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【3と1と1】②その日の話

どうも、ひろえです。
【3と1と1】シリーズ第2回目の投稿です。

▼前回はこちらから
https://note.com/ypnugu7676/n/n67f0b45ebaf1

今回は、早速震災当時、私が小学4年生で経験した東日本大震災のお話をしていこうと思います。是非最後までお付き合いください。
※災害発生時の表現があります。震災のことで胸が痛くなる方はオススメしません。

🐧 🐧 🐧

不穏な水曜日

その日の2日前。3月9日(水)。その日は小学校で授業を受けていた。元々地震の多かった地域だったので地震には慣れていたが、その日の地震は長く大きく、揺れる前から大地が唸り声を上げていたことを覚えている。

幸い、停電はしなかったので、すぐに担任が教室のテレビをつけた。津波注意報が流れていたそうだが、なぜかそれよりも当時の私はその時TVで流れたニュージーランド地震による被害の報道を見てパニックになっていたことを覚えている。

幸い、その日は無事に帰宅できた。家に帰ると、専業主婦の母に地震発生時の話を聞いた。母は車に乗っていて、サイレンで初めて地震があったことを知ったと話していた。ニュージーランドのニュースに引っ張られていた私は不安で仕方なかったので、母に「もっと気を付けなよ」と伝えたのだった。

あの日があの日になった日のこと。

あの日は総合の時間があって、そこで4年生のお楽しみ会(毎年、年度末に行うクラスレク)の準備をしていた。

私の班は、紙芝居を使って1年を振り返るというレクの準備をしていた(気がする)。

その日は自由時間が多かったので、ほぼふざけて遊んでいた。というのも、その日の総合の時間は、まだ課題に追われている人と担任はコンピューター室(教室が一階で、コンピューター室は2階で教室とは離れた位置にあった)で作業をしていたため、教室で何をしても怒られない状況だったからだ。

そんな状況で、あの時は突然やって来た。

地震

ガタガタガタ、ガタガタガタガタガタッ
ガンガンガンガン、バンバンバンバンッ

今にも窓ガラスが割れそうな勢いで音が鳴る。9日の地震では崩れなかった、みんなの頑張りを可視化するために集めていたノートのタワーが崩れた。停電も起きる。

身体中にその揺れと音が伝わって、小さな体が今にも壊れてしまいそうだった。未だ嘗て無いような地震やそんな時大人がいない状況に、不安に殴られているような気分になった。

暫くすると教頭先生が来て、外に出るよう指示を出してくれた。先生が、大人が見たことがない程に焦っていて、これはただ事では無いのだと痛感した。

外に出た後、避難訓練通りみんなで校庭に避難をした。

目の前に起こる大災害に、パニックになるクラスメイト、止まらない地震、突然の「大津波警報」のサイレン。言い出したらキリがない程色んなものに襲われた、地獄のような時間だった。

そこから先の避難の様子はTVでも何度か取り上げられている。

🎥https://youtu.be/mkP-ZPJE-QE

標高18メートルもの津波が町を家を、母校を襲ったが、先生の助けもありこうしてギリギリ生き延びることができた。

それから、津波により本州へのアクセスが途絶えた児童は半島に取り残され外部の情報がなにもわからないまま一夜を過ごすことになった。

🐧 🐧 🐧

津波に追いかけられた時、無我夢中で山を駆けたのを思い出しました。あの時あの場所にいたほとんどが未曾有の大災害を前にパニック状態だったのではないでしょうか。

そんな中でも津波を児童が直接見ないような逃げ道を考えたり、児童が取り残されないように考えて動き続けてくれた当時の先生方を尊敬しています。いつかあの時のお礼が伝えられるように自分自身胸を張って生きていけたらなと思います。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

次回はこちらから▼
【3と1と1】③表情|Hiro
https://note.com/ypnugu7676/n/ndd145538d89e

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