愚者体験〜優しさには馬力がいる〜

記載 2018/04/14 22:12 〜 2018/05/08 10:00

沖縄県の離島から就職お上りさんとして東京周辺でジャバニーズプログラマ(IT土方)として働き始めた僕である。

小さな会社で労働力として切売りされていることでの数少ないメリットの中に、バリエーション豊かな現場を見る機会に恵まれるということがある。

今回は、その中で感じ取った体験を思い出す。

内向的で自己表現の力に乏しく、おまけに自己評価低い人間にとって社会人生活は毎日が恐怖だ。
『まず間違いなく邪魔してるんだろうな』とか、『わからないことがわからない自分ってやべー奴』とか、頭カラっぽなのに夢どころか、自分が幻視した悪夢が我先となだれ込んでくる。

そこに常駐型IT土方特有の仕事環境の変化が加わるとメンタルの加圧トレーニング状態になるので、僕が無事なのはラッキーのおかげだと思っている。

具体的に何のラック(運)かと問われれば、『人間運』と答える他はない。
仕事の悩み解決系の話(本なりブログなり)でも人間関係についての記述が出ている(僕が目にした範囲)し、実感としても重要だろうと思う。

場所が変われば人も変わる。パッと思い出せる事の羅列になるけれど、
なぜと思うぐらい励ましてくれた人もいた。
あらゆる事を全て丸投げしてきた人もいた。
自分にも他人にも厳しい人もいた。
コードに妥協しない人もいた。
哲学を貫く人もいた。
立場に振り回される人もいた。
僕のようなその他の人がいた。

憧れてみたり、納得してみたり、許せなかったりしながら、2018年時点の僕としては『なるべく人に優しめにやっていこう』とザックリ考えている。『なるべく』や『優しめ』といったところが愚かな自分への前持った言い訳になるのだが、おそらくそうなるんだろうとなぜか思う。

『優しさ』と言う言葉の定義は非常に曖昧なんだけれども、僕は『人間の理不尽さに向きあう行為』なのでは?と予想している。

自分で書いているのに『予想』とは何なんだとは思うが、正直なところ何が『優しさ』なのかはさっぱりなのだ。

雰囲気としては、『慈悲』とか『慈愛』っぽい何かが連想されるが、今ひとつ適用範囲と継続性の汎用化に自信がないし、未来も読めないので時間による風化に耐えうる行動や言動なのかもよくわからない。何より受け取る側の主観フィルタの壁にちょっとビビってしまう。

少し話がそれてしまうが、人間は理不尽だ。これは僕の経験だけど、『理不尽に面倒くさい』ケースと『理不尽に優しい』ケースが混在している。

前向きにも後ろ向きにも、はてはナナメ方向にも人間のふり幅は自由自在すぎる。
加えて、関係性や時間、相手の主観、自分の主観、無意識の自身のふり幅などなど、数えきれない要素のレバレッジ(てこ)を効くので、人間は僕自身も含め、理不尽なモノで常に矛盾を抱えてる。とか思っている。

話をもどすと、こんな理不尽と矛盾で回る万華鏡の中で、『自分が優しめにやれているのか』を観測し続けるのは結構な労力だ。
そもそも観測そのものが無意味な徒労な気がしてならないが、そんな性根に生まれてしまったのでそこは諦めている。

疲れる、本当に疲れるのだけれども悪い事ばかりでもない(ないはず)。
まず相手にとっての『優しさ』を知るためには価値観の違いを受け取る必要がある。

これは、平積み本に書いてある傾聴力に近いものがあるし、受け取った価値観を知るために調べものや考え事をしてると、やはり平積み本に書いてあるインプット行動に近いものを感じている。
そして把握した、相手にとっての『優しさ』を実行に移すのが至難の技になる。

自分の能力値で実行できるやり方を探すのが難しいし、他にやり方が見つからなければできるようになるか妥協するしかない。
実際に実行に至るのは、こしょう少々のレベル(あくまで僕の場合)でしかない。
ゆるく『優しめに』やっていこうとすると、結局何やかんやと自力を鍛えざるをえない。

よって、大多数をしめるその他大勢(もちろん僕もここ)にとって、優しめに生きるのは、成長するのに最も合理的な手段になりえると思う。

ようやくタイトルを回収できる。。。
優しさには馬力がいる。ウマなみの自力がいる。ウマ娘プリティダービー(アニメ)面白いからオススメ。

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