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MLMを10年前にやってました。悲惨だったので聞いてください。vol.1

私は10年前にMLMを経験しました。

約4年間続けましたが、いいことも悪いこともあった。
結論から言えばこの経験が無ければ今の私はいないし、後悔はないが、これからまたやることはない。
この記事を読まれる人の中にも今、やってる人、これからやろうとしている人、身近な人がやっている人、様々だと思います。
何かの参考になれば幸いです。

※この話は長いので数回に分けます。


A社とスポンサーとの出会い

もう10年前のこと。
夢はあるけど人脈がない。そんな25歳の私。
彼との出会いはmixiだ。
当時はmixiが主流だった。
私はアパレルで働きながら将来は自分の店を出すという目的のために頑張っていた。
立地も良い店舗だったため売上や会員獲得は新入社員50人の中でもトップクラス、店舗ディスプレイやキャンペーンを考えたり、店長や副店長になるための勉強も先輩に教えてもらっていた。
しかし、圧倒的に足りないものがあった。
人脈だ。

いくら店を作っても人が来なければすぐに潰れる、逆に人脈があれば集客ができる。
安直だが本気でそう思っていた。

そしてSNSを使って人脈作りを始めた。
初めてSNSを使って初めて出会ったのがのちに僕のスポンサーになる彼だった。
今ではSNSからの出会いなんてそんなに珍しいものでもなくなったが10年前はまだまだマイノリティだっただろう。
我ながらよく行動したなとそこは褒めてあげい。

彼はカメラマンをしながらA社のビジネスをしていた。また高級レストランでウェイターもしてると言っていた。
「仕事を複数してるなんて凄い」
そう思った僕は彼と何度かお茶したり話をするようになった。

そして2010年の4月1日、私はA社のビジネスプランを聞き、すぐに登録をしたのだ。
理由は簡単、これで人脈形成だ。
そしてもう一つの理由、彼に魅力を感じていたんだ。
彼にはカリスマ性があった、一緒にいると人生が変わる気がした。
僕の人生に大きな影響を与えた人物、O氏。


会社辞める

登録をしたその日から、彼と彼のグループのメンバーたちと交流をした。
色々な人がいたが、歳も近かったのでそれなりに楽しかった。
職業も様々。ウェディングプランナー、介護士、教師、マッサージ、トヨタの社員なんかもいた。
いわゆるミーティングというものにも出席し、ビジネスへの理解を深めた。 
グループ外をみると老若男女さまざまな人がいた。そらそうだ、全国に80万人も会員がいるんだ。

ある夏の日、メンバーたちが東京でイベントがあると言うので私も行った。東京のA社の本社ビルに行き、六本木のお洒落なバーでイベントをした。
正直言って楽しかった。非日常だ。
恥ずかしい話、東京に行くのも修学旅行以来だった。
このイベントとほぼ丸一日メンバーと一緒にいた影響でビジネス意識がどんどん湧いてきいるのが自分で感じた。

東京から帰ったあと、スポンサーのO氏と打ち合わせを始め、
いわゆる100人リストと100個の夢の作成をした。
100人リストとはいわゆる顧客リストであり、友人や家族はもちろん、コンビニの店員とか過去の学校の仲間とかもう連絡先を取れないような人も書くのだ、100人書くのが重要で、100個の夢も行きたい場所や会いたい人など細かく書く。

そして準備万端、私は友人に勧誘を始めた。
何人も何人も断られた。当然だ、まだビジネスもしっかり理解していないし、製品もまだまだだ。一番仲の良かった高校時代からの友人には
『二度と顔見せるな!』と言われた。
何度も心が折れそうだったが、とにかく行動した。
何度もO氏に電話して相談して、挑戦した。

9月にはようやく3人のメンバーが入り、嬉しかった。
ここから俺のビジネスは大成功だ!そう思った。

こうなると仕事もあんまり身が入らない。
アパレルへの情熱がなくなった訳でないが、成績は落ち、遅刻も多くなった。
仕事が終わってもアポを取り、ミーティングがあれば名古屋駅まで行ってその後もアフターという名の仲間との食事。
仕事の方にかなりの疲れを感じ始めていた。

当時の私は13時から22時までのシフトで仕事が終わってからは何もできない、かと言って平日の朝に人とはなかなか会えない。

そしてあまり悩むことなく、アパレルの仕事をあっさり辞めてしまった。
私を育ててくれた先輩にろくに挨拶もできず、私の顧客様にも挨拶できず。
半ば強引に辞めた。

この時は3人もメンバーが入ったからまだどんどん増える。ビジネスで飯を食って、アパレルは趣味程度で仕事しよう。

なんて甘いこと考えていた。


両親との確執

仕事を辞めたことは母親にはすぐばれた。
しばらく前からビジネスを始めたことで不安に感じていたんだろう。
高い商品を家に置いたり見慣れない洗剤があったり。。。
父は当時、単身赴任だったが私宛に手紙が届いた。
内容は簡単に言うとビジネスは辞めろ、やるなら縁を切る、そしてネット上に集まっているA社の被害者の記事を数十枚プリントしたものが添えられていた。
分厚さで言えば3センチほどの書類の束だ。
父の思いを全く理解できなかった私は思いとどまることもしなかった。

ここまで心配されても私は逆にネタになる!なんて愚かな考えで家を飛び出した。
母には泣かれた。
アパレルの世界に入るのも両親はあまり賛成ではなかったがそれでも頑張ってる姿を見て安心してくれていたようだ。
その仕事をあっさり辞め、怪しい商売をしていると思われていたんだから今にして思えば相当親不孝だ。

すぐに家を契約するほどのお金もなかったのでO氏の家に飛び込み、数ヶ月置いてくれと頼み込んだ。

そしてここから約4年。
両親とはほとんど連絡を取らないことになる。


読んで頂き、ありがとうございます。
今日はここまで。
明日、続きをアップします。