事になってしまいました。宇多田ヒカルさんも母藤圭子さんに対してのコメントで「本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、母のために何が一番良いのか、ずっと悩んでいました」と語っています。精神的に不安定な部分はあったものの、宇多田ヒカルさんが生まれた頃は普通の親子関係でしたが、宇多田ヒカルさんが5歳くらいの頃から攻撃的な発言が目立つようになり、いつのまにか夫である照實さん、ヒカルさんも攻撃の対象となってしまったようです。ヒカルさんに急に厳しい言葉を投げかけ、その数分後には「ごめんね。。。」と反省を見せるなど、うつ病の典型的な症状が出ていたようです。そんな不安定な関係ながらもなんとか親子関係を続けている中、娘の光(宇多田ヒカルさんの本名)が宇多田ヒカルとして、音楽シーンに鮮烈にデビューし、記録的大ヒットを飛ばし一躍有名になりました。そんな中、宇多田ヒカルさんが稼いだ膨大なお金を巡り両親は対立し離婚する事となり、宇多田ヒカルさんは不安定な母と2人暮らしする事になりました。デビューして3年後くらいのある日、感情的で不安定な母に対して今までうまくかわし、抑えながら頑張っていた宇多田ヒカルさんですが、ほんのしたキッカケから「もう出て行って!」とキレてしまう事があり、それを機に別居状態となりました。普通の家庭ではよくあるちょっとした親子ゲンカですが、母である藤圭子さんはこの一言をこの後ずっと「娘に嫌われているから家に帰れない」とひきずり、2人が再び同居する事はありませんでした。3人家族はバラバラになってしまったのです」と藤圭子さんと宇多田ヒカルさんの親子関係を説明している。
 そして「母藤圭子さんの死後、宇多田さんはオフィシャルサイトにてこう語っています。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。誤解されることの多い彼女でしたが… とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。沢山の暖かいお言葉を頂き、多くの人に支えられていることを実感しています。出展:宇多田ヒカルオフィシャルサイトから抜粋。子供の頃からおそらく、辛く大変な思い出が多かったと思いますが、思い浮かぶのは「母の笑顔」なんですね。※追記2020年「マツコの知らない世界」の中で母の影響で時代劇が好きだと語っており、こんな所にも母の影響があるんですね」としている。

 さらに、「藤圭子さんと宇多田ヒカルさんの共演」として、「藤圭子さんと宇多田ヒカルさんのテレビ番組の共演は残念ながらありません。テレビ共演ではありませんが、父宇多田照實さんと母藤圭子さん、宇多田ヒカルさんの家族3人で結成したU3というユニットがあります。これは宇多田ヒカルさんが9歳の時のユニットなので、決してうまくいっている家族関係とは言えない中、結成された事が分かります。「STAR」というアルバムですが、背景を知って聴くとまた違う面があるかもしれません。
宇多田ヒカルさんは母の藤圭子さんを想い書いた曲はくつかありますが、「Be My Last」という曲には直接「お母さん」という歌詞が出てきます。母さんどうして 育てたものまで 自分で壊さなきゃならない日がくるの? 出展:宇多田ヒカル Be My Last 歌詞

 また、藤圭子さんのエピソードの中には、小さいヒカルさんに対して仕事で出かける時は置き手紙を置いていったり、仕事が終わると「ヒカルが寂しがっているから」とすぐに帰ったりするなど母親として愛情溢れるエピソードもたくさんあります。感情が安定しない中でも宇多田ヒカルさんに対する愛情は間違いなくあったのが伝わります。だから、ヒカルさんも母親を思い浮かべる感謝や愛情が生まれてくるのでしょうね」と結ばれています。

 要点としては、藤圭子、宇多田照實、宇多田ヒカルの3人家族がバラバラになってしまったのは、藤圭が長年うつ病を患っていたこと、夫である宇多田照實がうつ病である事を確信し、病院での治療を勧めた事があったが、藤圭子はそれを聞かず、宇多田照實さんに不信を抱き、結局治療を受けさせるには至らず、藤圭子さんは最期の時まで精神疾患で苦しむ事になってしまったこと、宇多田ヒカルは不安定な母と2人暮らしする事になるが、デビューして3年後くらいのある日、感情的で不安定な母に対して今までうまくかわし、抑えながら頑張っていたヒカルだが、ほんのしたキッカケから「もう出て行って!」とキレてしまう事があり、それを機に別居状態になったこと、藤圭子が一言をこの後ずっと「娘に嫌われているから家に帰れない」とひきずり、自死に至ったことを挙げている。
 そして、宇多田ヒカルが母の藤圭子さんを想い書いた曲として、「Be My Last」という曲をとりあげ、「直接「お母さん」という歌詞が出てきます。母さんどうして 育てたものまで 自分で壊さなきゃならない日がくるの? 」という歌詞をあげ、また、藤圭子のエピソードとしては、小さいヒカルさんに対して仕事で出かける時は置き手紙を置いていったり、仕事が終わると「ヒカルが寂しがっているから」とすぐに帰ったことをあげて、母娘の関係を説明し、藤圭子の自死にまつわる愛憎劇としています。ここには元夫の照實氏の関わりは少なく扱われています。

(2)7月24日づけの「母藤圭子と宇多田ヒカルはなぜ親子で絶縁した?幼少期から天才歌手の軌跡と母との永遠の別れ秘話」について
 次に、2020年7月24日づけの「母藤圭子と宇多田ヒカルはなぜ親子で絶縁した?幼少期から天才歌手の軌跡と母との永遠の別れ秘話」という記事を見ていきます。

 まず藤圭子の自死に至るまでを簡単に紹介しています。藤圭子が「宇多田ヒカルさんの母親で、伝説の歌手であることは有名」としていますが、藤圭子について「知らないというファンも多いはず」として、藤圭子と宇多田ヒカルの似たところ上げています。「幼少期の生い立ちから離婚を繰り返す人生」、「天才的な歌声で伝説が生まれた時の凄さ」などエピソードが多くみられるとしています。
 まず宇多田ヒカルについては、15歳で「Automatic」により鮮烈なデビューを飾り、これにより次々とスポンサーがついたこと、また、母である藤圭子さんも芸能に長けた竹山澄子さんを母にもち、幼少期から歌い始めて15歳でスカウトされたことを説明しています。
 宇多田ヒカルも藤圭子も、デビュー時には天才的な歌声で数々の伝説が生まれたのですが、宇多田ヒカルが「人間活動」により歌手活動を休止している間の2013年8月、母親の藤圭子が自死した経過を述べています。

 「親子の仲には長年確執があり、絶縁状態だったと言われ、宇多田ヒカルさんにとってまさに絶望を感じる人生の節目となってしまいました。藤圭子さんと宇多田ヒカルさんの仲に絶縁状態とも言える確執がなぜ生まれたのか。そこには藤圭子さんの母であり、宇多田ヒカルの祖母である竹山澄子さんが関係する、難しい生い立ちの問題が隠されています」と「母藤圭子と宇多田ヒカルはなぜ親子で絶縁した?幼少期から天才歌手の軌跡と母との永遠の別れ秘話」への導入を試みています。

 2019年7月には「伝説の歌手藤圭子ー演歌の星を背負った宿命の少女」特集番組が組まれ、歌手藤圭子さんが生まれた時の凄さを武田鉄矢さんが絶賛しています。「この記事では宇多田ヒカルさんの幼少期の生い立ちにさかのぼって、親子仲の確執、母親である藤圭子さんと似てる点や、伝説とも言われる歌声の凄さについて迫りたいと思います」と記事の目的を定め、「宇多田ヒカルは藤圭子と幼少期の生い立ちが似てる?仲や確執を解説」しています。

 まず、「宇多田ヒカルさんの新しいアーティスト写真が、母親の藤圭子さんを彷彿させるような衣装で感動した。今の世代には、宇多田ヒカルさんの母親として知られる藤圭子さん。歌手として全盛期だった1970年代から1980年代には、「凄みのある歌声と独特の節回しに、強いまなざしが光る伝説の演歌歌手・藤圭子」として誰もが知る有名歌手でした。そんな藤圭子さんと宇多田ヒカルさんの似てる点として、「生い立ち」が挙げられます」と述べ、「藤圭子さんが帰らぬ人となった日にショッキングなニュースが報道される中には、宇多田ヒカルさんは藤圭子さんと印税に関わるお金の問題で、長年絶縁状態であったと報じるメディアが数多く存在しました」と「印税に関わるお金の問題」を原因としてあげています。

 「実は藤圭子さん自身も一世を風靡した演歌歌手時代から、実母であり宇多田ヒカルの祖母にもあたる「竹山澄子」さんと印税の使い込み問題で絶縁状態にあったのです。貧乏な家庭で育った藤圭子さんは家族のため、目の不自由な母親のために歌で生計を立てようと、子供時代から必死で働き続けて、演歌界の一時代を築き上げました。藤圭子さんは父親とも絶縁しているようですが、ある時その父親から、「母竹山澄子さんが藤圭子さんのギャラを勝手に使い込んでいる。母親は本当は目が見える」という話を聞かされます。それまでも母親に対して感じていた不信感が決定的になってしまったのです。目の見えないはずだった母親竹山澄子さんのために、マンションやアパートを購入して同居生活を続けてきたのに、何十年もの間騙されていたと知った藤圭子さん。精神的に激しいショックを受けて入院し、この頃から精神のバランスを崩していくこととなります」と述べ、「印税に関わるお金の問題」で実母と絶縁している共通項を明らかにします。
 「退院後、藤圭子さんは宇多田ヒカルさんの父親である宇多田照實さんと生活を共にしながら、幼少期の宇多田ヒカルさんを「世界に通用する歌手」に育てる準備を本格化します。米国へ移住するための資金作りとして今までに購入してきたマンションやアパートを売却します。その中には藤圭子さんの母親竹山澄子さんと同居していたマンションも含まれており、数々のいさかいを経て絶縁状態に陥ってしまったようです。大切な娘を米国で歌手として育てるために多額の資金を作り、お金がなくなれば日本に戻って歌をうたい稼いでは米国へ家族で戻る、という凄まじい生活を送っていた藤圭子さん。最愛の娘宇多田ヒカルさんと絶縁に至ってしまう原因はなんだったのでしょうか?」と暗に「お金を巡る確執」を匂わせ、原因を改めて問う形で記事は進んでいきます。

 「宇多田ヒカルさん本人は明言していませんが、関係者の話やメディアの報道によると、やはり母親藤圭子さんの「印税のお金の使い込み」があったようです。加えて、精神的に不安定だった藤圭子さんとまだ10代だった宇多田ヒカルさんとの間にあった親子喧嘩などのトラブルであったと言われています。宇多田ヒカルさんが15歳で鮮烈なデビューを飾ったのが1998年のことでした。その8年前から宇多田ヒカルさんは父親の宇多田照實さん・母親藤圭子さんと共に米国へ渡り音楽の英才教育を受けてきました。宇多田ヒカルのデビューにより藤圭子さんも一躍注目を浴びます。しかしこの頃から藤圭子さんは子供の宇多田ヒカルさんにだけ注目が集まるようにと考えたのか、一切歌うことをやめて、メディアの前へ出ることもなくなりました。その反面、15歳でのデビューからたった4年後となる2002年には、藤圭子さんは宇多田ヒカルさんと別居状態になってしまったというのです。このきっかけとなったのが2002年当時に、藤圭子さんが宇多田ヒカルさんのコンサート開催権利を他人に譲渡しようとして宇多田照實さんと対立したことだと言われています」と経過を述べ、母娘の確執の具体的な原因が「宇多田ヒカルさんのコンサート開催権利を他人に譲渡しようとして宇多田照實さんと対立したこと」を上げ、宇多田ヒカルも父宇多田照實ともに対立していたと言うのです。

 さらに、「デビューから話題性の強かった宇多田ヒカルさんの事務所の副社長を務めていた藤圭子さんの元には年間で1億円以上の印税や出演料などのギャラが入るようになります。しかし同時期には世界中のカジノを回って毎年1億円のペースで使い込むほどギャンブルにのめり込んでいき、宇多田ヒカルさんとの確執が大きくなっていきます。この年には、宇多田ヒカルさんが写真家・映画監督でもある紀里谷和明氏と結婚を発表します。しかし、宇多田照實さんと娘の宇多田ヒカルさん本人から「個人事務所の副社長を辞めてほしい」と頼まれることとなってしまうのです。藤圭子さんが激しいショックを受けたことで人間不信となり、宇多田ヒカルさんと別居が始まったのだそうです」と推量しています。

 記事はさらに、「長年宇多田ヒカルさんを歌手にするため、米国と日本を行ったり来たりを繰り返し、様々な場所で売り込みをかけて奔走してきた藤圭子さん。娘本人から個人事務所の役員を外されるというのはショック以外の何物でもなかったでしょう。しかし、毎年1億円以上にものぼる印税や出演料を、母親にすべて使い込まれていたと知った宇多田ヒカルさんのショックも、計り知れないものだと思われます。藤圭子さんが母親竹山澄子さんに「裏切られた」と激しいショックを受けて親子関係が絶縁に陥った状態を、奇しくも自分の娘である宇多田ヒカルさんと繰り返すことになるとは、夢にもおもっていなかったでしょう」と藤圭子の心情を推し量っているのです。

 ここで話題を変え、「母藤圭子と宇多田ヒカルの歌声が似てる?天才エピソードとは」と論を進めます。「宇多田ヒカルさんと母藤圭子さんが似てる点は、「母親とのお金の確執と絶縁」という問題だけではありません。天才的な歌声の凄さをもつ伝説の歌手、という点でも、もはやそっくりといってもいいレベルなのです。藤圭子さんは浪曲師であった父の阿部壮(つよし)さん、浪曲師で曲師でもある母の竹山澄子さんと一緒に、子供の頃から「ドサ回り」と言われる旅について行きます。歌をうたい、家族でうたって生計を保つ毎日でした。成績は優秀だったものの、家族を歌で支えるために高校入学を断念して15歳でスカウトされ上京します。その後数々のレコード会社のオーディションを受けるものの落選して下積み生活を続け、作詞家石坂まさをさんの家で住み込みレッスンを受けます。デビューにこぎつけると、ファーストアルバムである「新宿の女」が20週連続でオリコンチャートの1位を獲得!次のセカンドアルバム「女のブルース」でも17週連続で1位を獲り、合計で37週に渡って1位という芸能史上に残る快挙を成し遂げるのです。若くして伝説をつくる凛としたたたずまいに強いまなざし、絶大な存在感と歌唱力が高く評価されました」とします。次に「藤圭子さんの娘である宇多田ヒカルさんのデビュー秘話をみていきましょう」とつなげ、「宇多田ヒカルさんが生まれたのは1983年、アメリカニューヨークでした。父親の宇多田照實さん、母親の藤圭子さんが日本ではなくニューヨークでの出産を選んだのは、生まれる前から宇多田ヒカルさんに世界に通用する歌手になってほしいという強い想いがあったから。アメリカ国籍も選べる選択肢を与えたかったからではないでしょうか。いずれにしろ宇多田ヒカルさんは日本国籍であっても、毎年莫大な印税が手に入りますから世界中どこでも仕事ができるという、まさに母親の藤圭子さんが最愛の娘に望んだ歌手としての人生を歩んでいることにな」ると述べています。

 さらに「宇多田ヒカルさんは幼少期から両親の深い愛情と音楽の英才教育を受けて、5歳になる頃には本人も自然と歌手を目指していたといいます。1997年に東京でのレコーディングを見た東芝EMIスタッフにスカウトされて翌年1998年末に15歳でCDデビューを果たします。これ以前にも藤圭子さんは様々なレコード会社や恩人、芸能関係者にデモテープを渡して、娘宇多田ヒカルさんがいかに天才歌手であるかをプレゼンテーションするなど、宇多田ヒカルさんのデビューに尽力していました。1stアルバム「First Love」はオリコン累計売上枚数が765万枚を突破して日本歴代アルバムセールスの1位を獲得するなど、まさに彗星のごとく現れた伝説の歌手として、宇多田ヒカルさんは日本中を魅了しました。宇多田ヒカルさんの歌声は藤圭子さんのハスキーボイスや重低音の強さ、のびやかさなど」似ている点も多々ありますとし、2007年に出した「Flavor Of Life」はデジタルシングルセールスで世界1位を獲得し、宇多田ヒカルさんの透き通った歌声はアメリカでも注目されるようになります。後に、1990年代に爆発的ヒットを連続していた小室哲哉が「僕を終わらせたのは宇多田ヒカルだ」と、口にしていたという逸話もあるほどです」と「天才エピソード」を披露しています。

 記事の「まとめ」として、宇多田ヒカルさんと、母親の藤圭子さんの生まれた時からの生い立ちにはそっくりなエピソードが多く隠されていました。天才的な歌声で伝説をつくる凄さなど、似てる点は沢山あることがわかりましたね。晩年の藤圭子さんは精神的な不安定さに拍車がかかり、宇多田ヒカルさんと和解をしないまま2013年の8月22日に東京都新宿区マンションから飛び降りて帰らぬ人となります。これは藤圭子さんが母親竹山澄子さんと和解に至ることがなかった点とも酷似しています。自分の母親と絶縁したまま生涯の別れを迎えてしまうという、絶望の人生とも言える哀しみを藤圭子さんと宇多田ヒカルさんは経験しているのです」と述べ、「宇多田ヒカルさんは現在でも母親への愛情を歌詞に載せて歌っています。天才的な歌声で歌謡界に伝説を残す姿には、先祖代々からの運命的なつながりも感じてしまいます」と「運命」の悪戯として母娘の「生涯の別れ」を演出しています。

 余談として、「藤圭子さんは夫であり宇多田ヒカルさんの父親である宇多田照實さんと、合計で7回にも渡る結婚・離婚・再婚を繰り返しています。対して娘の宇多田ヒカルさんは写真家・映画監督の紀里谷和明氏と2002年に1回目の結婚。2007年に離婚をしてから、2014年2月にバーで出会ったイタリア人男性と再婚をし2015年7月に男児を授かるも、2018年4月に再び離婚をしています。離別を繰り返す人生も、親子で似てるのですね」と大下英治著の「悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾」を思わせるトーンでまとめていきます。

 ただ、「しかし、宇多田ヒカルさんと藤圭子さんの天才的な才能は類まれです。これからも歌を通して、世代を超えたファンをより魅了してくれることでしょう」と締括っています。

 この記事を要約すると、藤圭子と母竹山澄子との絶縁した原因が藤圭子の「印税の使い込み」に端を発しもので、このことにより藤圭子の「精神の病」を引き起こしたことを述べ、これが「藤圭子の自死」の原因とする一方で、今度は藤圭子が娘宇多田ヒカルの「印税の使い込み」に端を発し藤圭子と宇多田ヒカルの絶縁を生み、藤圭子も宇多田ヒカルも和解しないまま母娘の「生涯の別れ」に至ったことを述べているのです。特に「印税に関わるお金の問題」については、「母竹山澄子が藤圭子の「藤圭子さんが帰らぬ人となった日にショッキングなニュースが報道される中には、宇多田ヒカルさんは藤圭子さんと印税に関わるお金の問題で、長年絶縁状態であったと報じるメディアが数多く存在しました」と述べこれを裏付けとしています。

 このふたつの記事に共通するのは、母藤圭子に「印税の使い込み」をされた宇多田ヒカルは母と絶縁したが、母藤圭子もまた藤圭子の母竹山澄子に「印税の使い込み」をされたばかりか「精神の病」も引き起こされた藤圭子母娘の「因果」が巡り、母藤圭子は「精神の病」が嵩じて自死にいたるも、宇多田ヒカルは母からの才能を引き継ぎ健気に「母を思う」楽曲を生み出し続けており、父であり藤圭子の元夫の宇多田照實は娘ヒカルをしっかりと支えていることを強調する内容になっている。このストーリーを見る限りだと、伯父藤三郎(本名阿部博)もまた、「印税」に群がる族(やから)=阿部一族と捉えている、宇多田ヒカルの目差(まなざし)が見える。

 筆者は敢えて、この論調に反論したい。併せて藤圭子の名誉回復と阿部一族の名誉も回復させたいと考えている。藤圭子は「なぜ歌姫としての評価が低いのでしょうか」 と言う質問の答えとともなると思うが、宇多田ヒカル、宇多田照實側の藤圭子に抱くイメージである「精神の病」、「印税の使い込み」などの事実を解明し、マイナス・イメージを取り払うほかに方法がないと考えている。

3 当該論調への反論について
(1)藤圭子の「精神の病」について
 最初に、藤圭子の「精神の病」について考察したい。
 まず幼年期だが、圭子さんは幼少の記憶がないと言う。「近所の女の子が、よく抱かせてって、来たんだって。一度なんか、妹に頂戴という子がいて、お母さんが冗談にいいわよ言ったもんだから、翌日、お小遣いで綺麗な服なんか買ってきて、本気にもらいにきて、その子を納得させるのにとても困ったことがあるんだって」、「お人形さんを可愛がるように、可愛がっていたんだろうな」、「でも、そういうのって、話しに聞くだけで、ちっとも覚えていないんだけどね」、「あなたが生まれたのは、本当は北海道の旭川じゃないんだって?岩手県の一関…旅興業の途中だとか」、「そうらしいんだ。でも、その頃のことはよく知らない。ほとんど知らないんだ、子供のの頃のことって。記憶にないし、たまにお母さんに聞かされるくらいだから」、「お母さんは曲師だったの?」、「そうじゃなくて、お母さんも浪曲師なの。お父さんも、お母さんも」、「しょっちゅう、旅に出ていたわけだ、二人して」、「うん」、「子供の頃は、一緒だったんでしょう?」、「でも、その頃のことって覚えていないんだ、全然。小学校へ上がる前だったし。ただね、話しによると、巡業で汽車を乗り継ぐでしょ、そうすると駅の名前を読んだらしいの。なんだか、そうやって字を覚えたんだって。だから、あたし、学校に上がる前から字が読めたらしんだ」…。「それじゃ、小学校に上がった前後のことは覚えている?」、「全然」、「えーと、一年のときの担任の先生は?」、「覚えていない。二年のときも、三年のときも」、「ほんとに?」、「校舎も、友達も、何も覚えていない」、「欠陥商品ですねえ、あなたの記憶装置は。どういうのかなあ…その時代のころは、まっしろけの感じなの?」、「まっくらけの感じ」、「だとすると、いつ頃の記憶からあるようになるのかな」、「小学校五年から。カムイへ引っ越してから」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「二杯目の火酒」より)

 また圭子さんは、コンプレックスがあったと言う。「自分はコンプレックスのかたまりだって、小さいときから思いつづけていた。何なんだろう、これって」…「あれで、ずいぶんオドオドしてたんだよ」…「いまでも、コンプレックス、たくさんある。あまり強く意識することは少なくなったけど、ああ、自分が、いま、こう反応しているのは、コンプレックスのせいだ、なんて感じることはあるんだ」…、「性格もあるのかな」、「そうだね、同じように育っても、お姉ちゃんは、そういうのってないからね」…、「芸人って、昔はさ、こう、なんて言うのか…人の世話になって生きていくみたいな…そういうのが…どうしてもあったんだよね。」...「やっぱり恥ずかしかったんだろうね。…人に世話になって生きているっていうのが。きっと、そういうこともあるのかもしれない」…「そうなんだよね。芸人って、やっぱり、恥ずかしいんだよね」…「そうか…あたしには…それが、いつも、いつも、頭の片隅にあったのかもしれない。そうか…そうなのか…」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「六杯目の火酒」より)

 さらに子供時代、酒乱の父親から、DVを受けていたと言う。「恐いもの。確かにあったよ、小さい頃。いまだって、恐いけど、別々に住んでいるから忘れることができるというだけのこと。恐かったんだ、とても恐かった。あたしは、お父さんが、ほんとうに恐かった」…「理由はないんだよ。殴ったり蹴とばしたりするのは、向こうの気分しだいなんだ。気分が悪いと、有無を言わさず殴るわけ。こっちは小さいじゃない、何もできないで殴られているの」…「きっと、お父さんがいなかったら、あたし、こんなに頑張らなかったと思う」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「六杯目の火酒」より)


 歌手時代の圭子さんは、野球選手Kとの恋と失恋をめぐりヒステリー発作を起こしたという。「……そうなんだ。あたし、ヒステリーを起こしたんだよね」、「誰に?」、「お母さんに」、「いつ?」、「(1979年)四月頃」、「どこで?」、「クラブで、クラブの楽屋で」、「あなたみたいな人でも、人並みにヒステリーを起こすんですか?」、「起こすんですよ、これが。すごいヒステリーを起こしちゃった」…「ここ十年で最大のヒステリー」…「お母さん……びっくりしたんだって。血の気が引くような思いをしたんだって。そのヒステリーの起こし方がとてもお父さんに似ていたらしいの。そっくりだったんだって。ああ、この子にもやっぱり、あのお父さんの血が流れているんだろうか……」…、「それが直接の原因だとしても、もっとほかに、いろいろあったわけだね、心が痛む、何かが」、「うん」、「どうして?」、「えっ?」、「どうして心が痛むようなことがあったの、その、野球をやってる人との恋愛で」…、「…..裏切られたんだ」、「男の人を尊敬したいって思ったんだ。女がどれだけ頑張っても、やっぱり女なんだよね。できることなら、女は、やっぱり男に支えられて、そうやって生きていくことが幸せ何じゃないか、と思ったの。尊敬できる男の人と、一緒に生きていきたいと思ったんだ…でも…駄目だった」…「うん…結構、真面目に考えていたんだよ…結婚を」…、「別れたあとだね?クラブの楽屋でヒステリーを起こしたっていうのは」、「うん…」…「惚れるのは、いつも変なのばかり、か」、「そう」…、「くだらない、駄目な男ほど、女の人にとっては魅力があるものなんだろうし…」、「そうなんだろうね、たぶん」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「七杯目の火酒」より)

 同時期の引退する1979年の5月頃には、舞台恐怖症みたいになっていたとも言っている。「あなたは、初期の頃の自分は無心でよかった、とよく言うよね。…」、「…それはそれなりに、ぜんぜん幸せだったんじゃないかな」、「それで、いまは?」、「しんどいね。こんなに考え込むようになっちゃうと」、「…それが人間として普通だとは思わない?」、「思わない。こんなに神経質になって、いろいろ細かいことを気にするのは、やっぱりよくないよ」…、「いま、どんなことを考えているの、そんなに苦しむほど」、「…歌っても歌っても満足できないんだ。…ああでもない、こうでもないって考えちゃうんだ。どうしても満足できないから。…」、「考えることといえば、仕事のことが多いの?」、「ほとんど、みんな」…、「私生活の悩みなら、まだ幾分救われかみしれないけどね」、「そう、私生活ならしれてるんだけど。…」…、「さっき、ノイローゼみたいになったとか言ってたよね?あれは、仕事のことで?それとも、やっぱり、彼とのトラブルが原因で?」、「どうなんだろう。みんなは、あの人のとのことが原因だとみてただろうけど…それもこれも、みんな、ワァーッと一時に押し寄せてきちゃったんだよね。すべてが虚しくなって、もう、どうでもいいっていうような気持ちになって…ぼんやり、死のうかな、なんて思うようになりはじめて…どうやって死ぬのがいちばんいいのかとか、夜になると考えるようになったんだ」、「しっかりしてくれないと、そんなつまらない男のために…」、「だから、それだけじゃないんだって、歌っても歌っても絶望なわけじゃない。歌うのがつらすぎるようになっちゃったんだ。それがいちばんひどくなってしまったのが、デビュー十周年の舞台(1979.5- デビュー10周年記念公演(日劇)(5月9日~13日))」…、「大事な舞台だったわけだよね」、「そうなんだけど、舞台恐怖症みたいになって上がれなくなっちゃったんだ」、「そんな感じ、初めてのこと?」、「二年前に一度、それと似たようなことがあった。歌を忘れそうになるの」、「歌って、歌詞を?」、「歌詞だけじゃなくて、メロディーも忘れそうになるの。…そう言うことが、四度か五度、続いたんだよね。自分で自分が怖くなった。もう恐怖なんだよね、また忘れるんじゃないかって。そう思うと、舞台で体がすくんじゃうんだ。ほんと、そうなると、どうしていいか、わかんなかった」…、「どうやって突破したの、その、かなり深刻な落ち込みを」、「うん、まず、馬鹿らしい、と思ったんだよ。…だってそうじゃない。男の人はつまらない人ってわかったわけじゃない。それは、あたしに男の人を見る眼がなかった、というだけのことでしょ。歌を歌うのが辛い、絶望だ。だったら、やめればいいわけじゃない。簡単なことではないですか。そう思ったの…」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「最後の火酒」より)

 さらに藤圭子の心の風景を見ていくと、「いまね、歌っていて、いちばんつらい歌は<聞いてください私の人生>っていう歌なんだ…」、「どうして?」、「その中の歌詞が、どうしても、歌うたび胸につかえるんだ。…終わりの方にさ、声がかれても、つぶれても、って歌詞があるでしょ」、「ああ、そうか、そうだ」、「曲が好きだから歌うけど、つらいんだ。本当は、これは自分の心とは関係ないんだ。これは曲なんだからって、割り切ればいいんだろうけど、駄目なんだ…」…「いい加減な決心じゃないつもりだよ、あたし」、「それはわかってる。だからこそ、さ」、「いや、ここまで突きつめて、自分が決心したことだもん、戻れといっても戻れないよ、無理だよ」…、「…いま、あなたが傷と思っている肉体的欠陥が…つまり喉が、何年かすると価値の基準が変わって、欠陥とは思わなくなるかもしれないじゃないか」、「うん、あたしもね、そんなふうに考えることがないわけじゃないんだけど…でも、声が出なくなったとき、切っちゃたんだよね。…切れば早く楽になると思って…切っちゃたんだから、傷があるんだよね、絶対。歌っていると、その傷の痕がはっきりわかるんだよ。…歌うってことは、その傷口をさわることなんだよ」、「切ったことが、口惜しいわけだ」、「うん、でも、歌を歌うには確かに口惜しいことだけど、切ってよかった、だから歌をやめてよかったという人生がこれから送れるかもしれないし……わからないよ」、「それに歌いつづければいい、永く芸能界にいつづければいい、なんていうことはないと思うんだ。永く歌っていたからといって、紫綬褒章だかなんだか知らないけど、国から勲章もらって……馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。その歌手はただ生活のために歌を歌っていたに過ぎないのに。それだったら、どうしてお豆腐屋さんのおじいさんにあげないんだろう。だめな歌は、もう歌じゃない。だめな歌を歌う歌手は、歌手じゃないはずなんだ」、「心があると、大変だね」、「心が?」、「こういう仕事していると、ね」、「人間的なものは、必要ないのかね?」、「歌手として必要なだけの人間味はなくちゃいけないんだけど、ね」、「そうか…」、「業務用には心の取りはずしができなければ、やっていけないんだろうね。」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「最後の火酒」より)

 このように圭子さんの「ヒステリー」は、意識化されない心理的葛藤により身体症状が生じた可能性もある。そしてこれは、「うつ病」と言うよりは今で言う「パニック障害」なのかも知れない。

2  「印税の使い込み」と「精神の病」の原因について
 これら記事の特徴は藤圭子の「印税」を実母の竹山澄子が「使い込み」したことが藤圭子母娘の「親子関係」を悪化させ 「長年絶縁状態」を生み、母娘の「生涯の別れ」になったと論じ、また宇多田ヒカルの「印税」を実母の藤圭子が「使い込み」して宇多田ヒカル母娘の「親子関係」を悪化させ 「長年絶縁状態」を生んだとしている。さらに、ヒカルが5歳頃に、藤圭子の「印税」を実母の竹山澄子が「使い込み」だことが原因で精神状態が悪くなり「精神の病」の発症の原因のように論じられている。

 つぎにこのことについて詳しく見ていきたい。はたして藤圭子の実母竹山澄子は藤圭子の「印税の使い込み」をしていたのであろうか。

 大下英治著「悲しき歌姫」にこんな一節がある。「藤圭子が一番ブレイクしていたとき、藤圭子の給料は一ヶ月500万円くらい。一年間で6000万円くらいになったはずである。そのお金を、藤圭子は母親の銀行口座に振り込んでいた。そのため、すべて母親が管理して、母親から藤圭子はお金をもらっていた。アメリカに渡ったとき、藤圭子はその一部(3000万円余り)を持って行ったのだが、すぐに使い果たしてしまい、結局、日本へ帰国したのである。その様子を見かねた母親は、決心したようだ。<これじゃあ、あっという間にお金が無くなっちゃう。わたしの老後は、このお金で生活しなければいけないのに、このままでは、わたしも生活できなっちゃう>」と書かれている。
 宇多田ヒカルが5歳頃で照實氏が「自分の母親、故竹山澄子氏、に対しても、攻撃的な発言や行動が見られるようになり、光と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象となっていきました」という時期は、西暦で1988年である。一体この時に何があったか思い出してみよう。
 故竹山澄子氏への藤圭子さんの攻撃的な発言は、この時期を遡ること5年前、ヒカルさんが十ヶ月頃の1983年に遡る。同年10月5日に帰国。親子3人でニューヨークから東京へ引っ越します。
 はじめは、広尾のマンションに圭子さんの母澄子さんと同居していたようです。照實さんは所属事務所がなくなってしまった圭子さんのために個人事務所(テックス)を設立して社長になります。圭子さんと二人三脚で営業を始めました。
 このような中で「圭子と結婚した当時の照實氏…とても裕福とはいえない状況でした。さらに借金も抱えており、照實氏はあるとき圭子さんの母(竹山澄子)に「金をくれ。ないんだったら、マンションを売って手配してくれ」と迫ったこともあったといいいます。当然、母は難色を示しめしましたが、「マンションだって圭子が稼いだ金で買ったんだろ!」と怒鳴り、口論に発展。結局は(広尾マンションを)を売却して、3000万円ほどの金を照實氏に渡すことになった」そうです(圭子さんの実兄の話)。
 それにより、母澄子さんは綾瀬のマンションに移ります。そして、圭子さん一家は、杉並のマンションに移ります。(後の有限会社ユースリー・ミュージックの事務所兼自宅)
 つまり、圭子さんは母親に「お金が欲しい」とお願いしたがお金はもらえなかったので、照實氏が「金をくれ。ないんだったら、マンションを売って手配してくれ」と迫ったことから結局は(広尾マンションを)を売却して、3000万円ほどの金を照實氏に渡すことになった」ようである、そのお金で、恐らく杉並のマンション(後の有限会社ユースリー・ミュージックの事務所兼自宅)を購入したと思われます。

 その後、1988年 圭子さん37歳、ヒカルさん5歳、照實さん40歳の時です。圭子さんは、ヒカルさんが7歳になったらニューヨークに定住する話になって、圭子さん親子3人の生活ためにまとまったお金が必要となりますが、母澄子さんは圭子さんにお金を渡さなかったそうです。「当時、藤さんは母に強い不信感を抱くようになっていたんです」と2013年9月12日発行の女性セブンににあり、「宇多田家の知人の話として次のような記事が掲載されています。「彼女は絶縁したお父さんから、以前、お母さんが藤さんのギャラを着服していたという話を聞かされていたようなんです」」と。

 母親がギャラを着服していたこと、母の目が実際には見えていたことを知り、歌手になったことも含めて長年母のために尽くしてきたことが裏切られたことを知って、精神的にひどい危機状態に陥っています。こう言う精神状況の中で、当時母親の住んでいる綾瀬のマンションも売却していまいます。
 「私が買ってあげたものなのに私の好きなようにして何が悪いの。ニューヨークで暮らすのはヒカルのためだから」と言う圭子さん。竹山澄子さんから妹の竹山幸子さんの話しでは、「純ちゃんは宇多田さんとニューヨークで暮らす為にマンションを売却して。宇多田さんのお父さんの借金2000万円を立て替えてあげてと、お金がどんどん出るようになって。そんなことしているうちに経済的に苦しくなり、純ちゃんは歌手の営業に出なければならなくなった。芸能界がいやで引退したのに、また仕事をすることになったのです。そのころ姉は綾瀬にマンションを買ってそこに住んでいました。
 ところが宇多田さんが「借金があるから、マンションを売れ」、「その金は圭子の金だろう!」と迫るようになった。姉は毎日、宇多田さんの怒声を浴びて。私は姉に「あなたの家なんだから売る必要なんかない」と励ましました。でも姉は「おっかない、おっかない。殺される」と脅えていて。結局、姉は一生住むつもりだったマンションを手放して、お金を宇多田さんに渡してしまった。姉は粗末なアパートに引っ越すことになってね。姉と宇多田さんの関係は、それっきり途絶えたのです」と述べている。

 このように実母の竹山澄子が「印税使い込み」したと言う情報は、圭子さんが絶縁したお父さんから聞かされたことであり、圭子さんの「お金」は、はじめから母親の竹山澄子の銀行口座に振り込んでおり、そのためすべて母親が管理していて、必要に応じて母親から藤圭子はお金を受け取っていたことになります。母親澄子の目が見えていた件も、網膜色素変性症の症状は、暗いところでものが見えにくくなる(夜盲)、視野が次第に狭くなる(視野狭窄)、視力の低下などが特徴的ですので、パチンコをすることができたことを考えるとある程度見えていたわけで、圭子さんに誇張した情報を与えた人がいたのではと考えています。

 然るにそのこと(母親がギャラを着服していたこと、母の目が実際には見えていたことを知り、歌手になったことも含めて長年母のために尽くしてきたことが裏切られたことを知ったこと)で藤圭子さんは精神的にひどく不安定となり、母親らによって精神科病棟に強制入院させられています。退院はしたものの、精神的に消耗がひどく、歌も満足に歌えなくなったのでしょう。そうした危機的状況を救ったのがヒカルの存在です。圭子さんはヒカルを世界に通用する歌手に育てることに生きる意味を見出したのです。ヒカルが5歳頃のときに杉並の自宅マンションに、ヒカルのレッスン用の鏡を取り付けたという業者の話が掲載されています。

 つまり、「体調を崩して歌えなくなったとき」(吐きまくりの人生)というのは1988年のこの事件が発端と思われます。なお、圭子さんの実母竹山澄子さんの話では「1985-1989、7歳頃(2〜6歳)まで孫(宇多田ヒカルさん)の面倒を見ていた」と話しています。

参考: 圭子さんは結婚後も「パニック障害」を思わせる話があります。1988年前後で「母親がギャラを着服していたこと、母の目が実際には見えていたことを知り、歌手になったことも含めて長年母のために尽くしてきたことが裏切られたことを知って、精神的にひどい危機状態に陥っ」たとのこと、実兄の藤三郎氏(芸名)は「確かに妹は精神的に不安定な状態が続いており、私達の母親が治療を受けさせようと、千葉県内の病院に入院させたことがあります。そのころの妹は、母親の言葉に従って素直に入院治療を受け入れるような状態ではありませんでしたから、母親は実の娘である純子から恨まれるのも覚悟のうえで、半ば強引に治療を受けさせることにしたのです。(中略)純子(圭子さん)が入院したときの容態は、兄としてはとても口にできません」と言っています(2013年9月14日発行の週刊現代)。

 以上のことを考えあわせれば、照實氏は傍観者ではなく藤圭子さんを精神的にひどく不安定にした当事者であり、「僕に対する不信感を抱かせること」、「彼女の苦しみは年を追うごとに重症化」の原因は照實氏にもあるのではないでしょうか。このことを、こともあろうに「元妻が統合失調症になった原因が解っているから心配してません」と言うのは無責任で、これを黙認している宇多田ヒカル氏の言動も照實氏のいいなりと言わざるをえません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?