無住と統合失調症

無住とは何か

仏教で言う"無住(ニルヴァーナ)"とは、煩悩や執着心から解放された完全な悟りの境地のことです。この状態に至った者は、一切の煩悩を手放し、真理を直観する"般若(プラジュニャ)の智慧"に満ちているとされています。

具体的には、無住に立つと、対象への執着がなくなり、物事をありのままに受け入れられるようになると言います。感情の動揺から解放され、理性と平静さが保たれる境地と言います。「涅槃(ネハン)」とも呼ばれ、煩悩の炎が消え去った冷静な心を表現する言葉です。

一方の統合失調症は、精神疾患の一種とされており、現実との接触を失い、様々な障害が現れる病的な状態です。主な症状としては、幻聴・被害妄想、思考の解離、感情の行き違い、無為・離れ業などがあると言われます。

統合失調症の人は現実を正しく認識できず、常識を逸脱した言動に走ることが多く、自己や周囲の現実とのつながりを失い、理不尽な思い込みに捉われてしまうそうです。

統合失調症の原因は脳内の神経伝達物質の異常などが指摘されていますが、完全な解明にはいたっていません。

無住と統合失調症の違い

一見すると無住と統合失調症は正反対の概念のように見えますが、双方とも一般の常識を逸脱し、日常の意識状態から外れているという点で、非常に似た性質を持ちます。

無住は真理の自覚に基づく高次の覚醒状態とされていますが、外部から見れば理解し難いと考えられます。そして、統合失調症の妄想発言にも一定の論理性や文脈が存在する場合があり得ます。そのため、言動の内容だけでは両者を見分けるのは容易ではありません。

しかし、根本的な違いは、無住の人は煩悩を離れ悟りの知恵に基づいて行動するのに対し、統合失調症は病的な思い込みに捉われているという点にあります。前者は真理の自覚に裏打ちされた理性的な状態ですが、後者は病理的な意識の歪みがあるとされます。

しかし、この違いを外部の観測者が正しく見極めるのは可能なのでしょうか。極端に言えば、その人間と対話を試みている時点で会話として成立しません。つまり、創始者の言葉とみなし素直に受け入れるか、それとも病的な発言とみなすかの二者択一を迫られてしまいます。

観測者(評価者)の存在

宗教の成立には、創始者の教説だけでなく、それを受け入れる側の観測者が必要不可欠でした。同様に、無住や統合失調症のような主観的体験は、外部からの検証が極めて難しい性質のものです。

だれかが「私は無住の境地にいる」と主張しても、観測者はそれを実際に確かめる術がありません。観測者は、その主張を信じるか、統合失調症の妄想とみなすかの選択を迫られます。主観的体験には社会的合意を得るのは非常に難しいことになります。

しかし歴史的に見れば、宗教には様々な要因から、観測者(評価者)は信者となるインセンティブが働く場合がありました。たとえば、精神的充足感や因果応報への願望、共同体への帰属意識の充足などです。また、創始者の人格的魅力や教説の説得力なども大きな要因だったはずです。

つまり、無住の主張が受け入れられたのは、観測者の価値観や体験、求めるものと教説がマッチし、一定の合理性や実在感があったからこそと考えるのが合理的です。完全に検証不可能でも、納得性があれば受容される可能性があったと考えられます。

まとめ

無住(あるいは天才)か統合失調症かの判断は、 観測者次第の"信じるか信じないか"の問題に帰着します。しかし、それには何らかの合理性と説得力が必要です。

観測者一人一人の受け止め方次第で、統合失調症と見なされるか、あるいは究極の真理の境地に達していると受け止められるというわけです。

では、私たちはなにかやるだけですぐに狂っていると言われる世界で、最初から誰にでも理解できる言葉や方法で取り組む必要は本当にあるのでしょうか。

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