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遠征を終えて

佐久では、会いたかった友人たちに会うことができた。林業に勤め、木という人びとに触れ合うことから学び始めた友の家に、ピンポイントの時間、タイミングで会うことができた。
今回長岡でも生木に触れることができたけど、とても瑞々しい、生命感、命としての存在を強く感じることができる。彼はいわゆる製材された板材、との違い、こういうところに、こんなふうに生えているんだ、と改めて感じることができたそう。
彼は以前、瞑想とヨガを敬虔にされていたのだけど、いまはもっとくだけた、オリジナルの瞑想?ストレッチ?をしているそうで、やはり内観は特別大事にして扱っているようだった。

マッサージの友人に施術して頂いたのだが、明らかに今回過食だなーと思っていた僕より、妻が美味しくご飯を食べよう、食べすぎに注意、と自らの身体が声を発していたことに驚いた。
僕の身体は大丈夫らしく、まあ好きで食べている、たという感じなのかもしれない。ちなみに身体からのメッセージは妻を大事に、ということだった。

今回初めてお会いした布物を作られる方、お名前と作品は存じ上げていたのだけど、とても、なんというか、どこにでも染まる、くだけて、やさしい方だった。
彼女は布を工作、としての感覚で付き合っているそうで、洋裁、ということではないようだった。自分には技術がない、というか、技術はなくてもいいと思ってて、工作をしている感覚、昔から素材フェチで、異素材を組み合わせたりするのが好きだった、だからいつか布というところからも離れるかもしれない、と仰っていて興味深かった。
なんて広い器なのだろう、と思った。

最後に親友の夫婦。みんな好きなんだけど。
作品をまた拝見させてもらったら、明らかに違うフェーズに入っていた。なんというか、やさしい。ほっこりする、ぬくみ。じんわりあたたかい、手当てをしてもらってるような、愛おしい世界。おじいちゃんおばあちゃんの深い皺の向こうから輝くやさしい瞳、笑顔、そんな情景だった。
着実に、少しずつ、深く、たしかに、なっていた。
同じ時期に佐久に越してきたのだけど、こうも違うとは。いや、違って当たり前、比較なんてなんの足しにもならないのだけど、それでも思ったのは、着実さ。ひとつひとつの献身性。目の前のことに向き合い、やる。その積み重ねを見た。
彼らだって、たったいまこんなことになったのではない。確かに人望厚くセンス抜群ではあったけど、そういうことではないな、と思った。
きちんと、自らのことをやる。目を逸らさない。
それだけ、その積み重ねなのだと感じた。

それがとてもとても難しいんだけどもね。
言い訳はもういいや、やらなきゃ。

今日は起きて家を掃除して、午前中から木を掘り始めた。
コナラでメジャーを彫り、本当に堅かったけど、少しずつ彫り進めたい気分だった。出来上がった作品は昔よりおおらかになっていた。
その次はホームセンターで買って棚に使った杉の端材。

マッサージの友人宅で使われていた、マツか、杉かのバターナイフ。北欧に住む友人親子が作ってくれたそうで、なんとも愛らしい様相を呈していた。
そう、欧米?北欧?では、針葉樹が1番高価な木と聞く。日本ではこんなにも有り余っているのに。
彼らのために踏み台を作るのだけど、その材が絶対に針葉樹がいいと感じていた。針葉樹は、清浄、という言葉が当てはまる。澄んでいる。
余った杉材を彫ったら、これまたいい感じ。
でも難しい!
木口面がポロポロと崩れていってしまう。これは向き合う時間がかなり必要だと感じた。

根元からがっつり折れていた心は、いつのまにか優しく立て直され、また歩けるようになっていた。
明日からまたひたすらに削ろう。

みんなありがとう。