2023年12月13日 末広亭12月中席夜、伯山芝居「大高源吾」

あんなに聴きたかった源吾だけど…飽く迄も、飽く迄も私一個人の好みとして。

「宗匠!御目に掛るはこれ限り。千万年の御寿命の後、冥府に於いて緩々御物語仕る、御免!」

ここがバッサリ切られてしまっていたのは、とてもとても残念だった。この台詞こそ、今生の別れを示す大切な台詞だと思っているから。

アレンジなのかな。それとも間違いだったのか。
句で別れを告げる場面の最初の句も、「日の恩や忽ち砕く厚氷」だったので戸惑ってしまった。

大きくもう一つ。
「余白がかなり少なくなったな」と。
義士や講談自体が初拝聴の方に分かり易くと、風習・情景など丁寧に説明書きを添えた詠み方をしたのだろう。

飽く迄も私の個人的な好みとして、「漫画より小説の方がいい時もある」というか。
漫画の場合、絵があるので自分で視覚的な場面を起こす必要がない。
翻って小説は、文字しかないので自分の想像力で絵や映像を起こさなければならない反面、自分の想像力さえあれば広がりは無限大だし、自分の好みの絵が起こせる。

つまりは、情景を全て説明されてしまうと、自分の想像で描いた情景が打ち消されてしまい、それが災いして、世界に入り込めないことがある。今日のは正にそんな感じ。

仕方ない。慣れていないお客様にも聴いて貰わなければならないから。

文化や言葉も生き物だ。
私が尊敬する金田一秀穂先生も「言葉は生き物だから」と、例えば若者言葉や、時代と共に本来の読み方や用例とは異なる(間違った)変化を遂げた言葉に眉を顰めるのではなく、用例採集の対象として興味を持ち、面白がり、受け入れ、研究し。

つまりは私が寛容ではなく、進化できていないだけだ。

以前、小痴楽のシブラジ(楽屋ぞめきの前身)で、「若い噺家は情景の説明書きが丁寧になりがちだけど、歳を重ねていくにつれ、削ぎ落とし、洗練され、シンプルになる」というような趣旨の話をしていた。
確かに、そこで紹介されていた師匠方の高座は、無駄が無く、間の使い方が絶妙だった。

はくちゃん…まっちゃんの大高源吾を初めて聴いたのは7〜8年くらい前だったかな。愛山先生の源吾とよく似ていた。
恐らく教わった通りに掛けてて、シンプルで、でも、想像で情景がみるみる頭に描かれて、ぐぐっと土屋邸の場面に入り込み、息ができないほど、嗚咽を漏らすほど大泣きしてしまった。

これから何年も聴き続け、追いかけていれば、またそんな高座が聴けるだろうか。
それを楽しみにするのも良いかな。

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