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次の一手を模索中【3】再手術〜からの再手術~からの(別の)手術

 第二次性徴期につまずいて、病気ばかりの時期が続きます。でも、こんなに具合悪いのが続く子は「めったにいないよ~」とのことです。私の考えていることも含めて、読むといや~な気分になるかもしれません。もしそうなってしまったらごめんなさい。病気のことを説明すると長くなりますね。

 6年になって、少し体調不良が目立つようになりました。朝起きられない、食が進まない。毎朝迎えに来てくれるお友達に、先に行ってもらうことが多くなりました。今度こそスルーされないよう、検診の時にそのことをしつこく申告したら、相変わらず「大丈夫だと思うけど」と言われましたが、そろそろ手術から8年も経つし、中学にあがる前に久々にカテーテル検査をしようか、となりました。

 検査が終わり、ストレッチャーに乗せられ、まだ眠っている3号について歩きながら、先生にお尋ねしました。

「滞りなく終わりましたか?」

 いつもみたいに「大丈夫だよ」といわれると思ったのに、

「あー、うん、後でゆっくり……」

 えっ、と思わず膝がかくんと落ちそうになりました。大丈夫じゃなかったの?

 結果は芳しくありませんでした。OKだと思っていたらNGという、カテーテルあるある。しかも診断は『再手術』でした。

 娘の心臓は普通のひととはだいぶ形が違い、左右の心室が逆についていました。全身に血液を送る大動脈が肺とつながるはずの右心室から出ていたので、根治手術でこれを本来つながるべき左心室につなぎ直しました。また、肺動脈は途中で途切れていたので、人工血管で右心室と肺をつなぎました。心房と心室の中核欠損も利用して、立体交差のような形で、全身の血液の流れを正常に戻したのです。

 今回のカテーテルで見つかった不具合は、この時両心室からつなぎ直した血管の流出部分が狭くなってきていることと、肺へ血液を送り込む上大静脈のくびれが進んでいることでした。上大静脈のくびれは根治手術後に残っていることがわかっていて、バルーンカテーテルでその部分を広げましたが、年月を経てまた狭まってしまったとのこと。今回の手術は、狭くなってしまった各部分を広げ、肺に繋がる人工血管を体の成長に合わせて大人サイズのものに取り換えるということでした。

 根治が複雑な手術だったので、将来的にまた手術しなければならないこともあるという話は伺っていましたが、けっこう順調に過ごせていたので、正直そのことは忘れかけていました。娘も私も突然のことに戸惑いましたが、先生方の「このままにしておいたら、悪くなることはあってもよくなることはないよ」というお言葉で手術をすることに決め、6年生の冬休みを少し早く始める形で、再手術となりました。

 手術はまたもやてっぺん越え、日付が変わるまでかかりました。そして、手術中のアクシデントで急遽人工心肺を予定よりも長い時間繋ぐことになって、身体的にかなりダメージを負ってしまいました。退院後も体調は思ったより良くはならず、保健室で休ませてもらうことも多くなりました。よろよろと何とか卒業式・入学式には参列したものの、中学校生活の始まりは順調とは言えませんでした。それなりに夢を抱き、「運動はできないから運動部には入れないけど、友達はみんなきっと運動部に入ると思うんだよね」「じゃあさ、マネージャーだったらできるんじゃない? お友達のフォローする役目」「それいいね!!」なんて話をしていたのに、学校まで行くのが精いっぱい、授業にはほとんど参加できず……どうしたらいいのかわからなくて、娘も私も辛い時期でした

 術後半年めのカテーテルで分かったのは、やっぱり手術がうまくいっていなかったこと。思ったより良くなっていないところや、新しく問題が発生しているところもあり、再々手術となりました。

 大きくなってからの手術は本人の負担が大きく、ICUで過ごす不自由さ、術後の痛みや具合の悪さをまた繰り返すのかとそれだけで憂鬱になっていましたが、「今度こそ元気になろうよ!」となんとか納得してもらいました。でも、術前入院までの1ヶ月の間に2回不整脈を起こし、入院してからは熱が出て手術延期。原因究明のためエコーを1時間ぐらい受けてようやく見つかったのは、人工血管の中でに大きく成長した疣腫(バイ菌の塊)。

 心内膜炎を起こしていました。カテーテルの時に感染したようでした。通常マークされている虫歯菌などではなく、その辺に普通に漂っているような菌だったので、血液検査でも見逃したとのこと。血流で移動した菌のせいで肺にも梗塞や膿瘍が起きていました。何の変哲もない菌で感染症を起こしてしまうほど、その時の彼女の体は弱っていたのです。1週間かけて菌を滅し、ようやく手術。前回上手く繋がった肺への人工血管も、感染した菌のせいで再び取り換えとなってしまいましたが、今度はうまくいきました。その後の感染症の治療も含め、中1の夏休みは棒に振りましたが無事退院。でもこの半年の闘病のせいでだいぶ体が弱ってしまったので、無理をせず疲れたら保健室で休ませてもらうことにして、学校生活に復帰しました。

 2年では、1泊2日の研修旅行にも参加できました。術後なので体育の授業と運動系の学校行事は見学でしたが、合唱祭には参加できました。順調かな、と思っていたその冬、初めて肺炎になり、瞬く間に悪化して緊急入院。2週間たってやっと治った時には、右の肺の半分が無気肺になっていました。肺の機能は著しく低下、今まで以上に息が切れるのが早くなり、体調も前より悪くなってしまいました。

 無気肺は、側弯症がひどくなり、背骨に肺が圧迫されたために起こってしまったものでした。心臓の再手術の傷に触ったり、痛みがあったりで、あまりコルセットをきつく締められなかったのが原因か、それとも心臓の調子が良くなって、身体がまた成長を始めたのと同時に、前みたいに背骨が曲がり始めたのか……理由はともかく、彼女の側弯症は、もはや経過を観察する段階ではなくなっており、今度は背骨の曲がりを矯正する手術を受けることになりました。

 病気の子どもを授かってから(幼児の頃は特に)、いつも最悪の場合を頭の隅に置きながら子育てをしていたように思います。調子が悪くなるたびに「絶対治す!」と声に出している一方で「このまま飛んでいってしまうかもしれない」と思っている私がいました。根治手術後、しばらくそんなことは考えなかったのですが、またこの二律背反みたいな思いが戻ってきて、「このまま体が弱っていって、動けなくなってしまったらどうしよう」と、いつも考えながら娘に付き添っていました。一番つらい本人が病気に立ち向かっているのに、そんなことを考えてしまう母は、冷たいのかもしれません。でも、最悪の時に呆然と何もできなくなるのは絶対に嫌だった。最善の結末を導き出すために力を尽くすけれど、同時に、最悪の結末が訪れたとしても、最後まできちんと始末をつけてあげられるように「覚悟」していようと思いました。自己防衛みたいなもの、でしたね。

 背骨の矯正の手術は、心臓と肺のことがあるので(「全身麻酔かけたくない」と麻酔科の先生に言われるほど、肺の機能が低下していた)、大学病院で小児科と心臓血管外科の先生にも待機してもらって、整形外科の先生に出向いてもらって行なうことになりました。3年の4月に入院。5月には修学旅行が控えており、先生方は「車いすでもいいから行こうよ、押してあげるから」と言ってくださいました。お友達もみんな「一緒に行こう」と言ってくれました。とてもありがたかったけれど、本人が「行ってもみんなについていけなくて迷惑をかけるし、何よりこんな体力では私も楽しめない」と言い、不参加となりました。手術は無事終了、私の「覚悟」は今回も発動しなくてすみました。ほっ。

 背骨の曲がりは可能な限り矯正しましたが、やはり傾きは残りました。体力も戻らず、結局中学校生活は最後まで、『朝遅れてよろよろ登校~保健室で休息~復活したら授業(3時間目くらいから)~力を使い果たして放課後保健室で休息~車でお迎え』のサイクル。半分も授業に参加できませんでした。今までけっこう順調に回復していると思っていたのに、ここにきてこう来るか、病気よ。ちょっとひどくないか? 今までできたことがだんだんできなくなっていくことの辛さ、切なさは私などが想像できるものではなかったと思います。我慢強くて泣きごとを言わない子でしたが、娘も自分の身に降りかかる理不尽さに憤っており、思わず涙を流したこともありました。こんなはずではなかったのになあ――私も娘もそう思っていました。でもまだ、終わらないんだなあ……。

 ≪続≫

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