【3と1と1】④震災
大分間が空いてしまいましたが、震災についての投稿を続けます。
今日であの日から11年。メディアに311が取り上げられる機会は減っていくんでしょうか。
あの日のことを風化させないためにも、拙い文章ではありますが、興味のある方は最後までお付き合いくださいませ。
ということで今回は、前回の続きで、あの日の翌日のお話をしていこうと思います。
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隠したおにぎり
3月12日早朝。孤立していた半島に、瓦礫をかき分けて消防の方達が救援物資を届けてくれた。
頂いた物資は食料や毛布で、おにぎりは基本1人1つ、ペットボトルの飲み物は1本を2~3人で分けさせてもらった。
余ったおにぎりは、希望者に与えられることになったので、すかさず立候補した。そのおにぎりは、安否がわからない家族と会えたとき、家族にあげようとその場では食べずそのままポケットに入れたのを覚えている。
みんながお腹いっぱいには食べられない状況で迷わずおにぎりを貰ってしまったことに後々罪悪感が芽生えたりもした。
本州へ~目の当たりにした災害
当時私たちは半島で孤立していた状況ではあったが、地域の人達のおかげで段々と道ができ、児童は2クラスごとに本州へ避難することになった。
本州への移動中、初めて瓦礫だらけの自分の町を目の当たりにした。
どこだか分からなくなった道。
ぐちゃぐちゃになった道に散らばる自分達の勉強道具。
これらが視界に入るなり、ああ、小学校はもう失くなってしまったのかもしれない。と悟った。
移動中には津波警報が発令されたため、泥だらけになりながら一生懸命近くの崖や坂を登ったことがとても強く印象に残っている。
この時に津波が来たかどうかは分からないが、それでも地域の被害を目の当たりにし、サイレンで色々なことを思い出してしまったので、音に殺される思いで避難させられた。
そして、そんなこんなでやっと本州の方へ戻ることができたのだった。
再会
避難所には家族は見当たらなかった。家は高台だったので、実家が無事なことは予想できていたが、その日は通っていたピアノ教室に、下校しそのまま向かう都合があった。いつもならば親が学校の下で待っている曜日だったので、学校が流されたのを理解した時、生きていない可能性も考えていた。
しかし、幸い家族は全然無事だった。
自分が帰宅した後、それぞれ安否が分からなかった姉、父も帰宅し全員揃ったところで、10才の私は安堵からかその数日溜め込んでいた涙を初めて流した。
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あの日の語りはここで一旦おしまいです。
ただ、これらは表面的な事実を述べた段階に過ぎません。
ここから何を失い何を得たかも整理したいですし、そもそも東日本大震災の被害は3.11だけの話だけではありませんでした。
これまでたくさんあった嫌なこと、良かったこと、ひっくるめてちゃんと自分の単なる過去ではなく"経験"として活かしていくために、もう少しだけ災害については時々書いて行きたいと思います。
自分の経験は全てではないし、もっと被災している人なんて沢山います。それでも一人一人がちゃんと誰かに伝えていくこと、この経験と向き合っていくことが次の世代にも繋がると信じてこれからも投稿していきたいです。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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