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八重垣大明神 Part 2 現地で噂される怪談の矛盾

●八重垣大明神を知らない方へ

 本記事で紹介する八重垣大明神とは、大阪市北区の扇町公園の南端に鎮座する正体不明の神社です。8畳程度の境内に、石碑、祠、それらを囲む玉垣が立つものの、常に鍵の掛かった金網に囲まれ、鳥居を持たず、自由な参拝が出来ません。

 立地も気になります。阪神高速道路12号守口線の扇町出入口と扇町通に挟まれておりまして、とても窮屈なのです。

 異様な外観のせいか、怪談の舞台にもなっておりまして、崇敬の対象とはは思えない神社なのですね。誰が何を目的に祀った神社なのか、そもそも神社なのか。八重垣大明神から徒歩5分の距離に住む私・吉野が、明らかにしてみたいと思います。

中央の茂みの中に八重垣大明神が鎮座します。写真の左が北、正面が東、右が西になります。左の道路が阪神高速道路12号守口線の扇町出入口、その奥が扇町公園、右の道路が扇町通、右奥に見える高架道路が阪神高速道路12号守口線です。
上の写真は矢印のあたりで撮影しました。
扇町通から北を向いて撮影しました。一見すると神社に見えないですよね。
金網越しに覗いた境内の様子です。東を向いて撮影しました。


●現地で噂される怪談

 まず八重垣大明神の由緒として噂される怪談を紹介します。
 
 時は江戸時代の初期。
 十三郎は浪速屋の娘・お糸を恋い慕った。しかし、お糸は既に天満堀川の渡し守の息子・与八と睦まじく、十三郎の恋は叶わなかった。
 叶わぬ恋に悩む十三郎は、お糸と与八を恨めしく思うようになり、ついに2人を斬りつけてしまった。与八は即死し、お糸は重傷を負い、十三郎は殺人の罪で処刑された。
 お糸は後に傷の癒えたものの、次の言葉を遺し、与八の後を追って自ら命を絶った。

    いつの世までも 悪霊となって
    堀川林の恋を呪って

 お糸の呪いのせいか、70年後に恋仲の八重垣姫と吉五郎が同様の悲劇に見舞われてしまった。
 相次ぐ刃傷沙汰を重く見た町人が、これ以上に悲劇の血を流さぬようにと願い、八重垣姫の名を冠する八重垣大明神を造営した。

*  *  *

 現地に伝わる怪談は以上です。

 刃傷沙汰による犠牲者を鎮める神社だなんて、何やら不穏な感じがしますね。しかし、この怪談には矛盾がありますので、簡単に指摘してみます。


●怪談の矛盾 1

 呪いを鎮める目的で造営したなら、どうして「お糸大明神」と名付けなかったのでしょうか。呪いの根源はお糸ですから「八重垣大明神」では道理が通りません。八重垣姫はむしろ呪いに当てられた被害者でしょう。


●怪談の矛盾 2

 江戸時代初期の天満堀川は約1kmにわたる入堀(河川との分岐から掘り進めた運河)であり、扇町のあたりで行き止まりになっていました。また、開削の時点で6本の橋を持つので、渡し守を必要としなかったはずです。したがって、渡し守の息子・与八の存在があり得ません。
 ※天満堀川の来歴はPart3で紹介します。

 1657年の『新板大坂之圖』の天満堀川です。6本の橋を北(左)から南(右)に列記します。
1 ぼうずはし  2 名称が不明の橋  3 天神町はし 
4 ひとつはし  5 ひのゆはし    6 いやをうはし
天満堀川の北(左)の突き当たりが、扇町公園と八重垣大明神の位置になります。
高速道路の真下が天満堀川の跡地です。埋め立てと同時に高速道路の建設を行いましたので、橋脚と橋脚の間がほぼ川幅に相当します。川幅が狭く、やはり渡し守の出番がなかったと思えます。

 指摘は以上です。

 お糸や八重垣姫らの悲劇は全くの嘘なのでしょうか。しかし、火のない所に煙は立たぬと言うべきか、怪談の種らしき二つの物語を見付けましたので、次にざっと紹介しておきます。


●怪談の種らしき物語 1

近松門左衛門による人形浄瑠璃の演目
『津国女夫池(つのくにめおといけ)』
1721年(享保6年)

 冷泉造酒之進(れいぜいみきのしん)と妻の清滝は、あることから自分たちが兄妹だと知ってしまった。苦悩の末に女夫池(天満堀川の先端にあった池)への身投げを決意した2人に、造酒之進の父・文次兵衛(もじべえ)が過去の過ちとして次の内容を告白した。

   「駒形一学(いちがく)という名の男がいた。
    彼には先妻との間に生まれた息子と、
    若く美しい後妻がいた。
    俺は一学の後妻を恋い慕うあまり、
    一学を闇討ちし、
    未亡人となった後妻を娶った。
    また、一学の息子・造酒之進を養子に迎え、
    その後に俺と後妻の間に清滝が生まれた。
    つまり、造酒之進と清滝よ、
    お前たちは実の兄妹でないのだ」

 この文次兵衛の告白を後妻が聞いてしまった。後妻は文次兵衛こそが先夫・一学の仇であると知り、文次兵衛に一太刀だけを報いた。そして、文次兵衛と後妻が女夫池に入水した。


●怪談の種らしき物語 2

近松半二による人形浄瑠璃の演目
『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』
1768年(明和5年)

 不和の続く武田信玄と上杉謙信は、室町幕府の十二代将軍足利義晴の暗殺犯を突き止めるべく、3年間の休戦に合意した。
 両家はその間に和睦を目指し、信玄の息子・勝頼と、謙信の娘・八重垣姫を婚約させた。しかし、謙信はその裏で勝頼の暗殺を図っていた。
 八重垣姫は勝頼の危機を知り、狐憑きの不思議を起こし、愛する勝頼を守ろうとした。

*  *  *

 怪談の種らしき物語は以上です。

 前者『お糸と与八』から『八重垣姫と吉五郎』への流れと、後者『津国女夫池』から『本朝廿四孝』への流れが、まるで同じですよね。前者『お糸と与八』と『八重垣姫と吉五郎』が70年を隔てるに対し、後者『津国女夫池』と『本朝廿四孝』は47年を隔てます。間隔の違いがあれど、門左衛門と半二の作品が怪談の種となったと考えられそうです。また、八重垣姫の起こした狐憑きの不思議に注目したいです。狐憑きの不思議が転じて、八重垣大明神の呪いの噂を生んだのではないでしょうか。

 なお、門左衛門と半二は共に近松を名乗りましたが、両者に血縁はなく、師弟でもありません。半二が門左衛門を私淑(ししゅく・リスペクト)するうえで、ペンネームとして近松を名乗ったのだそうです。

「Part 3 怪談の生まれた背景は何か」に続きます。
https://note.com/yoyoyonozoo/n/na4750927c161

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