震災から10年

東日本大震災から10年。
思い出されるのは2011年3月11日14時46分。
今でも覚えてます。
 
その日は毎週レギュラー番組のナレーション撮りで溜池山王駅で降り、15時のナレーション撮りに行く日でした。
 
時間は14時40分。
残り20分。
飯を食う時間はないな、駅改札降りた地下のファミマでおにぎりだなと思いファミマへ。
 
その当時は激動の日々で1日15時間ぐらい働いていて、会議はもちろん収録、台本、宿題、リサーチ、ナレーションと何から何まで全部やっててもう訳の分からない日々だった。
 
そして14時46分。
コンビニを出て溜池山王駅12番出口へ向かっていた時のこと、足ではなく腰から砕け落ちた。
 
咄嗟に思った事
「過労で倒れるってやつだ。先輩の作家がみんな経験してるアレだ。ちゃんと4時間は寝ていたのに!」
 
足ではなく腰から来たので過労だと思った。
過労で倒れないように1日4時間睡眠は取っていて最低限の体力は保つようにしていた。
それが倒れるとは…
 
と思ったら砕け落ちてるのではなく、俺自身が揺れていた。
なんやこれと思い、イヤホンを外すと女の人の叫び声。
 
「きゃー!」
 
何が起きているか分からず、とりあえずその場に立っていると揺れが少し収まった。
駅構内アナウンスが鳴る。
何を言っていたか正確には覚えてないが、確か「近くの出入口に避難してください」と言っていたと思う。
 
目の先には12番出口。
 
アナウンス後、我先にと走る人達。
未だ俺の過労なんじゃないかと思ってた僕は少し小走りで12番出口を出た。
 
そこで見た驚きの光景。
 
六本木通りという長い通りがあって、その上を高速が走っているのだが、その六本木通りが波打っていた。
 
道路挟んだ向こう側の歩道の人の高さと、僕の目線が合わない。
道路が波打ってるのだ。
 
とりあえず編集場へ向かうとそのビルから避難してきた人が溢れており、とてもじゃないがナレーション撮りなんて出来る環境ではなかった。
 
エレベーターも止まりなんとか階段で向かうとプロデューサーとディレクターが録るかどうかの話し合いをしていて,結局余震もあるがナレを撮ることになった。
 
撮るんだって感じ。
 
他の番組が撤退していく中、残ったのは僕たちの番組と超長寿番組の二つ。
 
ナレーションブースは2つの二重扉になっているが、外側の扉を開けて収録した。
地震で潰れて扉が閉まらないようにと。
 
2時間遅れで収録し、終了したのは19時。
ディレクター達は残りの作業で残り、僕は帰ることになった。
 
が、電車は全線停止。
タクシー捕まらない。
よって僕は溜池山王から当時のマンションのある江戸川橋まで歩いて帰ることに。
 
溜池山王から帰ると、省庁官庁があり国会も近い。
そこから溢れた人で歩道は埋まり、車道は車が溢れ大渋滞。
途中、腹が減って減って、どこかで食べようと思ったが店がやってない。
やってないというのは地震で閉めたのではなく料理が売り切れでやってない。
吉野家が「無くなりましたので閉店です」と張り紙してあった。
 
マンション近くのコンビニに行くとパンやおにぎり、弁当は消えていて、あったのはサトウのごはんと冷凍チャーハン。
人生初のチャーハンをおかずに白飯食べた。
 
部屋は特に大きな被害は無かったが日本酒の一升瓶が倒れて割れていた。
 
実家の名古屋からの連絡が凄かった。
とにかく電話が繋がらない。
メールも繋がらない。
ようやく繋がったのは23時ぐらいだった。
 
無事を伝え、とにかく何があってもすぐに避難できる体制だけ整えた。
 
そこから1ヶ月、仕事がなくてバイト生活に戻るんじゃないかとヒヤヒヤした。

あれから10年か。
早いなぁ。

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