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【スイクラ】03:Vita版後としてのSwitch版――橿野柘榴は個人か人形か

■始まりはSwitch版前情報

私は基本的に非自己投影型と言いますか、主人公を自分とは異なる一個人と認識して、主人公を中心に語られる世界を眺めるのが好きなタイプです。

『スイクラ』もVita版では橿野柘榴という少女の物語として読み進めました。が、Switch版を触るに当たってひとつの疑問がわきました。

橿野柘榴とはまったく異なる少女を主人公とした時、物語はどんなふうに見えるだろう?

なぜそんなことを思ったかと言えば、Switch版の前情報がきっかけだったと思います。

何せとことん橿野柘榴という少女が出てこない。ブログのキャラ紹介でビジュアルはシルエットだし名前は塗りつぶされ「あなた」という扱いです。新OPにもTwitterにも橿野柘榴の姿はありません。

新OPの最後では時間が早戻しされるような部分がありましたが、単に戻すだけなら橿野柘榴だってVita版……6年前と同じように、そこにいていいはずです。でもいない。

ということは、橿野柘榴以外の誰かを主人公に据えても物語が成立するのでは?

思えば新OPではぐちゃぐちゃに崩されたお菓子の載ったお皿に、煌々と燃える蝋燭が1本ありました。これこそが橿野柘榴なのでは? と、ふと思いました。

蝋燭は火をつければ少しずつその身を減らしやがて「なくなってしまう」。《スイートクラウン》が自喰を繰り返すことで体が朽ちるのと同じように。

Vita版発売から6年経った今、橿野柘榴という“女王様”の命が尽きようとしている。そのための“代替わり”役として招かれたのがSwitch版の主人公である……そんな解釈も成り立つのではないかと頭によぎったのです。

■橿野柘榴の特別性を否定してみる

この仮説は私にとっては受け入れづらいものでした。だって城には橿野柘榴の双子の弟がいて、それは5年前に行方不明になっていて、元を辿れば橿野柘榴の幼少期からの言動が原因でいわば橿野柘榴は「当事者」です。でもそれもずっとずっと元を辿れば、橿野柘榴と同じ意味の名を持つ青年が引き金となっている。

どこをどうしても数百年規模での運命性を持つ特別な存在で、だからこそ主人公たり得ている。他の人物がここに収まるのはどう考えても無理だ。

でも、だからこそ、橿野柘榴以外の女王様に興味がわきました。Vita版の真相で柘榴ちゃんが「忘失」されることを選んだ事実を「なかったことにしたくない」という気持ちもあり、Switch版を橿野柘榴の物語として改めて追うことに抵抗を感じていたのも影響しています。

そして何より、TAKUYOと井上さんへの絶大な信頼が興味を膨らませました。

橿野柘榴以外でもちゃんと成立するように話を作っているに違いない。

橿野柘榴に固執して、TAKUYOが用意した「橿野柘榴以外の物語」を見ないのはもったいないのでは?

そうしてSwitch版が発売された日にVita版で橿野柘榴の物語(時間の都合で古橋深愛グッドのみ)を見て、それから「橿野柘榴以外」の主人公を用意してSwitch版に臨みました。(こちらも時間の都合で古橋編のみ)

結果を先に述べます。そこにはさらなる地獄が存在していた。

■教訓:悪魔の言うことは信じるな

用意した主人公はとにかく橿野柘榴の運命性を否定して創り上げてみました。

名字も名前ももちろん変えて、表情の表示はOFF。双子の弟なんていないひとりっこで、だから生きることへの後ろめたさも居心地の悪さもそこまで深刻には感じていない。

とりあえずそれだけ決めて後は流れでイメージを膨らませよう。そう思いながらゲームを始めたら2画面目でやられました。

私には双子の弟がいた。
(――1999年、白樫の森にて)

あ、はい。(率直な感想)

やはり橿野柘榴以外は無理なのでは……とは思わず、すぐさま思い出すことがありました。曰く、城に来た時点で招待客は全員思考力や判断力が落ちていたと。ただ、これはあくまで城側の、悪魔の言い分です。

本当はもっと早い段階……城に向かい始めた時点で、あるいは招待状が届いた時点で、判断力が落ちていたら?

本当はいもしない双子の弟を、《スイートクラウン》の力で「いる」と思い込まされていたら?

弟が大事だった、弟といると仕合わせだった、私が苦しいのは弟を失ったからだ。そう語る一方で弟との具体的な思い出を語れないのは、そもそもいなかったから。それなのに悪魔に「都合よく記憶を改竄した」と責められるがままにそう信じ、ありもしない罪を数えられ、報いとして自分を消したことになります。

ゾッとした。

■橿野柘榴という“人形”

表情をオフにして話を進めたとき興味深かったのは、ケイファが用意した赤いドレスを身にまとった時にスチルという形で強制的に橿野柘榴の姿が主人公であると定められてしまうところです。

鏡に映った姿を見て「これは自分じゃなくて“赤いドレスの女王様”では」と述懐する地の文がめちゃめちゃ効くんですよ。たしかにこの瞬間、平凡な主人公は“橿野柘榴”にされてしまった。猛烈にそう感じました。

となるとまた新たな疑問がわきます。誰もが“橿野柘榴”にされるなら、“橿野柘榴”とは何なのでしょうか?

どんなに真似したって、他人が別の誰かに成り代わるなんてことできるわけがない。できてしまうのは“おかしい”んです。

そこで思い出したのが日之世編だったでしょうか。道化師はたしか「君そっくりの菓子人形を用意して永遠に君を愛そう」というようなことを言っていました。

菓子人形には死者の魂を入れ込んで完成します。

つまり橿野柘榴とは「お人形」に過ぎず、中身は毎回違う子供の魂をねじ込んで「橿野柘榴役」を演じさせているということでは。

■プレイヤーのために繰り返されたお茶会がSwitch版説

……そうだとすると、めちゃめちゃえげつないことになってしまいます。

Switch版で扉を選ばされる時、まずは城の門が表示され道化師に歓迎されます。すべての招待客はすでに城の中にいるのにです。

あれ、たぶんプレイヤーも招待客ってことなんですよ。で、城……あるいは橿野柘榴(役)のこれからの決定権を委ねられているなら主賓と言っても過言ではない。

さらに思い出せば、《スイートクラウン》の力は過去には関与できない。時間を戻すこともできない。そしてSwitch版前情報ではVita版の主人公はどこにもいなかった。ということは、新OPの早戻しはフェイクでやはりSwitch版はVita版後と考えるべきです。ならば。

Switch版は、再び城を訪れた主賓・私のために、無関係な子どもたちをかき集め、記憶も思考も歪みに歪め、6年前の再現劇を演じさせている。ということに、なって、しま、う。

……古橋編をたどる古橋旺一郎だけ表情の変更が加えられているのも、主人公と似た者同士であるためでは。主人公の“中身”が変わる以上、古橋も変節する必要があったとかそういうことなのでは…………。

■それでも橿野柘榴という少女は存在した(と思いたい)

でも私はVita版で橿野柘榴という少女の物語をたしかに追いました。その過去をなかったことにはしたくない。

ならばこう考えるしかない。橿野柘榴という少女はたしかに存在した。だからこそ真井知己は橿野柘榴と似た容貌をしているし、橿野知也は悪魔と化し、道化師は己を失うまでに追い詰められたのだと。

けれど私がVita版で見守った橿野柘榴という少女は、どれだけ「原型」を留めていたのでしょうか。

思考力も判断力も失われたところから物語は始まります。「橿野柘榴以外の誰か」と同じように、悪魔が数えた罪もどこまで本当か分からない。歪愛ルートは悪魔の言葉に惑わされ、その道行きも悪魔に歪められたもの。一方で深愛ルートは「改悪」であり「男たちの望むまま削り取られていった」話でしたか。さらに行動の選択は我々プレイヤーに一任されていたわけで。

彼女の意思が介在する余地がどれだけあったのでしょう。やはりお人形か、駒と見た方がしっくり来るのでは? なら私がVita版で考えていた橿野柘榴の人物像は何だったのでしょうか?

いっそ始原の双子はそれこそ神代にまで遡り、橿野柘榴と真井知己の容貌が似てるのも「そういう役として用意された人形だから」と言われた方がマシな気がしてきました。

Vita版をコンプした時「真井知己に人権をくれ」と嘆いた記憶がありますが、橿野柘榴にも人権をくれ……そんなことを考えながらもういちど橿野柘榴の物語を眺めてみても面白そうだなぁと、Switch版でも結局は名前を橿野柘榴、表情の表示をONにして頭から眺めてみています。

と、ここまで書いて気づいた。自己投影派として眺めれば単にいつでもプレイヤーが憑依できる“ガワ”が橿野柘榴だよってだけで済むのでは。

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